3

 愛衣の体調に異変が生じたのは、合唱コンクールまであと二週間を切った頃だった。一限の国語の授業中。お腹の下の辺りがつねられているみたいに痛い。続いて頭痛もやってくる。

 次の授業は音楽。考えただけで気が重い。深いため息を吐くと、全身から力が抜けていく。

 移動教室の上に、女子たちは神経質になっていた。男子たちはパートで一致団結みたいな雰囲気になっているけれど、ソプラノとアルトには深い溝ができていて、そんなお気楽に考えられない。

 考えただけでお腹がきりきりきりと痛くなる。また小さく唸りながら体を折りたたむように机に突っ伏した。

「一之瀬ちゃん大丈夫? 具合悪い?」

 後ろの席の優香ゆうかが小声で尋ねてきた。生理痛だと小声で伝えると、優香ははっと口元に手をやった。それから机の縁にちょんと手を掛けて「大丈夫?」とさらに声を潜めた。立つことも辛いと言うと、優香はすぐさま保健室に行くことを勧めてきた。

「私から先生に伝えておくから」

「ありがとう、早河さん」

 優香は照れたように「いいっていいって」と両手を振って、階段のところまで愛衣に付き添ってくれた。彼女は距離が程よくて一緒にいて心地いい。誰にでもフレンドリーだが、あまり踏み込んでこない。けれど、さりげないところで気を遣える。菜摘なつみよりも学級委員にふさわしいんじゃないかと思った。

 優香の声が急に淀んだ。

「私も痛みは酷い方だし。でも、それで部活を休むって伝えると、顧問や先輩にすっごく怒られたなぁ」

「そうなの?」

「そうだよ。生理で休むなんて甘えだ、それくらい我慢しろってさ。でも我慢したら、貧血になって倒れちゃった。だから、酷いならどんなときであっても、休むのが一番だよ」

 いつも活動的で女子バスケ部でもエースをやっている優香が倒れたというのは驚きだった。今も、隠れて痛みを我慢しているのだろうか。少し、優香に親近感を覚えた。

「痛みが少なかったり、まったくない女の人の方が、理解ないことの方が多いよ」と優香は続けた。

「自分が我慢できたから、ってやつ?」

「そうそう。先輩にそういう人がいてね。我慢できないことないでしょ、私は我慢してるよって。それを経験したから、私は一之瀬ちゃんに、今、休むことを薦めます」

 階段のところまで来ると、手を振って優香は音楽室へと向かった。愛衣も階下にある保健室へと向かう。

 そのとき「アイちゃーん」と聞き慣れた声が聞こえて、眉を寄せた。くらりとめまいがした。麻美あさみが階段を駆け下りてくるのが見えた。

「次、音楽室だよ? どこ行くの?」

 答える気力も無かったが、弱いところを見せたくなかった。「保健室」と吐き捨てるように答える。

「え、体調悪い?」

「まぁ、そんなとこ」

 言葉を濁す。ため息も一緒に出てきてしまう。

「一緒に行こう」

「いい、一人で行ける」

 振り切るように足を速めると、下腹がきりきりと痛み出す。

「なに言ってるの。ついてくよ。友だちでしょ、私たち」

 心に杭がガツンと打たれた。優香がくれた優しい言葉が、べったりとペンキで上塗りされていく。友だちなんて、酷い言葉。何をするにも「友だちでしょ」と言ってしまえば許されてしまう。気持ち悪かった。

 結局、麻美は保健室まで付いてきた。二限の始まりを告げるチャイムが鳴っても、お構いなしだ。最悪。

 保険医の先生が麻美を追い返してくれた。

 愛衣の容態を聞いて、すぐさまベッドと湯たんぽを用意してくれた。ふかふかの布団を被る。温かい。湯たんぽを抱きしめて、布団の中で丸くなった。このまま眠って、全部忘れてしまえたらいいのに。スカートが、折りたたんだ脚に絡まった。


 二限の授業が終わって保健室を出る。薬のおかげか、痛みは治まっていた。

 三限目って何の授業だったっけ、と考えながら教室に戻ると「一之瀬さん、さっきの授業サボりー?」と、土川つちかわ隆史たかしに肩を叩かれた。愛衣より頭一つ分高い位置にある隆史の顔を見上げる。

「ちょっと体調が悪かっただけ」

「あー、そう。まぁ最近寒かったり暑かったりするもんねー」

 隆史は言い返せばすんなり引き下がってくれる。麻美とは大違いだ。それは、土川隆史がクラスのトップにいるからでもあるだろう。男子の格差も、見た目と部活でだいたい決まってくる。サッカー部や陸上部はもちろん、中学では珍しいラグビー部が上位を占めている。

 土川隆史はサッカー部であり、部活以外でもジュニアユースの選手としても活躍している。おまけに顔も頭脳も良い。まるで少女漫画に出てくるイケメンが出てきたみたいな生徒だった。そんな生徒がクラスのトップにならないわけがない。

「ねぇねぇ一之瀬さん。一之瀬さんって好きな人いるー?」

 隆史と同じサッカー部の男子が、愛衣の席の前に立った。

「いると思う?」

「わからないから聞いてるんだけど」

 なんでそんなことが気になるんだろう、と心の中で首を傾げた。「いないよ」と答えると、彼は不思議そうに目を見開いた。

国枝くにえだは?」

 思わず「悠馬ゆうま?」と愛衣も彼を見上げた。

「ほら、名前で呼んでる。それに同じ部活だし」

「悠馬とは生まれた病院からの付き合いの、幼馴染みなだけ。親も仲良いし、たまたま同じ部活だっただけ」

「なーんだ。ってことは、今フリー?」

 軽い聞き方に、大樹の高校の文化祭で絡まれたことを思い出した。偏見かもしれないけど、こういう人があんなふうになっていくのかもしれない。

「とりあえず、付き合ってるとか、ないから」

「ふーん、あ、そう」

 それだけ言って男子は去って行った。すぐさま「隆史ー、一之瀬さん付き合ってる人いないってさー」と耳に届いた。

 気づかれないように、さっきの男子を睨んだ。質問に答えたのにお礼もないのか、それに明らかにお節介が過ぎる、と嫌なものが胸に溜まってしまった。

 隆史は「なに聞いてんだよー」と笑いながらも、少し頬が紅くなっていた。話題に上がった悠馬の方を見ると、聞こえていたのか、隆史の方を睨んでいた。うるさい、と目が言っていた。

 女子の方も同様だ。まるで貴重な情報のように集めて回っている。誰が誰のことを好きなのか。興味があるのか。付き合っているのか。そんなことを知ってなにが楽しいんだろう、と常々疑問に思う。そんな中から出てくるのは、わざわざ恋のキューピット役になって、くっつけようとする人たちだ。クラスに二人はいる。男子に一人、女子に一人。決まって学校行事と平行して現れ、雰囲気的にお似合いの男女をくっつけたがる。ただすれ違っただけでも冷やかされる対象になる。

 すっと、教室内を見渡す。首筋の辺りがちくちくしてきた。


 ペキッ、と原稿用紙の上でシャープペンシルの芯が折れた。これで五回目だ。眉を寄せると、隣で同じく作業をしている夜鷹が心配そうに愛衣の方を見た。

「愛衣ちゃん先輩、ちょっとイライラしてます?」

「そう見える?」

「見えます」

 何を根拠に言ってるんだろう。夜鷹の頭を撫でると「ひゃっ」と小鳥みたいな声を出した。不意に、背中からむぎゅっと誰かに抱きつかれた。長い三つ編みが見える。鐘花だ。

「どうしたの?」

「イライラには、ぎゅーってするのがいいって聞きまして~」

 穏やかな声がそう答えると「鐘花それはずるいー、私も私もー」と文乃も横から抱きついてきた。シャンプーだろうか、二人からそれぞれいい匂いがした。少し硬い文乃の髪と、ふんわりと柔らかい鐘花の髪を撫でると、それはまた一層強く薫った。


  §


 十月の前半から十一月の後半まで、校舎内は歌に満ちあふれている。合唱コンクールを前にして、みんないろんな意味で高揚している。

 風夏は原稿用紙にシャープペンの先をたたきつけながら聞いていた。原稿をするときの風夏の癖だ。図書室にまで練習してくる歌声が聞こえてくる。この曲は『時の旅人』だ。でもちょっと勢いがない。これは入賞も無理かな。

 雲が流れていく。黒い雲だった。確か夜に雨が降ると言っていたけど、少し早まるのかな。風がごうと音を立てていた。

 図書室の窓辺の席で隣でかりかりとペンを走らせていた愛衣が、ふにっと風夏の頬を突っついた。

「風ちゃん、鼻歌」

「え? あ、歌ってた?」

「うん。楽しそうに」

「あちゃ」

 うっかりと風夏は口を閉じた。

 クラスの課題曲である『春に』は、風夏自身も結構気に入っている曲だった。それだけでなく、敬愛する谷川俊太郎が作詞しているのだ。気合いが入らないわけがない。

 愛衣が気にしたようにこちらを見ていた。

「ん? どうしたの愛衣ちゃん」

 愛衣の視線が泳いでいる。それから戸惑っている声でぼそりと言った。 

「風ちゃん、合唱練習、楽しい?」

「え?」

「私、今歌うことが楽しくない」

 このところ愛衣は学校に来るのが楽しくなさそうに見える。昨日、合唱コンクールの練習がうまくいかず、女子同士で対立しているって言ってたっけ。

「愛衣ちゃんは、歌うの嫌い? 私はねー、愛衣ちゃんがここでよく鼻歌を歌ってるの知ってるよ」

「ちょっ、なに急に」

 愛衣の頬がかぁっと赤くなる。

「歌うことが嫌いな子は、そもそも鼻歌なんて歌わないよ」

 それでも愛衣は口をつぐんだままだ。

「さくら さくら」

 ファルセットで一節口ずさんでみる。

 愛衣を見ると、不思議そうに瞬きをしていた。そして恐る恐る口を開いて、続きをゆっくりとソプラノで口ずさむ。

「やよいのそらに」

 風夏はにっと口角を上げて見せた。

 

 さくら さくら やよいのそらに

 みわたすかぎり かすみかくもか

 あさひににおう

 さくら さくら はなざかり


 誰が作ったのかわからない、日本の童歌わらべうた。ハモりは風夏が愛衣の声に合わせただけ。それでも調律することで綺麗なハーモニーになる。

「私は愛衣ちゃんとこうして歌うこと、好きだなぁ」

 むーっ、と愛衣は唸りながら「それはずるい」とぷいとそっぽ向いた。たこ焼き一個分くらい頬がふくれた。普段からクールに振る舞ってる分、可愛く見えて思わず頬がにやける。

 図書室の扉が開いたと思ったら、大きな足音を立てて書架の間から女子生徒が現れた。リボンの色が緑青ろくしょう色だから、二年生だ。

「星野さんいますか? 同じクラスの、学級委員の片平かたひらです」

 女子生徒は、ロッキングチェアに座って国語の教科書を眺める音莉を見つけると、さっと駆け寄った。

「星野さん、合唱コンクールに、星野さんにも参加してもらいたいと思って。クラス代表でお願いに来ました」

 音莉は答えずにつんとそっぽを向いた。

「今、ちょうど教室で練習しているんだけど、これ楽譜。星野さん、とても可愛い声してるから、入ってくれたらきっとみんな喜ぶと思うし……」

「嫌です」と音莉はきっぱり遮った。険悪な雰囲気を肌からにじみ出している。

「今まで音莉のことを気にもかけてくれなかったくせに、なんで急にそんなことを言い出すんです? 委員長?」

「な、なんでって……星野さんもクラスの一員だし……クラスの絆も深まって、きっとクラスにもなじめるようになると思って」

 今度はため息が大きく吐露される。「あっきれた」と鋭い声が飛んだ。

 風夏と愛衣はまだ干渉はしないとアイコンタクトを取った。音莉の口が悪いのは風夏も知っているが、ものも言い様じゃないのかなとも思った。夜鷹は当事者の音莉よりも汗を流しながらはらはらと成り行きを見守っている。悠馬と花鶏に関しては、完全に無視していた。

「友情がどうとか絆がなんだとか、そんなこと押しつけて歌うことが、音莉のいい思い出になると本気で思ってるんですか?」

「でも、ずっとこんなところにいるよりは、星野さんのためにも……」

 音莉の目がかっと恐ろしく開いた。

 女子生徒は言ったのだ。

『こんなところ』と。

 風夏をはじめ、少し風変わりな人たちが集えるこの場所を『こんなところ』と言われたのだ。風夏の体の中で、ピシッとなにかひびが入る音を聞いた。たぶん、それはこの場にいる部員たちも感じたのではないか。

 音莉の毅然とした口調にも歯止めがきかなくなってくる。

「委員長。今、『こんなところ』って言いました? 音莉にとってはここが『学校』なんです。どこにいたいかは音莉が決めます。いくら委員長や先生たちが『星野さんのため』って言ったって、とどのつまり、委員長自身のためでしょう?」

 音莉の棘の入った物言いに、女子生徒は半分涙目になっていた。やれやれ、と風夏は重い腰を上げる。

「音莉、ストップ」

「だって部長、この人が友情なんて不確かなもの押しつけようとしてくるんですもん」

 音莉はふてくされた顔でそう言うと、またつーんと猫みたいにぷいっと横を向く。

「こら。それでも来てくれたんだから、そんなきっつい言い方しないの」

 がしゃがしゃと音莉の頭をなでると「きゃー」とかわいらしい声を上げた。その様子を見ていた女子生徒は、お腹のあたりで両手を握りしめて小動物みたく震えていた。

「音莉がごめんなさいね。でも、音莉の言い分も聞いてあげて」

 愛衣が女子生徒に歩み寄って、そっと肩に手をかけた。女子生徒はその手を振り払い、なにも言わずに図書室を走って出て行った。

「あ、」と愛衣が声を上げた。

「いいんです、愛衣ちゃん先輩」音莉が頬を膨らませる。「いいんです……音莉は、ここがいいです」

「私のクラスにも、あの子と同じようなことを言う子がいるわ」

 愛衣も諦めの声で言い、眉を寄せて目を伏せていた。音莉と愛衣の表情を見ていると、風夏もどうしても顔を歪めてしまう。

 心臓が痛い。

 歌は言語を超えて心を通い合わせるツールだと、チャリティーなんかでよく謳われる。

 でも一人一人の歌を合わせてハーモニーを作る課程で、まさかのディスコードが発生するなんて。

 課題曲の『春に』にこんな歌詞がある。


 心のダムにせきとめられ

 よどみ 渦巻き せめぎあい 

 いま あふれようとする


 そんな中で作り上げられるハーモニクスは果たして綺麗であるのかな。

 雨粒が一つ、ぱちんと窓に当たって砕けた。 

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