2章

1

 夏休みが終わったころから話題になっていた、合唱コンクールのクラス曲が決まった。

「私たちのクラスは『信じる』に決まりましたー!」

 今朝のホームルームで、学級委員長の二村ふたむら菜摘なつみが教壇に上がってそう伝えると、教室のあちこちから歓声だったり文句だったりの声が飛ぶ。

『信じる』は詩人・谷川たにかわ俊太郎しゅんたろうが作詞した曲で、曲調が激しく変化していく。愛衣は歌詞に惹かれてこの曲を第一希望にしていた。

「はいっ、文句は言わないで。この曲で金賞を狙いましょう!」

 菜摘が元気よく声を上げる。

 菜摘は愛衣と同じ小学校出身で、小学四年生の頃から中学校生活の三年間も含めて、毎年学級委員長を務めている。それだけ菜摘に信頼があるのだろうが、第一要因は彼女の容姿にあると愛衣は思う。

 一言でいうと菜摘は美人だ。ぱっちりとした二重に桃みたいにふっくらした頬、一つに結った髪もさらさらで、クラス公認の美人だ。それに加えて優等生であり、協調性もある。誰にでも声をかけ、世話を焼くようにくるくると走り回っている。クラスメイトがみんな平等になるように奮闘しているのだ。それこそ、いじめなんかが起こらないように。

 そんな菜摘の姿はクラスのどこにでもあって、正直、愛衣は彼女があまり好きじゃなかった。


 放課後の文芸部でも、課題曲の話題で盛り上がっていた。風夏が「私のところは『春に』になったよー」と教えてくれた。

「あー、でも『信じる』も捨てがたかったなぁ。あの複雑なハモりは、やってみたかった」

「やっぱり三年生になると、難しい曲が多いんですか?」

 魔女先生が差し入れてくれたハーブティーを飲みながら、文乃が尋ねる。半袖の上に黒いカーディガンを着て、熱いお茶をふーふーしながら飲む彼女はまるで黒猫みたいに見えた。

「合唱になれてくるからかな」

 課題曲の選曲は、学年ごとに違う。『cosmos』や『聞こえる』みたいに壮大な曲は、三年生以外に歌われているのを聞いたことがない。文乃は『君をのせて』、鐘花は『心の瞳』になったらしい。簡単だが、歌い方次第では素晴らしい合唱になる。

「あ、そうそう愛衣ちゃん。花鶏のクラス、何になったと思う? なんと! 『あの素晴らしい愛をもう一度』だって!」

 テーブルから身を乗り出して風夏が饒舌に話し出す。

「へぇ、結構マニアックな選曲したんだ」

「でしょ? そう思うでしょ? あの花鶏がよ?『あの~すば~らしい~あ~い~を~』なんて歌ってるの想像しただけで可笑しくって!」

「なにが可笑しいだって?」

 風夏の後ろ。愛衣は知らない顔をしてみせる。両足を大きく踏みしめて、頬が引きつった花鶏が仁王立ちしていたのだ。風夏はわざとらしく肩を強張らせる。

「や、やぁアトリくん。今日はとってもいい天気ダネ」

「残念ながら今日の天気は曇りで太陽なんか見えないんだが?」

「あ、あははははは、鳥目だから見えないんだね~ かわいそっ」

「聞こえてっからな今の!」

 指の関節をポキポキ鳴らしながら花鶏の声が低く響く。その場にいた者は、互いに顔を見合わせて肩をすくめた。花鶏と風夏は幼稚園からの幼馴染みで、本人たちが言うには腐れ縁だとのこと。

「相変わらずですねぇ、部長と花鶏先輩」

 のんびりとした声で夜鷹が原稿から顔を上げた。隣で愛衣もため息を吐いた。


  §


 陽が落ちるとすっかり肌寒くなってきた。

 悠馬は湯冷めしないようにカーディガンを一枚羽織って、また自分の机に向かって座った。目の前にある原稿用紙に、万年筆で書きかけの物語を書き記していく。この万年筆は二年前、中学入学の際に父がくれたものだった。大人びたミッドナイトブルーが、原稿用紙の上をさらさらと踊る。

 悠馬が小説を書き始めたのは、中学に上がってからだ。それまでは読む方が圧倒的に多く、部屋の本棚にも収まりきらないほどの本が収まっている。

 悠馬の本棚はジャンルが偏ることなく埋まっている。日本文学、海外文学、政治経済、医学書、生物学書、天文学書と堅苦しいものから、漫画、アニメ、オカルト、サブカルチャーといった娯楽ものも多数ある。すべて悠馬が読み終えたものばかりだった。

 その知識を駆使して作品を書き出すようになったのは、幼なじみの一之瀬愛衣が文芸部に入ったからだ。彼女は、書くことを目的として文芸部に入部した。それから悠馬もつられて書き始めたのだった。

 書いている部分が一段落して、悠馬はのけぞって大きく背伸びをする。

「今日はここまでにしておくか」

 原稿用紙を片付ける際、教科書で埋まる一角に目が留まった。合唱本を本棚から抜き出し、ページをめくって『信じる』のページを探す。今回の課題曲だ。音符を見ているといらいらしてきた。意味をなさない言葉。それには感情がない。ピアノの鍵盤を一つ鳴らすだけで、一つの音としかとらえられない。

 ようやく目当てのページを開く。『信じる』の題名を指でなぞる。信じる。なにを?

そんなに無邪気に信じることなんてできるのかな。

 真新しい原稿用紙を出して、再び机に向かう。掲載されている歌詞を書き写し始めた。こうすることで歌詞の理解の曖昧さをなくすことができる、らしい。先代の部長が言っていた。

 シャープペンじゃなくてボールペンや万年筆を使えと言ったのも先代の部長だった。書きかけの紡ぎ諦めた言葉を、消しゴムで消してなかったことにするな、と言われたのが衝撃的で今も耳の奥に声とともに残っている。

 『 笑うときには 大口開けて 

   怒るときには 本気で怒る 

   自分に嘘がつけない私

   そんな私を私は信じる   』

 ペン先が紙に引っかかる。自分の心情にリンクしたのか。引っかかったところにインクが溜まっていた。指でなぞると速乾性のはずのインクがべたっと指にくっついた。

『自分に嘘がつけない私』というフレーズがどうしても気に入らない。自分自身に嘘がつけない人間なんているものか。人差し指についたインクを親指で擦る。指の腹に、じわっとブルーブラックが広がった。

 信じるという言葉が昔から嫌いだった。

 それはよく小説に出てくる言葉で、期待を裏切らない。都合の良い言葉の一つだと、悠馬は思う。大人はいつも子どもとの約束を反故にする。

 信じて期待してそれが叶うなら別に気にもとめない。でも大半は信じて期待して、その果てに最悪の形で裏切られる。登場人物たちの思いを知らないで、書き手の思うがままにストーリーは進む。

 人間はこの展開を非常に好んでいると、悠馬が思うようになったのは小学五年生のときに、宮沢賢治の『よだかの星』を読んだときだ。

 鷹に、名前を変えなければ殺すと脅迫されて、慕われている翡翠かわせみと別れ、太陽や星に一生懸命に願っても軽くあしらわれた挙げ句、自殺ともとれる方法で星になったよだか。そのときのよだかの口元は笑っていたように見えたとあった。けれど悠馬は胸の内が燻るばかりだった。

 自分の意思を殺して黙ってその身を差し出せば、他人が感謝してくれるものか。鷹はきっと邪魔なやつがいなくなったと清々するだろうし、残された翡翠かわせみは信頼できるものがいなくなったのだ。いったいどれほどの絶望だろう。自己犠牲なんて単なるエゴだ。

 それからだろうか。むやみやたらと熱血に「信じる」を繰り返すクラスメイトや先生たちを、疎むようになったのは。

 悠馬は歌詞を書き写した原稿用紙をつかみ、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。

 かさっ、とゴミ箱に入ったところで、玄関から声が聞こえた。姉の悠希ゆうきがバイトから帰ってきたらしい。

 とんとんとん、と階段を軽快に上がって来る音が聞こえる。それから自分の部屋に行く前に、ノックもなしに悠馬の部屋に入ってくる。

「ただいまー、悠馬」

 シフォンのトップスに空色のフレアスカート。見た目重視の白いコートを羽織った悠希は、現役の女子大学生で塾のアルバイトをしている。

「入ってくるなよ」と言えば、悠希は「わー、反抗期のまっただ中だ」とかほざく。まっさらな原稿用紙をぐしゃっと軽く丸めて悠希に投げつけた。

「お母さんから聞いたよ、合唱コンクールあるんだって?」

 何も答えない悠馬に悠希は陽気に話しかける。この社交性の強い姉が、悠馬は大嫌いだった。

「今年はお母さんは行けないみたいだから、代わりに私が」

「来てくれなんていつ頼んだよ?」

 声を低くするだけで悠希は黙った。

「悠馬、声、低くなったね」

「それがなんだよ。鬱陶しい。出てけよ」

 悠希はなんだか寂しそうに項垂れて、部屋を出て行った。ドアを閉める前「悠馬。愛衣ちゃん、おんなじクラスなんだっけ」とだけ聞いてきた。答えなかった。

「早く寝なよ」

 それだけ言って、今度こそ悠希はドアを閉めた。

 幼なじみの愛衣は、小さい頃よく家に遊びに来ていた。そのときは悠希にせがんで、絵本を読んでもらったりしていた。愛衣も、彼女の兄の大樹も悠希に懐いていた。

 反抗期。それだけの言葉で片付けるな。反抗期を知らずに母の敷いたレールをただ辿ってきた姉は、いつの間にか大人の仲間入りをしていた。おしゃれをして恋人を作り、金を稼いで家に入れる。そしてまだ子どもの悠馬を「反抗期」と位置づける。

 声、低くなったね。

 姉の言葉を反芻する。喉に手をやる。

 声変わりしたのは二年前、中学に上がった年だ。一緒に暮らしていて気づきもしなかったのか。社交的にもかかわらず、あのおどおどとした態度も気にくわなかった。

 体がかっかと熱くなり、羽織っていたカーディガンを脱ぎ、ベッドに放り投げた。

「愛衣の方が先に気づいてくれた」

 悠馬の虚しさが混じった声を壁が吸い込んでいった。 


  §


 各クラス、課題曲が決まったところで練習が始まり、校舎内は合唱の声が響くようになる。音楽の授業は全面的に練習時間に充てられる。発声練習として『夢の世界を』を歌ってから、ソプラノ、アルト、男性のパートごとの練習を始める。愛衣はソプラノパートで、パートリーダーは委員長の菜摘だった。

「愛衣ちゃんどう? わからないところとかあった?」

「大丈夫。今のところ問題ない」

「ならよかった!」

 MDの音源を止めて菜摘が尋ねる。一人ひとり確認してから次の練習部分を始める。全体に質問しにくかったり、指摘しづらいことも一対一なら話しやすい。いろいろとアドバイスも授けている。

 これはこれで言い練習方法だ。でも一方で、菜摘はアルトパートの方へも出向いていく。アルトには合唱部が二人もいるから、わざわざ見に行かなくてもいいのではないかと、愛衣はひやひやしながらその様子を見ていた。

 音楽の授業が終わると、とことこと麻美が屈託のない笑みを浮かべてやってきた。

「ねぇアイちゃん、放課後一緒に練習しない?」

「麻美さんって、アルトじゃなかった?」

「そうだけど、でも声を合わせるのって必要でしょ?」

 菜摘の言葉を使っていた。この場所から逃げ出したかった。息が苦しくて、唾が上手く飲み込めない。愛衣は足を速めて麻美から離れた。

「部活があるから。声を合わせるのは大事だろうけど、今は自分のパートを覚えたい」

 文芸部に行くのは後輩たちに癒やしを求めているのもある。学校行事があるときは大抵、後輩たちの癒やしが欲しくなるのだ。これは風夏も言っていることだが、どうして後輩はこうも可愛く見えるのだろう。

 しかし麻美は口元を歪めただけだった。

「部活と合唱コンどっちが大事なの? アイちゃんってさぁ、ほんと協調性ないよねぇ」

 かちんと頭の中でガラスが割れた。わずかに振り返り麻美を睨み付ける。これは協調性とかの話ではない気がする。まだ練習し始めたばかりだ。有名な曲だしメロディーは知っているけれど、一度もちゃんと歌ったことがない。知識があることと実行することは似ているようで違う。

「そんなに練習したいなら、別の人とすればいいでしょ?」

「え~、私嫌われてるしぃ」

 自業自得じゃない、と口には出さない。彼女のことを嫌ってないであろう人物の名前を挙げた。

「なっちゃんとか、いるでしょ」

 なっちゃんとは菜摘の愛称だ。小学校の頃から彼女は周囲に「なっちゃん、なっちゃん」と呼ばれて、今でも同じ小学校出身者は彼女のことをそう呼んでいる。

 菜摘の方に視線をやる。オシャレで可愛い女子グループの真ん中で、可愛らしく笑っていた。彼女が属するグループのメンバーが持っている筆記用具やノートは、白だったり淡いピンクだったりの色合いでカラーリングされていた。まるで「私はかわいい女の子です」と言っているみたいだ。

 女の子らしいことをしていれば、女の子になれる? ふと疑問が湧いてくる。LGBTの本を読んだときから、ずっと考えていることだ。先日会ったサキを思い出す。彼女は可愛いものが好きだと言っていた。

「ねぇアイちゃんってばぁ」

 麻美の声で現実に引き戻される。足の裏が痺れていたくなるほどに廊下を踏みしめて歩く。針で刺されたみたいに胃がちくちくと痛み出した。前途多難だ。 

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