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 テスト期間になると、放課後に勉強をしに図書室を訪れる生徒が増える。いつもの文芸部のスペースで、今日は英語の問題集を広げる愛衣あいは、いつもとは違うざわめきに耳を塞いだ。ロッキングチェアに揺られながら、音莉ねりも顔をしかめて読書スペースにいる生徒たちをじとりと眺めた。

「相変わらず、うるさくなりますね~」

「テスト期間だからね」

「そうですけどー、おしゃべりする場所ではないんですよー?」

「昼寝をする場所でもないと思うんだけれど?」

「本を読むのに居眠りは付きものでーす」

 屁理屈を述べる音莉だが、彼女が言っていることも一理ある。勉強を目的に五、六人のグループでやってくる生徒たちもいた。おしゃべりの大半は、そのグループから発生している。

 特に声が響くのは愛衣と同じクラスの女子二人組。彼女たちはクラスでも注意を受けているのを何度も見たことがある。校則ぎりぎりの規則破りをしてスリルを楽しんでいる人たちだ。二人とも、愛衣とは三年間同じクラスだったが、愛衣はこの人たちに声をかけることが苦手だった。この二人の女子が所属する女子テニス部のグループは、見た目も行動も華やかで常にカーストトップに入る。

 女子テニス部、という肩書きも上乗せされているのもある。先輩が厳しくあることが女子テニス部の伝統であり、一年の時は大人しかった子も、三年になることには暴君とまではいかないが、多少気が荒く染まると言われている。

 それでも、愛衣はしぶしぶ立ち上がった。「あの、」

「お、一之瀬ちゃんじゃん。なーに?」

 声の大きさに微かに膝が震え、崩れないように力を込めた。まるでこっちが悪いことをしてると言われているみたいで、片方の手首をぎゅっと掴んだ。よく見ると机にはノートも教科書もない。代わりにコンパクトミラーだったり、ポーチだったりが転がっている。愛衣は目を合わせないよう、彼女たちの胸元のリボンを意識しながら「ごめんなさい」と演技してみせる。

「もう少し、声を落としてくれるかしら。結構、響くから」

 二人は注意されて納得いかない顔をしていたが、一応理解したふうに「あー、わかったぁ」とだけ答えた。

 二人から足早に離れると、彼女たちのひそひそとした声が耳に届く。

「一之瀬ちゃんってさ、ちょっと怖くない?」

「わかる~ なに考えてるのかわかんないってカンジ? 自分はあなたたちとは違いますよーってやつ?」

「うわー感じ悪っ、まださ、委員長の方が親しみやすいよね」

「一之瀬ちゃんが委員長じゃなくて良かった~」

 聞いても意味が無いことはわかっているのに、聞いた途端に胃が痛くなる。制服の臙脂色のリボンの前で、ぎゅっと両手を握りしめた。

 クラスメイトにどう思われているかなんて、どうでもいいと思っていた。でも無意識のうちに愛衣の中で感知して、回避していただけなのかもしれない。

 思わずため息が漏れ、音莉に聞かれてしまった。

「あんまり真剣に考えない方がいいですよ~、愛衣ちゃん先輩?」

 わかってる。でも、そんな簡単に変えられないのだ。言われたところでできないんだから。唇を噛むと、血の味が微かに広がった。


§


「座標上の二点間の距離は、こうすれば……ほら。三平方の定理がここで使えること、わかる?」

 愛衣のノートに、雪彦ゆきひこは簡単なグラフを書いてみせた。この日、愛衣はリビングで雪彦に数学を教えてもらっていた。中学は再来週からテスト週間になる。愛衣が数学が苦手という話をしてから、雪彦が教えてくれることになったのだ。

「グラフはあった方が絶対にわかりやすいしミスも減る。面倒でも、簡単に書いた方がいい」

「はい」

「それにしても、中学の数学ってこんなに簡単だったっけ」

 中学三年生の数学の教科書を捲りながら雪彦は感心したように呟く。数字を見るだけでも頭が痛くなってくる愛衣からしてみれば、簡単だとは思えない。

「数学は九十点代以外取ったこともないからね」

「それは俺に対する嫌味かよ、雪彦」

 ソファーから大樹だいきが洋書を雪彦に投げつける。大樹は愛衣以上に数学が苦手で、平均点も取れていなかった。

「英語ばっかり読んでいる大樹だって、俺からしたらだいぶ嫌味だな」

 リビングのテーブルに広げられたノートや参考書を読みつつ、愛衣は二人を見ていた。

 大樹と雪彦が付き合っていると知った日から数週間。だいぶ雪彦も一之瀬家に溶け込んできて、もう一人兄ができたみたいだった。

 それにしても、大樹と雪彦は同じ高校生とは思えない。二人とも弓道をやっているから体格に差は無いのだが、雪彦は大樹よりも大人に見えた。いつも家で一緒に暮らしている大樹はともかく、愛衣が中学生だからそう見えるのだろうか。中学生が高校生を憧れの目で見るような、そんな感覚なのだろうか。愛衣が高校生になったら、そんなこと思わなくなるのだろうか。

「雪彦さんは、苦手な教科とかあるんですか?」

 愛衣が尋ねると「国語」とすぐさま返ってきた。

「古典、現代文、特に作者の考えを書けとか、登場人物の心情を答えろとか、無理。人の気持ちなんて推し量れないし、模範解答だって正しいかどうかもわからない。なにより、答えが一つじゃない」

 最初、愛衣は雪彦が言っていることがわからなかった。模範解答が正しくない。彼が言っていることが正しい。確かに心情なんていくらでも異なった書き方ができる。答えの通りに文字数ピッタリに書けない場合もある。愛衣は、心情を考察する問題が苦手という人の気持ちを初めて知った。

「数学や理科は答えを導き出す方法は難しいけれど、答えは一つしかない。それが、安心する」

 雪彦は膝の上に乗ってきた吹雪の喉咽を撫でた。大樹には全く懐いていない吹雪だが、雪彦には気を許していた。喉咽を撫でてもらった吹雪はごろごろと咽を鳴らしたあと、大きく欠伸をした。


 §


 その週末。雪彦に連れられて愛衣と嵐志と結衣は、椿原高校の文化祭に来ていた。テスト前の追い込みする予定だった愛衣だが、息抜きがてらにと、雪彦が誘ってくれたのだった。 

「私、兄さんの高校の文化祭、初めて来ました」

 校門で貰ったパンフレットを胸に当てると、ドキドキがさらに高まっていく。思わず歩く足が速くなる。愛衣の隣を、私服の雪彦が大股で歩く。

「今までは来なかったの?」

「やっぱり、中学生と小学生だけでは危ないって言って。兄さんと一緒に帰れればいいんですけど、片付けがあったりするので。要するに、心配なんですって」

 雪彦はなにを思ったのか、はぁ~とため息を吐いて首に手をやった。賑やかな客引きの喧噪の中、パンフレットをジーンズのポケットに突っ込んで、愛衣の後ろを護衛のように歩き始める。時々、教室の前で立ち止まる愛衣に「入ればいいじゃないか」と背中を押す。

「今日は文化祭に来たんだろう? 楽しまなくてどうするんだい?」

 そう言って愛衣が持っていたパンフレットを覗き込む。ふわっと雪彦の髪の匂いが近くで薫った。

 クラスごとの展示。部活ごとの発表スケジュール。演劇部の公演、軽音部のライブ。中学生の愛にとって全てが珍しく、輝いて見えた。

「大樹のところは後回しでいいから、いろいろ見て回って楽しめばいいじゃないか」

「でも雪彦さんは行きたいところとかは……」

「俺のことは気にしないでいい」

 ふっと視線を上げる。雪彦の視線の先には結衣と嵐志がいた。今日は彼らの面倒見だ、と雪彦は苦笑してみせる。

「お姉ちゃんお姉ちゃん!」

 ぱたぱたと走ってくる結衣の手には、紙カップが一つ。

「見て見て! りんごのお茶もらったの!」

 差し出されたカップを受け取り、口を付ける。爽やかなりんごの香りが口いっぱいに広がって、少し遅れて紅茶の甘みがじんわりと染み込んでくる。

「おいしい」

 結衣と顔を見合わせてふふっと柔らかな笑みが広がる。ただ美味しくて、それだけで笑い合える。なんか、いいなと胸の中に心地いいりんごの香りが秋風のように吹く。

 大樹の教室に向かう途中、カラフルな色が目に入った。

『プラネタリウム』

 七色の色画用紙で象られたその文字が、校舎の窓に大きく貼ってあった。南校舎の入り口にも同じような看板が立っていた。天文部の出し物で、上映時間が書かれてある。

 腕時計で時間を確認していると、背後から「気になる?」と声がかかった。

 それほど大きな声は出なかったけれど、文字通り飛び上がってしまった。振り返るとムーンミストのTシャツに制服のズボン姿の男子学生が、プラカードを片手に立っていた。「残念お嬢さん。春のプラネタリウムなら、もう上映中だよ」

「そうですか……」

 プラネタリウムのプラカードを、男子学生は退屈そうにくるくると回した。よく見るとズボンの腰から見えるチェーンだったり、ピアスだったりが星の形をしていた。

「まぁまぁ。そんな残念そうな顔をしないで」

 男子学生がふっと微笑む。そんな顔をしていたのか。片手を頬にやって、男子学生から顔をそらした。

「まだ季節は三つ残っている。夏は午後一時からだから、またいらっしゃい」

 そう言って彼は愛衣の手をすっと取り、どこから出したのか、小瓶を一つ、手のひらに乗せた。「それじゃあね、お嬢さん」と、南校舎の中に消えていった。呆気にとられて、なにが起こったのかわからなかった。

 手のひらにちょこんと乗った小瓶には、小さくてカラフルな金平糖が詰まっていた。コルクには小さな紙が結ばれていて、達筆な字で「Dear Mi Lady私の小さなお嬢さん」と書かれていた。

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