1章

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「明日、付き合ってる人、連れてきてもいいか?」

 兄の大樹だいきが言ったことに、愛衣は一瞬だけ固まった。その反動か、泡だらけの手で掴んでいた茶碗を滑らせ、かちゃん、と音を立てる。

「おいおい、大丈夫か?」

「大丈夫」

 ホントは大丈夫じゃない。誰のせいで茶碗を滑らせたと思ってるんだ。幸いヒビも入ることなく、茶碗は無事だった。

 大樹は「気をつけろよ」と注意しながら、夕飯の終わったダイニングテーブルを布巾で拭いていた。たまに手を止めて、テーブルに置いてあるゆず大根の漬け物を一口つまむ。かりかりと軽快な咀嚼音が聞こえてきて、背中がむず痒くなった。

 兄が付き合っている人。

 愛衣は先ほどの言葉を反芻した。一体どういう風の吹き回しだろう。こんなこと、今までなかったからか愛衣にはまったく予想がつかなかった。

「なんでそんなこと聞くの?」

「なにが?」

「付き合ってる人を連れてきていいか、なんて。兄さんにしては珍しいこともあるんだなって思ったから」

 大樹はあぁ、と声を漏らした。少し考えるそぶりをしてから「深い意味はないよ」と、少し恥ずかしそうに答えた。

「家に連れ込むってやつだ」

「言葉を気をつけろよ……」

「だって本で読んだことあるもん。あんなことやこんなことするんだ」

「それはフィクションだろ、おまえが一番よく知ってんじゃねぇか」

「でも保健の教科書とかにも書いてあった」

「ちゃんと性教育を受けてると思っていいんだよな?」

「だって……」

 愛衣は気まずくなってそっぽを向いた。

「兄さんが誰かと付き合うって、今まで聞いたことないから」

 一之瀬大樹は今年高校三年生になるが、今まで一度も交際相手らしき人物はいなかったと、愛衣は記憶している。それは、一之瀬家の家庭環境が一番影響しているからだろう。

 父の恭平きょうへいは、海上自衛隊の潜水士の仕事をしている。常に潜水艇に乗り込み、海の底深くにいて、電波が届かないところにいるためか、一年で帰ってくるのも連絡が取れるのも片手で数えるくらいしかない。

 母の椿姫つばきはというと、数年前の事故の影響で下半身が麻痺して、元から身体が丈夫でなかったのも相まって、現在は入院生活を送っている。

 両親が不在がちなこの家で、大樹はある意味、家長の役割を担っていた。愛衣の下にも弟の嵐志と妹の結衣がいる。それも大樹の責任感を強化させた原因の一つだ。家や兄妹の世話にかかりっきりだった大樹は、人並みに初恋も恋愛もする暇がなかった。そんなふうに愛衣には見えていた。

 実際のところ、真実はわからない。そもそも大樹に、恋愛に対する興味がないのかもしれない。

「愛衣は誰かと付き合ったりしないのか?」

 大樹の言ったことに愛衣は辟易した。同じようなことをクラスの女子にも聞かれたことがあったのを思い出したからだ。

 大樹とこういった類の話をするのは初めてだった。愛衣の下には、弟の嵐志と妹の結衣がいる。もともと仲の良い兄妹だが、恋愛話とは縁遠かった。

「そういうの、いまいちよくわからない」

「そっか、ごめん」

「なんで兄さんが謝るの」

「変なこと聞いて、の、ごめん」

「いいよ、許す」

 食器乾燥機のスイッチを押して、濡れた手を拭く。

 愛衣の足ににゃーお、と白猫がすり寄ってくる。

「どうしたの、桃子ももこ

 長毛種の血が流れているのか、身体も毛も長い白猫の桃子がこの家に来たのは、ちょうど十年前。愛衣の五歳の誕生日だった。

 一之瀬家には、五歳になると動物が一匹与えられるという不思議な決まりがある。父の恭平が決めたことで「命の大切さを学ぶ良い機会」だそうだ。桃子の他に、アメリカンショートヘアの吹雪ふぶき、柴犬の桜子さくらこ、ネザーランドドワーフの梅吉うめきちがいる。

 桃子はくるんと愛らしい顔を向けて、おねだりの「にゃん」を連発してくる。

「だーめ。さっきご飯食べたばかりでしょ。またおなか壊しても知らないからね」

 それでも「にゃおーん」とすり寄ってくる桃子に負けておやつを一つ与えた。まったく。猫は気まぐれだとか言うけれど、自分の可愛い部分をよく知っていて、それを最大限に使ってくるから困ったものだ。

「夕飯、食べていかれるの?」

「そうだな……うーん、後で聞いてみるわ」

「嫌いなものとかアレルギーとかも聞いておいてくれると助かる」

「気合い入ってるな」

「そりゃね。未来のお義姉さまになるかもしれない人だし」

 そのとき愛衣はなにも考えずに口にした。それを大樹がどういう意味で捉えたのか知らない。

「……どうだろうな」

 大樹の声がため息交じりにはき出されたのが妙に引っかかる。

「兄さん?」

 大樹ははっと瞬きをする。 

「なんでもない。気にするな」

 気にするなと言われてもそんな態度では気にもなる。聞き出す代わりにため息をついて、桃子を抱き上げた。白くふわふわなしっぽが「気にしないでいいよ」と言うみたいにゆらんと頬をなでた。

 なにか、ある。直感がそう言っていた。胸の奥底にある何かが木の葉が囁くみたいにざわついている。とにかく明日わかることだ。

 リビングから悲鳴が聞こえてくる。心霊番組を見ている嵐志あらし結衣ゆいの声だ。二人ともホラーやスプラッタが苦手なくせに、怖いもの見たさが勝るようだ。今も真夏なのに毛布を一枚持ってきて、二人で包まってがたがた震えている。

「順番にお風呂入りなさいよ」

「お姉ちゃぁん、今日一緒に入っちゃだめぇ?」

 毛布から顔だけを出した結衣が、半泣きの顔で愛衣に懇願する。今の結衣の姿は亀みたいで思わず笑い出しそうになってこらえた。

「もう……だから見る前にお風呂とトイレ済ませときなさいって言ったのに」

 結衣の隣で嵐志も、画面から目を離さないくせに震えながら大樹に訴える。

「兄者……今日一緒に寝てもいい? もう怖くて一人じゃ眠れないわ、俺」

「暑苦しいからやだ」

「いじわるーっ」

 コマーシャルの間に、結衣は素早く自分の入浴セットを持ってきた。「お姉ちゃんはやくっ!」とせがまれて、仕方なしに桃子を床に下ろした。


§


 パスタを茹でながらJーPOPをかける。今日は一人分多い。兄妹だけじゃない食卓はいつぶりだろう。前回、父が帰ってきたのは三月の終わりだった。今は九月。既に夏休みも終わっている。半年が経とうとしていた。

 どんな人が来るんだろう、愛衣は思いを巡らせる。嵐志や結衣が友達を連れてくることは何度もあるけれど、今回とは訳が違う。今の今まであまり考えないようにしてきたけれど、思い起こすこととなれば自然と興味はそっちに向けられてしまう。

 友達と恋人の差ってなんだろう。ふと、そんなことを考えてしまった。これが簡単そうでなかなか答えが出ない。愛衣はまだ恋愛らしい恋愛をしたことがないから余計わからないことが多い。

「ただいまー」

 帰ってきた。さっきまで冷静を装っていたのか、急に心臓がどきどきしてきた。

「おかえりー」

 あれ、と瞬きする。大樹は今日、つきあってる人を連れてくるって言ってなかったっけ。けれど玄関にいたのは大樹と並ぶくらいに背が高い青年だ。

 頭の中で処理が追いつかずに突っ立ってると、青年の方が軽く会釈した。それに応じて愛衣も頭を下げる。青年の儚げな顔立ちは、どこかで見たような気がする。

 そうか。大樹はつきあってる人と入ったが、彼女とは言わなかった。わざわざ長ったらしい言い回しをしたのはこういうことなのか。

「ただい……ま?」

 一拍遅れて嵐志が遊びから帰ってきた。その声が途中で切れる。一分。二分。三分経ってからさっきよりも大きな声が響く。

「あぁーっ! 兄者がいつも試合で負けてる人だーっ!」

 あ、と愛衣は思い出した。

 影崎かげさき雪彦ゆきひこだ。

 大樹と同じ弓道部で、でも大樹とは別の高校に通っている天才弓士だ。出場した試合ではことごとく賞を総ざらいする実力の持ち主で、若手の弓道界で彼を知らない者はいないと言われている。一度、愛衣は遠くから彼の姿を見たことがある。彼が引く弓の美しさは、遠目からでもわかった。

 そんな人物が、なぜ兄と?

「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ! ゴメンゴメン兄者ゴメンってばッ! ちょっ、ほんとギブギブッ! ギブ~ッ!」と悲鳴が聞こえてきた。自業自得。でも嵐志が言っていることに間違いはない。大樹は一度も、弓道で雪彦に勝てたことがないのだから。

「うるさい!」と玄関に顔を出す。大樹にこめかみをぐりぐりされている嵐志と、呆気にとられている雪彦の姿があった。

「兄さん、それくらいにしといてあげて。ちゃんと嵐志が嫌いなほうれん草のおひたしは作っておいたから」

「姉者のオーニーッ!」

 うるさい、と大樹の拳骨げんこつが嵐志の頭に降って、ようやく静かになりつつあった。

「これが弟の嵐志で、あっちが妹の愛衣。ごめんな、来て早々やかましくて」

「いや大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」

 雪彦はそう言ったけれど口元が引きつっていた。

 リビングに通された雪彦に、とてとてと結衣が近づく。梅吉を抱っこした腕を雪彦の目の前に突き出した。

「はじめまして。えっと、一之瀬、結衣です。こっちは梅吉さん」

 いきなり目の前に突き出されたうさぎを、雪彦は形のいい眉を少し寄せて、困った顔をしていた。そして自己紹介されたと気づいたのか、低い声で「影崎、雪彦、です」と名乗った。

「ゆきひこお兄ちゃん、うさぎさん、好き?」

 結衣もたどたどしかったが、梅吉を通して雪彦と仲良くなろうとしているようだ。

 いつの間にか雪彦の膝の上に、白猫の桃子が丸くなっていた。雪彦はどうしたらいいのか、両手を宙に浮かせたまま身動きが取れないでいた。「こらっ」と愛衣が怒ると、桃子はのっそりと動き出し、膝の上から降りる。去り際にじろりとアイスブルーの目に睨まれてしまった。

「今はダーメ」

 なるべく名前を呼ばないように怒る。桃子が名前を嫌ってしまったら、それこそもっと彼女の機嫌が悪くなってしまう。

「すみません雪彦さん。猫アレルギー持ってたりしましたか?」

 呑気にあくびをする桃子を見ながら、雪彦は「大丈夫」とお答えた。それから小さな声で「猫は好きだから」と付け加えた。

「雪彦は猫にスか荒れる体質なんだよ」

 部屋着用のジャージに着替えてきた大樹もリビングにやってきた。

「そんなことないさ」

「弓道場の野良猫も雪彦には寄ってくるもんな」

「自分は寄ってこないからって、皮肉かよ」

 急に雪彦はくってかかったような話し方になった。

 トマトとエビのパスタに、タコとグレープフルーツのサラダ、カボチャの冷製ポタージュ。並んだ料理を、雪彦は珍しそうに眺めていた。

 パスタを口に運んだ雪彦はもくもくとかみ砕き呑み込むと、途端にまた固まってしまった。それ以上口にしないせいで、愛衣は心臓が跳ね始める。口に合わなかっただろうか。アレルギーでもあっただろうか。首に暑さとは別の汗が流れる。

「あの……影崎さん?」

 はっと夢から覚めるように雪彦の目が数回瞬きをして愛衣の方を向いた。

「お口に、合いませんでしたか?」

 言い終わる前に彼は、何度も何度も首を左右に振った。

「美味しい」

 雪彦の目の下が紅くなっていた。綺麗な桜色だ。こんなに綺麗なグラデーションを愛衣は初めて見たかもしれない。それから、単純に褒められたことに気づくと、一気に愛衣の頬に熱が集中した。いつも話している人からと、今日初めて言葉を交わした相手に言われるのはまるで違う。気恥ずかしさにお礼の声が小さくなってしまう。

「ま、この中で一番料理がうまいのは愛衣だからな」

 せわしなく動く嵐志の端の箸で、大樹の箸が豪快に戦果を挙げる。

「俺だって美味しいの作れるぞ!」

「嵐志、立たない」

「結衣もーっ」

「結衣、口に入れたまま喋らない」

 大樹たちのやり取りを、雪彦は目をぱしぱしさせて、でも手はちゃんと料理を口に運びながら、珍しそうに眺めていた。

 大樹が出場する試合で、愛衣は雪彦が弓を引くところを見たことがある。その時の雪彦は、まるで鷹か鷲のような眼差しで的一点だけを狙っている。一目睨まれたら最後、命を奪う恐怖と畏れ。なにより、氷を張ったみたいにぴいんとした冷たさが、その場を支配する。そして弓道場を後にすると、今までの殺気じみた雰囲気は何処へ消えるのか、途端にやる気をなくした、死んだ魚の目をするのだ。その入れ替わりの激しさに、愛衣は思わず別の人かと疑問を持ったくらいだ。

「影崎さん、そんなに怖い人じゃないのね」

 後片付けのとき、大樹に言うと「そんな人は取って食うようなこと、アイツはしねぇよ」と笑われた。


 大樹が雪彦から離れた隙を見て、愛衣は雪彦の隣に座った。二人がけのソファーに並んで座ると、雪彦の背の高さが際立った。

「影崎さんって、その、兄とつきあってるんですよね?」

 何気なく話す。つと、雪彦の目が愛衣を捉える。

「君は俺たちの関係を反対するの?」

「いえ、そういう意味ではなくて」

「じゃあ、どういう意味?」

 水晶みたいに研ぎ澄まされた声で問いただされる。学校の先生に叱られるよりも身が竦む。思わず背筋が伸びた。

「兄さんは、いつも自分のことは後回しで、友達と遊びに行くこともなくって、彼女も作ることもなかったんです。そんな兄さんが私たち以外にあんなにくつろいだ顔を見せるの、初めて見たので」

 一呼吸置いて、愛衣は続けた。

「なので、本当に影崎さんのこと好きなんだなって」

「あいつがそう思ってくれてたら、いいんだけどな」

「大丈夫ですよ」

「何でそう言い切れる?」

「妹ですから」

 黙って聞いていた雪彦は、はしはしと瞬きをしながらぎゅっと唇を結んだ。それからぽつりと呟いた。

「大樹の隣が、居心地が良かったんだ」

 それだけだった。続きはなかった。それでも伝わってきた。

 言葉の質だ。たくさん語るよりも一言に重きを置く。今の雪彦ははそんなふうな言い方をした。見上げると、雪彦の目元がやんわりと和らいで、泣き黒子の辺りがほんのりと桜色に染まっている。

「不束な兄ですが、宜しくお願いします」

「こちらこそ」

 雪彦に頭を下げると、彼の後ろで部屋から戻ってきた大樹が大きく長く息を吐いて額に手をやっていた。

「おまえなぁ……改まってなにを言い出すかと思ったら。びっくりするだろうが」

「だって兄さんがお世話になるんですもの。これくらいは妹として言わせてもらいたいものね」

「大人ぶりすぎ」

「少しは大人ぶらせてよ」

 今まで蚊帳の外になっていた嵐志が口を開いた。

「兄者ー、それってホモってことか?」

 それは算数の答えを聞いてくるみたいなあっけなさだった。それでも明らかに、なにか、ヒビが入った。愛衣のうなじがぞわりと粟立った。「嵐志ッ」と大樹の厳しい声色が飛ぶ。嵐志は頬を打たれたみたいに肩を震わせ、「ごめんなさいっ」と反射的に零した。だが、なにに対して謝っているのか、自分でもわかっていないようでぱちぱちと瞬きしていた。

「大樹、いいよ。気にしてないから」

 雪彦は会いに向けたのと同じ笑みを浮かべていた。けれどその両腕は自分を守るように腹を抱え込んでいた。

「ねぇ、嵐志くん」

 雪彦はソファーから降りて、嵐志の隣に腰を下ろす。

「君は、それをどういう意味で使ってる?」

「男の人が好きな男の人」ばつが悪そうに答えたあと、嵐志は「学校でみんな言ってる」と付け加えた。愛衣も小学校の頃を思い出していた。どちらかというとかわいい見た目の男子が“ホモ”と呼ばれていた。その時の意味も、嵐志が言ったことと同じなのだろう。悪気はないのだ。

「そうだね。間違っちゃいないよ」

 そっと嵐志の頭に雪彦の手のひらが置かれる。

「誰とだって恋仲になれるし、男性同士女性同士なんてものは関係ない。でも気をつけて。嵐志くんが言ったことは、その人を否定するような言い方だから」

 ぴくり、と嵐志の頬が強張った。

「たとえ冗談だったとしても、傷つく人はいる。それだけは覚えておいてほしい」

 んっ、と嵐志は俯いた。彼なりに苦慮しているらしく、眉間に皺を寄せて難しい顔になっていた。難しいね、と雪彦は大樹に向かって力なく微笑んだ。

「お兄ちゃん」

 ずっと黙っていた結衣が、不思議そうな顔をして大樹たちを見上げた。嵐志よりもきょとんとしていて、話の内容すらわかっていないみたいな表情だ。

「結衣、よくわかんないけど、雪彦お兄ちゃんは雪彦お兄ちゃんでしょ?」

 リビングが再び静かになった。結衣は気にすることもなく続ける。

「結衣は、雪彦お兄ちゃんも大樹お兄ちゃんも好きだから、仲良しだとうれしいし、もっと仲良しだと、結衣、もっとうれしい」

 ひまわりが咲いたような明るい笑顔を向けられた雪彦は、ぱちぱちと瞬きして、可笑しそうに声を上げて笑い出した。

「結衣、おかしなこといった?」

 首を傾げる結衣に「ううん、言ってないよ」と雪彦は結衣の頭をするりと撫でる。

「そうだね、結衣くんの言うとおりだ。たったそれだけのことなんだ」

 結衣はまたわからないというように鼻に皺を寄せたが、すぐに雪彦の手のひらに自ら頭をすり寄せた。わからないことは、結衣にとってはどうでもいいことなのだ。

「考えるのやーめたっ!」

 嵐志が大声を上げると、声に驚いて桜子が吠えた。

「そーだよ、結衣の言うとおりじゃんか! 雪彦兄者は雪彦兄者に変わりないんだし! それに! 兄者と付き合うってなら、また家に遊びに来てくれるんだろ?」

 どんっ、と雪彦に体当たりをかます。嵐志なりの愛情表現。それにならって結衣も反対側から雪彦に抱きついた。

 愛衣と大樹は顔を見合わせた。兄は呆れたように、でも嬉しそうに「いいところ結衣に持って行かれた」と肩をすくめた。

「あの……」愛衣が口を開いた。「私も、雪彦さんって呼んでいいですか?」


§


「また来てねーっ!」

「約束だかんなーっ!」

 嵐志と結衣の元気の良すぎる見送りは、玄関の扉を閉めると一気に静かになった。思わず吐息を漏らすと大樹に聞かれたのか、彼も疲れたように笑った。

「悪いな、最後の最後までやかましくて」

「なんか、あっさりと受け入れられてしまった」

「驚いた?」

「かなり」

 それでも自分の頬が緩んでいるのがわかる。蒸し暑い夜風含まれた夏の匂いを吸い込むと、ひどく気持ちが落ち着いてる。

 もう少し、何かあると思っていた。例えば距離を置かれるとか。でも彼の妹弟たちは距離を置くどころか、また来てほしいとまで言ってきた。彼らを見て大樹が育った家だと確信した。


 雪彦が大樹と出会ったのは二年前。市外の武道場で、大樹が練習しているところに鉢合わせたのが始まりだ。でもそれは鉢合わせた一瞬で、後に高校の姉妹校の弓道部員だとわかった。

 徹底的に弓道に打ち込みたかった雪彦は、周囲の人間関係を切り捨てていた。半端な動機で入部してくる人間とは関わらないように無視し続けた。

 そんな中でうっとうしいほど声をかけ続けてきたのが一之瀬大樹だ。

 熱中症にならないように水分補給を促したり、貧血で倒れたときは介抱してもらった。雪彦を天才弓士という肩書きで括らず、あくまでも同じ弓道部の一員として接してくれていた。

 一時、弓道部内で雪彦がホモではないかという噂が立った。それは雪彦自身が女子生徒の告白をことごとく無視し続けてきたのが原因だ。その頃から道場の隅で同級生たちがこそこそと、でも確実に雪彦の耳に聞こえるように「ホモだホモだ」と言うのが目立った。

 自分が特殊な性癖だってことは、小学生の頃から自覚していた。それが普通じゃないということも実感していた。

 大樹は何も言わなかったが、ある日スポーツセンターで意を決したように「ゲイなのか」と聞いてきた。

 腹が立った。

 それと同時に足下からすぅっと沈み込んでいくような喪失感に襲われた。

 大樹が、周囲の人間と同じようなことを聞いてきたのが、許せなかった。

 翌日、彼は雪彦に謝罪してきた。


「自分が知らなくて、情けなくなって恥ずかしくなっただけだ。影崎が何者かなんて関係ないし、気持ち悪いなんて思ってない」

 

 大樹は前日、セクシャルマイノリティについて調べたという。

 知らなかったことが多すぎて、知らないのに軽々しく「ゲイか」と聞いたことが恥ずかしいと言った。こんなふうに尊重して肯定してくれたのは大樹が初めてだった。

 惹かれるのに時間はかからなかった。


「大樹があそこで育ったのが、なんとなくわかる気がする」

「どういう意味だよ」

「良い家庭だってこと」

 ほんと、泣きたくなるくらい。

 声に出ていたらしい。大きな手のひらが髪をわしゃわしゃなで回した。

「だったら、またいつでも来いよ」

 改札口で大樹と別れて、電車に乗り込む。乗り込んだ車両は帰宅時間の人が多く、偶然空いていた席に座る。

 窓からぼんやりと見える家や街頭の灯がゆっくりと流れていくのが見える。そっと周りを見渡すと、みんな、誰かと一緒にいた。

 同僚たちと楽しそうに立ち話をする社会人たち。

 部活仲間なのか同じユニフォームの女子学生たち。

 静かに座り互いの手を握り合う恋人たち。

 一人でも、携帯で家族に「今から帰る」と連絡する人もいる。

 どれもが雪彦にとって縁遠い光景だった。

 どうして、と瞼を閉じる。どうして、一人でいるときよりも、誰かといるときのほうが寂しく感じるんだろう。

 

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