2

 暗くなっていた部屋の電気をつける。九月まではまだ明るかったはずなのに。鞄をベッドに放り、花鶏あとりもそのまま倒れ込んだ。柔らかい柔軟剤の香りがする。家政婦の好みの匂いだ。控えめなカモミールの匂い。

 花鶏の生家である瀬呂せろは、クラシック界では有名な家柄だ。父は指揮者、母はオペラ歌手、姉はフルート奏者、兄は天才ピアノ少年。その末息子が花鶏だった。そして出来損ないなのも、花鶏だった。

 制服を脱いで私服に着替えたところで、控えめなノックの音が聞こえた。軽く三回は、家政婦の文香ふみかだ。

「花鶏さん、お帰りなさいませ」

 文香が洗濯物を持って、戸口で一礼した。

 くるぶしまである深緑色のワンピースに生成り色のコーヒーエプロン姿は、古風だがよく似合っている。聞いたところによると彼女はまだ大学生で姉の友人らしい。

「ただいま。洗濯物ありがとうございます」

 文香から洗濯物を受け取ると、シーツと同じカモミールの香りがした。

「今日も、学校お疲れ様でした。勉学の調子はいかがでしょうか。差し出がましいとは思いますが、わたくしでよろしければ、お教えしますよ」

「ありがとう。でも今は大丈夫です。今週から学校主催の合唱コンクールの練習が始まるので、今日よりも帰るのが遅くなるかもしれません」

「合唱ですか。それは楽しみですね。花鶏さんは、どのような楽曲を歌われるのですか」

「『あの素晴らしい愛をもう一度』です。それで、俺がその伴奏をすることになりました」

 すると文香は「まぁ」と静かだが、自分のことのように頬をほころばせた。

「花鶏さんが伴奏を。それは是非、わたくしも観覧したいものです」

「大げさです。それに三年生は午後からで、俺のクラスの順番も遅い方ですから」

「それでも見聞を広めるには、各々の歌声を聞いて、そこから得るものも、多いのではないでしょうか。わたくしもまだ学生の身、経験を積み、感性を広げる年代ですから……あ、わたくしったらつい……おしゃべりが過ぎました」

 はっと口元に手を当てて文香が慌てる。それでもどこか楽しそうだ。

 花鶏よりも十センチ高いが、文香は物腰がとても柔らかかった。良家のお嬢様と言っても通用する。身なりにも言葉遣いにも気を遣っていて、その清楚さも姉の小夜鳥さよりよりも十倍こっちの方がいい。

 学校でもらってきた課題曲の楽譜を鞄から出す。もらって間もないが、マーカーや色ペンで書き込みがたくさんあった。自分なりに目を通して、花鶏が書き込んだものだ。

 楽譜を見ることは、花鶏にとって小説を読むことと同じだ。クラシック界で重鎮の立ち位置にある瀬呂家で育った花鶏には、楽譜の音符が文字や言葉に見えた。

「あ、文香さん。今、ピアノの部屋は誰か使ってますか?」

 ええっと、と文香の指先が顎を突く。

「今は、誰も使ってないと思います。あ、花鶏さん、お使いになられますか?」

「えぇ。伴奏の練習に」

「では、ピアノのお部屋に、ハーブティーをお持ちしましょう」

「お願いします」軽く頭を下げると、文香は「いえ、これもわたくしのお勤めですから」とやんわり微笑んだ。


 空調の効いた防音室には窓がない。煌々とLEDライトの白い光だけだ。その中央にまるで怪物が眠るみたいにグランドピアノが鎮座していた。

 白鍵に指を滑らせる。軽くアルペジオを鳴らす。花鶏がピアノを弾くのはかれこれ三年以上も前だが、指はすぐに感覚を取り戻してくれた。

 手慣らしにフレデリック・ショパンの練習曲を鳴らす。第三番ホ長調『別れの曲』。そういえば、一時期この曲ばかり弾いていた。もの悲しいけれど、どこか懐かしさがこみ上げてくる。

「『別れの曲』か」

 文香とは違う声に花鶏は指を止めた。入り口の方に目をやると、兄の美鶴みつるが楽譜を持って立っていた。

「おまえが使うなんて聞いてないんだけど。てか、何? おまえピアノ弾けるの?」

 美鶴はかつかつとやってきて、花鶏の楽譜を見つけてふんだくった。一気に花鶏の喉の筋肉が引きつって、声を出すことを拒否し始める。

「なにこれ。『あの素晴らしい愛をもう一度』? 低俗ていぞくの曲だな」

 一目見ただけで美鶴は虫けらでも見るような目で花鶏を見見下ろした。

「合唱、コンクールの、伴奏だ」

 切れ切れになりながら声を出すが、美鶴は「できるわけないだろ、おまえに」とさらに大きな声を出した。

「あら、美鶴さんもいらしたのですか」

 ふとドアが開いて、文香がお茶の用意を持って入室してきた。しずしずとピアノの脇のテーブルにトレイを置く。

「練習の方は順調ですか、花鶏さん」

 声も出せずに花鶏は頷くばかりだ。みっともない。その代わり美鶴が頬を紅潮させて意気揚々と語り出す。

「文香さん、今日も素晴らしい天気ですね。これから僕がフランツ・リストを演奏するのですが、ぜひ貴女に聞いてもらいたい」

「はぁ……えっと、でも確か、夜から雨だと、天気予報は言ってましたが……それに、今は花鶏さんがこの部屋を使いますので」

 美鶴の誘いを、文香は戸惑いながらもおっとりとした口調でかわす。すると美鶴は約束を破られた子どもみたいに拗ねた顔をして、花鶏に聞こえるように舌打ちをした。

「花鶏さんが終わりましたら、わたくしが美鶴さんを、お呼びいたします。あ……お茶の支度を、お部屋にお持ちしましょう」

 それだけで美鶴は上機嫌になって「では、お待ちしております」と恭しく文香に頭を下げて防音室を出て行った。これではどちらが主人なのかわからない。

 文香がカップに紅茶をつぎながら「お声の方は、大丈夫ですか?」と聞いてきた。喉に手をやる。さっきよりは痛みもない。

「だい、じょう……ぶ、です」

「無理は、よくありません」

 心配そうに眉を寄せる文香に花鶏はそっと微笑んだ。


 花鶏は、家族や親族の前で声が出せなかった。声を出そうとすると喉に痛みが走り、無理に声を出せば血を吐き出す。

 生まれたときから海外で活躍できるよう、この家では英才教育を受けさせられる。

 生後半年で英語をはじめ、フランス、ドイツ、ロシア等のCDを耳に流し込まれた。ピアノ、バイオリン、フルート、トランペットなど、あらゆる楽器の適性を調べ、その適性が強い楽器のレッスンを行った。

 姉の小夜鳥さよりはフルートで、兄の美鶴みつるはピアノでこのレッスンを通過してそれぞれ世界で活躍している。一方でヴァイオリンを与えられた花鶏は脱落した。

 花鶏が五歳の時、日本語禁止の幼稚園の教室で、四十度近い高熱を出した。後からわかったことだが、幼少期の過度な英才教育が脳の発達を妨げたらしい。主治医からそう聞いた。それ以来、花鶏は英語はおろか日本語も話さなくなり、それに伴って感情までも欠落し始めた。

 普通の保育園に転入してから、なんとか言葉を話すようになったが、未だに家族や親族の前では緊張か脳の影響か、声を出すことができない。

 文香はこのことを知っている。初めて花鶏と会ったとき、彼女はゆっくりと告げた。

「ゆっくりで、大丈夫です。わたくしは、花鶏さんの親族では、ありませんから。もちろん、口外もいたしません。ですから、花鶏さんの思ったときに、思ったことを、お話しください」

 その言葉にどれだけ救われただろう。初めて家の中で涙を流した覚えがある。それから、文香は花鶏の近くにいるようになった。


 もう一度、練習曲の『別れの曲』を弾く。白鍵と黒鍵に指を滑らせると、なめらかに動く。すっかり動きを思い出していた。

「『別れの曲』、ですね」

 文香がそっと目を閉じる。花鶏もつられて瞼を閉じた。


  §


「ねぇっ、いい加減にしてよ委員長ッ!」

 音楽の授業中に金切り声がびりびりと響いた。視線が一気に声のした方に注目する。アルトパートの練習場所で、合唱部の横川よこかわさくらと委員長の菜摘なつみが対峙していた。桜は険しく菜摘を睨み付けていたが、菜摘は「え?」と首を傾げて困ったように眉を寄せていた。

 桜はクラスの中でも大人しい子だ。彼女がいるグループは、小動物みたいにみんな小柄で目立たないし、自ら目立つこともしない。そんなグループの桜が、荒々しく声を上げたことにクラス中が驚いていた。

 桜は口をきっと結んでいたが、勢いよく開いた。

「こっちはアルトなの。委員長がソプラノでしょ? 自分のとこの練習したらどうなの?」

「でも、ソプラノもアルトも同じ女声なんだから、一緒のペースで練習した方が足並みは揃うと思うの」

 やわらかく微笑む菜摘に苛立ったのか、桜の歯ぎしりが聞こえた。

「それは全体練習でできることでしょ? アルトにはアルトの声の出し方だったり、歌い方があるの! 口出ししないでよ!」

「でも……」

 菜摘はまだ、何を怒られているのかわかっていないみたいに顔をしかめて小首を傾げる。もぞもそと腕時計のバンドをいじり、何度目かの「んー」を繰り返す。

 居たたまれなくなって、愛衣は菜摘の腕を引っ張った。

「ソプラノの練習が止まってる」

 菜摘はしぶしぶ頷いて引き返してきた。桜もまだ何か不満なのか、顔をしかめてこっちを見ていた。

 そういえば、合唱コンクールの時期は合唱部が力を持ち始めることを今更ながらに思い出した。ましてや、強豪校として知られているから尚更で、一生懸命の度合いがクラスメイトとは異なるのだ。

 横目で桜を見る。ざわざわと胸の奥に風が吹いた。

 菜摘委員長と合唱部の衝突は、放課後の練習でも回数を増して起こっていた。その都度、菜摘は困ったような笑顔を見せていた。


  §


 音楽室を後に使用としたとき、夜鷹よたかは音楽の担当の先生から声をかけられた。生徒全員がいなくなったのを見計らって、ピアノのいすに座った先生が夜鷹を心配そうに見上げていた。

「夜鷹くん、この歌、歌いにくい?」

 夜鷹は先生が何を言おうとしているのかすぐにはわからずに「いいえ」と首を横に振った。

「そう? ならいいんだけど」

 少し考えて先生はまた夜鷹を見上げた。

「あのね、夜鷹くんだけ声変わりしていないような気がするんだけど、違う?」

 そこで夜鷹は内心ぎくりとした。夜鷹はまだ声変わりをしていない。低い声も出るがもともと地声が高いからか、歌うときも高い方の声が出やすい。意識しないと低い声を出せないのが、今の現状だ。

「確かに、そういう点でなら歌いにくいと思いますけど……」

 そこで口をつぐんだ。それでも夜鷹はハーモニーという点では困らなかった。なぜなら歌うなと同級生に言われていたから。声変わりを済ませたクラスメイトの男子たちは、独り異色の声を持つ夜鷹を排除しようとしていたのだ。

 それでなくても夜鷹はいじめの標的ターゲットだった。 主な原因がその容姿だ。頬に大きなガーゼを貼り、制服の内側に包帯を巻いている。さらにその包帯の内側には酷い痣がある。

 生まれつきで自然治癒が難しい単純性たんじゅんせい血管腫けっかんしゅだと診断されていた。この痣が原因で、夜鷹は日常的ないじめを受けていた。だからほぼ毎日、机に落書きされるのはもちろん、精神的なものだけではなく、暴力性の強い場面もある。

 それに慣れつつあることを意識すると、少し恐ろしさに身が竦んだ。

「夜鷹くん、アルトの声って出せる? 男子テノールはアルトに似ているから、もし夜鷹くんが良ければ、アルトに変更しても良いと思うのよね」

 唐突に先生に言われたことを、夜鷹はまたてんで理解できなくて何度も瞬きをした。反射的に尻込みをした。文芸部の風夏ふうか部長よりもぶっ飛んだことを言う先生だ。

 合唱コンクールは名前ばかり華やかで実際は戦場だ。学年の誰もが金賞を目指すものだから、他のクラスを蹴落としてでものし上がる形ができあがる。

 そのことを昨年経験した夜鷹は、先生が言っていることに不穏しか感じなかった。

 アルトとはいえ、女子の中に男子が混じるのだ。そして言ってしまえば、文芸部で一番発生や声質がいいのが夜鷹だ。言い換えれば、女子よりも言い声で歌うということだ。

 そんな夜鷹が女声に参加すればどうなることか、火を見るよりも明らかなはずだ。それ以前にクラスでの夜鷹の立場も影響してくるだろう。ふと、制服に包まれた腕に手をやって視線をそらす。

 さっきの休み時間に同級生に殴られた箇所が、じくじくと思い出したように痛み出す。

「男子がアルトを歌って、目立たないでしょうか」

 おずおずと聞くと、先生は「大丈夫大丈夫」と気楽そうに言いのけた。

「ウィーン少年合唱団みたいに、声変わりしてない男子は練習すればソプラノだって歌えるのだから、夜鷹くんだってやればできるわ」

 できるできないの問題じゃないと思うんだけどなぁ。質問の回答になっていなくて、もういいです、と心の内で言った。口には出さなかったが、あきれた風に目を閉じた。

 音楽室を出て、自分の喉に手を当てる。

 先生はきっと、歌うことに男子も女子も関係ないと言いたかったのかもしれない、と反芻した。でも、この合唱コンクールでは通用しない。そう思ったのは夜鷹のなんとなくの直感だ。

「声変わり、かぁ」

 声が変われば、このいじめはなくなるのかな。なんて、変わるわけないか。

 左頬を覆うガーゼに手をやる。殴られてもいないはずなのに、鈍く痛んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る