4

 高校の廊下は、中学校舎と比べると広く見えた。けれど、今日は大勢の一般客や生徒が入り乱れていたり、看板が立っていたりするせいで窮屈だった。

 視線だけを細かく動かす。雪彦たちとはぐれてしまった。七分袖に包まれた腕で身体を抱きしめる。呼吸が乱れ始めて、肺が少しずつ痛くなってくる。小さい頃に乗った満員電車を思い出した。

 周りを見ると、メイクをしたりスカートを短くした女子学生たちがたくさんいた。さすが高校の文化祭。中学生が行う文化祭とは規模が違う。なにより、あんなにスカートを短くしても注意されないなんて。彼女たちの見せる生足を、思わずじっと見てしまった。色とりどりの靴下に、すらっと伸びた脚線美が大人っぽく見えた。

 それからカップルが目立った。男女一組で回る生徒たちが目につく。いちゃいちゃするのも人目を憚らない。文化祭というフィルターが、彼らをそうさせているのか。

「ねぇねぇ、お嬢さんどこの高校?」

 背の高い男子学生が通せんぼのように愛衣の前に立っていた。そこでようやく声をかけられていたのに気づいた。どこの高校? と聞かれていたのだから、中学生の愛衣が答えられるはずがない。

 髪は明るく、耳にピアスがいくつも付いていた。一見してチャラい、と口には出さないが愛衣は心の中で呟いてしまった。本音が出ないようにおずおずと口を開いた。

「私……中学生です」

「は? キミ中学生? マジで言ってる? すげー美人!」

 きん、と響く声だった。

「中学に比べると広いでしょ。迷うといけないから一緒に回ってあげるよ。わかんないでしょ、校舎の構造とか」

「いえ……結構です」

 斜め前に足を踏み出し、彼の横をすり抜けようとした。こういう時は無視するのが一番だ。けれど彼は半歩横にずれて行かせまいとする。

「おっと、逃げなくてよくない? キミ可愛いし美人だから一緒に回りたいなー、なんて」

 すっとサイドの髪に触れられる。少しざらついた指が頬に触れて、ぞっとしたものが背筋を這った。男子生徒の手が、やけに大きな蜘蛛みたいに見えた。怖い。直感的に全身がそう感じた。

「あー、やっと見つけたぁ」

 甲高い女性の声がして横から腕を引っ張られた。突然のことにびっくりして、足が絡まる。

「もー、急にいなくなったから心配したじゃない!」

 よろけて声の主の胸に倒れ込む。それを利用して、女性は愛衣を抱きしめた。控えめに藤の香りが愛衣を包んだ。顔が陽に照らされたようにじりじりと熱くなった。今、なにが起きている?

 女性は「妹がごめんねー」と金髪に手を振ると、愛衣の腕をぐいぐい引っ張ってその場を後にした。

「あ、あのっ!」

 肺いっぱいに息を吸って、やっとのことで声を出す。女性は人気の無いところまで愛衣を連れてくると、ようやく手を離した。

「それだけ声が出せるなら大丈夫そうね。気をつけるのよ? 私がいた頃よりも校則が緩くなってるから、ああいう羽目外しもたくさん出てくるんだから」

 腰に手を当てた女性は、愛衣よりも背が高い。明るい茶色の髪をポニーテールにしていて、機嫌良く揺れていた。

 綺麗だ、と思った。陽に灼けてない、でも健康的な肌。瞳はカラーコンタクトでもしているのだろうか、赤色をしていた。それに合わせた明るい色合いのアイシャドーが似合っていた。

「……以後、気をつけます。ありがとうございました」

「素直でよろしい。ところで、連れの人とかいないの?」

 連れと聞いて、雪彦たちのことをすっかり忘れていた。

「あ、はい。兄が……えっと、ここの生徒で、和装喫茶をって……」

 焦っているのか、緊張しているのか舌が回らない。

「あれー? 私さっきそこ行ってきたよ?」

 女性は思い出すように首を傾げたが「まぁいいや。とりあえず行ってみましょっ」と両手をぱんっ、と叩いた。花が咲くような笑みを広げると愛衣に手を差し出した。少し躊躇ったが、愛衣はその手に自分の手を置いた。

 途中、チョコレートやハーブティーをもらいながら、目当ての教室にたどり着く。入り口にかかった暖簾の隙間から、中を覗く。

「どーぉ? お兄さんいるー?」

 女性の頭の下からちょこんと顔を出す。背の高い兄はすぐに見つかった。そして見つかるのも早かった。

「あれ、どうしたんですかサキさん……あ、愛衣!」

 大樹の声に怯む。足元から震えがぞくぞくと上がってきて、思わず女性の背中にすっと隠れた。けれど大樹の方が早かった。懐から出した伝票で、ぺしっと頭を叩かれる。

「こら、どこ行ってたんだ。雪彦が探してたぞ」

「ごめんなさい……」

 大樹と愛衣のやりとりを、女性は目を丸くして見ていた。

「あらやだっ! お兄さんって大樹くんのことだったの?」

 交互に大樹と愛衣を見比べて「あ、ほんと目元が似てるかも」とぶつぶつ呟いている。愛衣は女性をまじまじと見つめた。この人、どうして兄を知っているのだろう。愛衣の視線に気づいた彼女は「ん?」と可愛らしく首を傾げた。

「で、なんでサキさんと愛衣が一緒にいるんだ?」

 ぎくりと肩を強張らせた。そんな愛衣の肩を抱いて、サキと呼ばれた女性が「ナンパされてたから、このサキさんが助けてあげたのよ!」と正直に言ってしまった。

「え、ナンパ? うわぁ……マジかぁ」

 頭を大樹にくしゃくしゃと撫でられる。自分の不甲斐なさにもう一度「ごめんなさい」と零れた。伏せた目が熱くなって涙が零れそうだった。申し訳なさに肩がきゅっと縮こまる。

「大樹くん大樹くん。ここでサキさんから提案なんだけどー」

 大樹の頬をサキが突っついた。

「愛衣ちゃんだっけ? 妹ちゃんを、一日私が預かってあげましょう!」

 大樹は「はい?」と素っ頓狂な声を出し眉をひそめた。愛衣も身体を硬直させた。

「はい、反論は受け付けませーん! そんじゃ、妹ちゃんお借りしまーす!」

 サキはくるりと愛衣の身体を反転させると、ぐいぐい背中を押しながら来た道を足早に進み始めた。


 はいっ、と目の前にラムネの空色の瓶が差し出される。

「あ、お金っ」

「いーのいーのっ、今日はお姉さんに甘えなさいな」

 階段に並んで座って、甘くすっきりとした炭酸を喉咽に流し込む。全部、胸のモヤモヤしたものを流していってくれるみたいだ。

「それにしても、大樹くんの妹ちゃんだったとはねぇ。サキさんびっくり」

 さっき大樹にやってたみたいに、愛衣の頬を指で突っついた。少しだけ爪が食い込んで痛い。

「初見だとよく言われます。あまり似てないですからね」

 容姿が似ていないと言われるのは慣れている。その代わり内面とか考え方とかが似ていたりするものだ。

 サキは小さな鞄の中から一枚の紙きれを出して、愛衣に渡した。厚紙でできたそれは名刺だった。やわらかなシャボン玉のイラストが描かれている。書かれている名前は、藤野幸貴。

「ふじの……えっと、サキ、さん?」

 彼女は嬉しそうにピースをしながら「サキって呼んでね?」ウィンクまでして見せた。

「と言うことは、本来は違う呼び方なんですね」

 しらっと呟くと、サキは一瞬ピシッと固まったように全身を強張らせた。

「あ、あはは……ずばっと鋭いとこ突くね」

 乾いた笑い声に合わせて、彼女はブレスレットをいじり始める。サキの反応に、愛衣はしまったと唇を噛んだ。

「すみません」

「いやいや。初めて気づかれたから、ちょっとびっくりしただけ」

 安心させるためか、ちろりと舌を出しておどけてみせる。そして、名前の読み方を教えてくれた。これで「ゆきたか」と読むのだそうだ。

 え、と名刺とサキを交互に見比べる。名前の呼び方とサキの容姿。恐る恐る口を開くと、唇と喉咽が震えていた。

「男の、人……ですか?」

 対してサキは気にしていないみたいに「あはは」と笑って、またウィンクしてみせる。

「そ。元、男ね」

 元、というところを強調している。そんなふうには見えなかった。思わずまじまじと見つめても、サキは女性にしか見えなかった。確かに胸はないけれど、ノースリーブのトップスから伸びる細い腕と、ジーンズに包まれた脚。少女の愛衣からしても、サキは大人の女性だった。

「びっくりした?」

「はい」

「だよねー、雪くんのことを知ってるなら、聞いたことあるかもしれないね。トランスジェンダーって言うんだけど」

 後ろに手をついて、にっとサキは笑う。それからふっとやわらかく目元を緩ませた。聞いたことある言葉に、はっと息を飲み、自分の唇に指先で触れる。

「え、雪彦さんのことも、知って……?」

 サキは面白そうに微笑んで、雪彦と大樹と知り合った経緯を話してくれた。雪彦とはセクシャルマイノリティーのパレードで、大樹ともそこで出会ったのだ。

 唇に触れていた指が、ずるずると落ちてくる。服の襟に引っかかるように胸元で止まった。指先に力がぐっとこもる。

「あの、」

「サキでいいよ」

「サキさんは、」

 からり、とラムネ瓶の中でガラス玉が揺れた。

「いつから、そう感じて……」

「私? ずっとよ」

 言葉がつっかえているのに対して、サキはなんとも呆気なく答えてしまう。その潔さはどこからやってくるのか、不思議だった。サキの横顔を見つめる。

「私はずーっと、女の子になりたかった。男の子に恋してみたかった。だからなったの。女の子に」

 手を前に出して指を広げてみせる。綺麗に施されたネイルが見えた。それからサキは、いろんなことを教えてくれた。小学生の頃のこと。中学生の頃のこと。高校生の頃のこと。話すのは辛くないかと尋ねると、サキは「もうとっくの昔の話よ」と笑い飛ばした。

「性同一性障害だとか、オカマだとか、たくさん言われたこともある。でも、性別は簡単に変えられるものだって気づいてから、私はずーっと女の子なのよ」

 自信満々にサキがそう言うものだから、愛衣の中で力が抜けてしまった。両手でラムネ瓶をしっかりと掴む。手の中が水滴でくっしょりと濡れた。

「愛衣ちゃんはさ、こういうことに興味あるの?」

「兄さんが雪彦さんと付き合うってなってから、ちょっと気になったんです」

「そう。きっと雪くんも喜ぶわ」

 嬉しそうにサキが言うと、愛衣は瞼を伏せた。自分は大層なことをしていない。ただ自分の好奇心に抗えないだけだ。液体の中の泡が、しゅわしゅわと音を立てて消えていく。愛衣にはその泡の一つ一つが、一人の人間に見えた。

「大学生になるとね、たくさんの人に会えるわ」とサキは言った。

「私も“いろんな人”の中の一人。そうやって単純に考えてしまったらね、すっごく生きるのが楽になったの」

 長い睫のカールを気にしながらサキは続ける。

「中学生だと、まだ価値の合わない人たちと一緒にいなくちゃいけないから、辛かったりするでしょう。でも、そこを耐えてしまったら、きっと苦しんだ分、楽しいことが待っているわ。なんであんなことで悩んでいたのだろうって思っちゃうくらいにね」

 多くの人に愛されるのは素敵だけれど、全員に愛されるのは難しい。正しい選択とは何か。多くの人が認めれば安心するけれど、自分自身が認められなければいつまで経っても後悔が残る。だから、自身の選択を恐れないのだと、自信満々にサキは胸を張った。

 サキの周りに、様々な色の光が散ったように見えた。

 反射の光をイメージさせる透明なブルー。

 暖かな太陽の光を思わせるイエロー。

 草原を渡る爽やかな風に似たグリーン。

 シャボン玉の石けん膜のようなクリアホワイト。

 ふんわりと甘い砂糖菓子みたいなピンク。

 カラーパレットのように光が散っていた。その光の眩しさに、愛衣はやわらかく目を細めた。


「愛衣ちゃん愛衣ちゃん! 次はここに行ってみましょ! 茶道部のお茶会、お菓子付きですって!」

 校内パンフレットを見ながら、サキはうきうきと廊下を歩いて行く。きらびやかなサキはいろんな部活やクラスの勧誘を受けていた。その後ろを、愛衣は今度こそはぐれないようにと必死に付いていく。

「ま、待ってくださいっ、サキさん!」

 人の波を分けてサキの腕を掴むと「あらごめんなさい」と、全く反省していない時の嵐志みたいに笑った。

「あ、軽音部のライブがあるわ。なつかし~! 私ね、ここの生徒だったとき、軽音部だったの。ここも後で見に行きましょうね。その次は体育館で吹奏楽部のコンサートと演劇部の舞台もよ!」

 いたずらっぽく目の奥が輝き、愛衣にウィンクしてみせる。サキはカラフルだ。いろんなアクションを起こすたび、いろんな色があふれ出す。

「愛衣ちゃん愛衣ちゃん、行きたいところある?」

 愛衣は口をぱくぱくさせながら「プラネタリウムっ!」と叫んだ。


 §


 愛衣が見つかったと連絡があった。携帯の向こうから聞こえる大樹の声は落ち着いていた。

「そう。サキさんが一緒なら安心だね」

『そうだな。サキさんは、愛衣にとってもいい出会いだ』

 サキが愛衣に害をなすようなことはないだろうし、むしろサキの好みだと思う。きっと妹でもできたみたいにはしゃいでいる様子が目に浮かぶ。

「それじゃ、俺はこのまま嵐志くんと結衣くんをつれて回るよ。終わる頃に愛衣くんと合流して家に連れて帰るから」

『わかったわかった』と大樹の苦笑が聞こえてきた。

『楽しんでこい』

「はーい」

 電話を切って、ふと見回すと小さな二人組がいない。けれど、嵐志も結衣も平均身長より十センチも低い。視線を少し落としながら探してみると、あっさりと見つけることができた。

 結衣も嵐志も丁寧にお礼を言いながら、配られるものを全部手にして戻ってきた。

「見て見て雪彦兄者あにじゃ! たこ焼きもらった!」

「結衣ね、金平糖もらったの! それとねそれとねっ、お花とかシールとかももらったの!」

 これこれっ! と楽しそうに嵐志も結衣も雪彦に見せてくる。嵐志からたこ焼きを一つ食べさせてもらった。はくはくと熱い塊を噛み、喉を通り過ぎると今度は胃の中が熱くなる。

「楽しい?」と雪彦が聞く。

「当たり前のこと聞くなってーの!」

 唇にソースをつけながら嵐志が答える。ハンカチで拭ってやると、もう一つ口に放り込んだ。

 雪彦は一年の時も二年の時も文化祭を楽しんだ覚えはない。クラスの展示の当番が済んで、すぐに弓道場に向かっていた。

 ふと、何回か女子生徒に呼び出された記憶がある。後で大樹に教えてもらったことだが、後夜祭のキャンプファイヤーで告白したり、ダンスを一緒に踊ると、その男女は付き合えるというジンクスがあるみたいだ。

 ばかばかしい。そんなもの、文化祭という盛り上がりの相乗効果じゃないか。一時を過ぎれば現実が見えてくる。

 当時はそう思っていた。

 それじゃ今は、と聞かれると正直よくわからない。

 人の心は変わるんだから、あたしたちだって変わるときがくるかもしれない。

 サキに初めて会ったとき、そんなことを言っていた。雪彦が小学六年生、サキが高校一年生だった。

 サキは当時、まだ男だった。中性的に見えて、私服姿は男装した女子、みたいな格好に見えた。本人は話そうとしないけど、高校以前になにか遭ったのか、その精神はぼろぼろで、雪彦から見ても自暴自棄になっていた。今みたいにあっけらかんとし始めたのは、ここ二、三年のこと。現在交際中の彼氏に出会ったのが、きっかけらしい。

 それを考えると、雪彦が大樹と出会って心中が変わっていくのは、妥当なことなのだろうか。サキはきっと肯定してくれるだろう。大樹もきっと……

「雪彦兄者っ! 次はあっちのお化け屋敷がいいっ!」

「はやくはやく~っ!」

 雪彦の両手を嵐志と結衣がそれぞれ握って、勢いの良いストライドで歩き出し始める。

 人は、愛されるために生まれてきた。

 幸福になるために生きている。

 そんなことを、信じても良いのだろうか。

 

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