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 すんっ、と朝の空気を吸い込む。しっとりとした雨の匂い。星座が散らばった傘を持って、たんっ、と外に出る。今日は午後に雨が降る。

 星野ほしの音莉ねりは、匂いでだいたいの天気がわかる。なんというか、本人にも何て言えばいいのか困るのだが、感覚的にわかる、としか言えないのだ。文芸部に所属していて、既に作品も書いている身なのに、この胸の内をはっきりと言葉にできないのは、少し辛いものがあった。

 学校に行く足が重く感じ、低くため息をついた。

「音莉ちゃん」

 声を掛けられて音莉は玄関から家の奥に視線を移す。ちょうど兄の創星そうせいが階段を降りてくるところだった。いつもならとっくに仕事に出ているはずだと思って、今日は科学館の休館日だと気づく。創星は科学館が職場で、プラネタリウムの投影と解説を担当している。このご時世に珍しく、人が解説をしているのだ。

 創星は縁なし眼鏡をかけ直しながら「行ってらっしゃい」とにこやかに笑いかけてくる。それに音莉も「行ってきまーす」と笑顔で応じた。

 音莉はまたため息をついた。さっきと違うことといえば、少し心臓が早く脈を打っているくらいだ。この不整脈の原因は、はっきりわかっている。お兄さんのせいだ、と音莉は呟いた。


 音莉は、兄の創星と十五歳も離れている。音莉が生まれたと同時に、創星は長野にある天文台附属高校に入学していった。そのまま長野で就職したため、小学六年生になるまで、兄の存在を知らなかったのだ。

 ずっと音莉は一人っ子だと思っていた。創星は実家である星野家に帰ってきたときに知ったのだ。赤ん坊の時に会ったことがあると両親は言ったが、そんなこと音莉が覚えているはずもない。音莉にとっては小学六年生のプラネタリウムを見に行ったときが、創星との初対面なのだ。

 科学館のプラネタリウムで、夏の投影会に参加したときに、音莉は解説をしている創星に会ったのだ。

『若きウェルテルの悩み』でウェルテルがロッテを初めて見たときと同じ。あの感覚だ。

 恋に落ちたのをはっきりと感じた。あれが音莉の初恋だった。

 それからというもの、音莉は時間があればプラネタリウムに通った。そのおかげで創星にもその他の職員にも顔を覚えてもらった。

 暇なとき、創星は音莉を連れて天文ブースを案内してくれた。星の知識がたくさんあるのは、そのとき創星が教えてくれたことばかりだった。その時間、おなかいっぱいにご飯を食べたときみたいな幸福感で満たされていた。

 創星が実の兄とわかったのは、夏休みが終わるころだった。

「音莉、おまえは覚えてないかもしれないけど、おまえのお兄ちゃんだ」

 父がそう言ったのを、今でもはっきりと覚えている。

「こんにちは、音莉ちゃん」とはにかんだ創星の顔も、はっきりと思い出せる。あのとき、創星はどこか気まずそうに視線をそらした。

「やっぱり十五年も会ってないと、実の兄妹でもよそよそしくなるのかな」

 自室に駆け込んだ。その勢いでベッドにダイブする。両親も創星自身も、音莉の気持ちに気づいてない。当たり前だ。誰が実の兄に恋をすると思うのか。それでも勝手に涙があふれてきた。

 これからの生活がうまくできる自信がなくなった。好きになった人がそばにいるのは嬉しいけれど、同時に叶わない恋を強いられるのだ。

 叶わない恋があることくらい音莉も知っている。でも、こんな不条理が自分を襲うとは思わなかった。それに創星は男だ。いずれは恋人を作り、結婚する。このまま家に住むことになれば、相手の女性も一緒に住むと言うことだ。それを間近で見るのは心臓が破れそうなほどに辛い。

 その日から、音莉は創星によそよそしく振る舞うようになった。音莉の態度に両親は「今まで一人っ子で、急に兄ができてとまどっている」と解釈した。幸い、音莉の気持ちには気づかれなかった。

 

「あれは、ずるいです」

 赤信号で立ち止まり思わず足踏みをする。

 音莉ちゃん、なんてよそよそしい呼び方をされるとむずがゆくなってくる。妹みたいに頭をなでられるのも、子ども扱いされてるみたいでむかつく。

 それでも、紛れもなく音莉と創星は兄妹だ。戸籍も見せてもらった。いつか読んだ恋愛小説みたいに、本当は血が繋がってなくて逆転劇、みたいなこともない。

「いっそ、ウェルテルみたいに自殺してしまったら楽になるんですかね」

 そっとため息と一緒にこぼしたら、秋風がそんな物騒なことを考えるのはお止しなさい、と吹き飛ばした。


 教室に行かないで、音莉は必ず図書室に向かう。保健室登校ならぬ、図書室登校だ。別になにか持病があるわけでもない。ただ教室に行きたくないだけだ。

 図書室の奥のスペースが、文芸部の部室になっている。一枚板の重厚なテーブルに窓に面したカウンター席は、まるでカフェのような空間だ。そして一番似つかわしくないのが、どっしりとしたロッキングチェアだ。二代前の部長の置き土産で、今ではすっかり音莉の定位置になっている。

 かたかた、と書架から音がした。のぞいてみると、ちょうど書架から出てきた愛衣と鉢合わせした。「きゃっ」と同時に甲高い声が上がる。

「愛衣ちゃん先輩~」

「音莉、」

 愛衣は衣替えして冬服になっていた。紺色のセーラー服は、愛衣の色白の肌をさらに際立たせていた。

「おはようございます~ こんな朝から捜し物ですか?」

「ちょっとね」

 愛衣が視線をそらす。その手に持っている本を見て音莉も「あ」と声を上げる。

「LGBTの本ですか~」

 気さくな態度で話しかけてみると、愛衣は照れくさそうに肩をすくめて見せた。

「今度の作品で、書いてみようかなーって思って」

「あぁ、それでですか」

 なんとなく歯切れが悪いのが妙に引っかかった。

 LGBT。音莉も言葉だけは聞いたことがあった。だいたいゲイかレズくらいで、BとTが何を指すのかは知らない。

「音莉は自分や兄弟がこういった人だとしたら、どう思う?」

 愛衣が躊躇ためらいがちに聞いた。耳に髪をかけながら本の表紙を指先でなぞっている。

「さぁ……どうですかねぇ。音莉はまだ会ったことないですし。ホモとかレズとかは聞いたことがあっても、ぜーんぶ悪口とかしかないので。正直、その人にあってみないとわかんないと思います」

 ロッキングチェアにどかっと座ると、ぎしぃっと音を立てた。

 愛衣がなにか言う前にチャイムがホームルームの時間を告げる。

「音莉は今日もここにいるんでしょ?」

「そうですよ~ 教室行く気分じゃないので。内申点なんてなんぼのもんです。ちゃんとテストで点は取ってますから、安心してくださいな~」

 気になってはいるものの、愛衣はそれ以上追求してこなかった。深入りはしない。図書室の、というよりは文芸部の暗黙の了解みたいなものだ。

「じゃ、私は行くわね」

「はーい」

 手を振って愛衣を見送る。図書室のドアが閉まる音を確認すると、ロッキングチェアの背もたれにぐっと背中を預けた。ぐらっと視界が揺れて、天井が見える。ふーっ、と細く息を吐いた。

「……同性婚もできるんだから、兄妹結婚もできる世界になればいいのに」

 窓に映った自分の顔がひどく醜く見えた。


 §


 教室に戻ると無意識に本の表紙を隠していた。結局借りてきたセクシャルマイノリティの本は、今まで愛衣が借りた内容の中では少し異色の内容だ。

「アイちゃん、ドコ行ってたの? 朝からいなかったよね?」

 同じクラスの麻美あさみが近づいてきて、すぐさま本を背中に隠す。「図書室に行ってた」とだけ告げて横をすり抜ける。愛衣は彼女が苦手だった。

「あのさぁ、」と麻美が呆れたような声を出した。「そうやって自分は頭いいですアピール、しなくていいと思うよ?」

 麻美の顔を見ずに息を吐いた。《図書室・本を読む=頭がいい・勉強できる》と本気で思っているらしい。彼女は、愛衣よりテストの点数が低いから僻んでいるのか。

 麻美と話すようになってから一年は経つが、麻美の言動はよくわからないままだ。

 席につくと担任が入ってくる。見つからないように机の下で本を開く。国語のノートの後ろのページに、忘れないようにわかったことを書き記していく。先生がなにか言っているが、あんまり興味がない。

 こんな、濃い世界を見たのは初めてだった。ファンタジーで作り込まれた世界とはまた違う。リアリティがある。当たり前だ。これは現実世界でのことで、創作物の中の専門用語ではないのだから。

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