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 午後の授業中、愛衣は数学のノートが変な気配を漂わせていることに気づいた。妙に表紙が歪んでいる。開いてみてその要因がわかった。ページのほとんどに、マジックペンで落書きされていた。

「キモい」「学校来んな」と、幼稚な言葉が並ぶページをぱらぱらとめくる。まだ使っていないページまでも、埋まっていた。ふぅっと息を吐く。今日が数学ノートの提出日だと言うことを知っての犯行に、思わず笑ってしまった。

 なんだか、悔しがったり悲しがったりするのが煩わしくなって、愛衣はそのままノートを提出した。あまり期待していないけれど、教師はこれでどう動くだろう。純粋に興味があった。教室を見回して、隠れている兵士を一瞥した。

 次の日には理科のノート、その次の日は社会のノートが犠牲になった。

 家に帰ると、鞄からノートを出す。落書きのページを開く。まだ買ったばかりのノートなのに、とため息を吐いた。それと同時に、胸の辺りが変に痛んだ。復習用にまとめてあるノートを使って、家にいる間に新しいノートに写した。数学のノートを書き写しながら「こんなことして」と呟く。

 こんなことをして何が楽しいんだろう。

 一週間が経つ。愛衣の自制心がだんだんと効かなくなってきた頃だ。落書きがされたままのノートを提出した後、担任に呼び出されて事情を聞かれたものの、上手く説明できなくて、結局のところ、注意だけされて戻された。学校の教師は信頼できない。

 制服のポケットから『月に祈りを』の文庫を出し、その表紙を眺める。タイトルの下に書かれた『宮沢詩織』の文字を、するりと指でなぞった。

 主人公の悠祈ゆうきには、同性の恋人の月咲つかさがいた。けれど、喧嘩したまま一週間が経ったある日、月咲が交通事故に遭い、記憶喪失になってしまう。彼が自分のことを思い出して傷つくことを恐れた悠祈は、咄嗟とっさに自分の亡くなった兄“夏祈なつき”と名乗った。偽りの名前で月咲に接する悠祈は、彼が社会へ復帰できるように、新たな幸せをつかめるようにサポートする。そんな中で、悠祈自身にも新しい出会いや女性との恋のチャンスが訪れ、また様々な苦難が降りかかる。それでも月咲の前で“夏祈”として振る舞う。月咲もまたサポートしてくれる“夏祈”に興味を持ち、彼について知りたいと願うようになる。結果的に記憶を取り戻す。ようやくお互いに想いを伝え合い、愛を誓う。

 詩織先輩は、何を思ってこの作品を書いたのだろう。この話に、雪彦はなにを感じたんだろう。 

「一之瀬さんっ」

 久しぶりに名前を呼ばれて顔を上げた。

 目の前に立っていたのは春間はるま美奈子みなこ。三年で初めて同じクラスになった女子だ。そばかすが散った頬に、肩口で切りそろえた髪を無理やり一つに結んでいるせいか、毛がぴょんぴょん跳ねていた。

 兄のことがクラスに広まった頃から、愛衣は彼女の視線をたびたび感じていた。目が合うことも増え、初めは嫌われているかと思っていた。けれど時間が経つにつれ違うと気づいたが、いまいち得体が知れなかった。

 美奈子は愛衣の隣に回ってくると、内緒話をするみたいに顔を寄せた。

「一之瀬さんのお兄さんさぁ、男の人と付き合ってるんでしょ?」

 この話題が身の回りに出る度に、愛衣の身体は火が付いたように熱くなる。クラスの視線が一気に愛衣の方に向いているように感じるからだ。

 ページに金木犀の栞を挟んで、袖口のボタンを付けたり外したりを繰り返す。金属でできたボタンよりも指先が冷たい。身体の中は熱いのに。

「へぇ。紀藤さんの言ってたとおりだ。なにも言えないってことは、ホントなんだね」

 にっと美奈子が笑った。その目が異様に好奇できらきらして見えた。微かに首を巡らせて麻美を探す。こめかみがじくじくと脈を打っていた。心臓の音とリンクしていた。

「あのね、お兄さんたちのこと、いろいろ教えてほしいんだ」

 美奈子は「あ、違うの。冷やかしにするんじゃないよ」と明るい声で前置きしながら胸の前で両手を振った。

「私ね、今BL書いているんだけど、モデルにしたいの。私の周り、そーゆー人いなくって、あんまり実感ないし、リアリティ出なくって。ねぇねぇ、キスしてるのとかみたことある?」

 目の前が、真っ赤になった。

 バシッ、と乾いた音がして、右の手のひらに火を押しつけられたような痛みが走った。

 よろめいた美奈子が隣の席に腰をぶつけ、愛衣の目の前で尻餅をついた。ぽかんと口を開き、叩かれた頬を手で押さえて愛衣を見上げでいる。どうやら、愛衣の右手が彼女の頬を平手打ちをしたようだ。

 一瞬、教室が静まり返り、周囲で悲鳴が上がった。

 愛衣が立ち上がった反動で倒れた椅子の足を掴む。ガッ、と引きずる音に教室中がびくついた。

「やめて」

 ぞっとするほど険しく、冷たい声が聞こえた。息ができないほど胸が苦しかった。焼け付くほど喉咽が熱かった。聞こえたのは、愛衣自身の声だった。

 両手で頭の上まで椅子を持ち上げると、ざわつきがさらに大きくなった。鳥の群れみたいな声が、ますます胸の奥にある感情を引きずり出す。学校の椅子って、こんなに軽かったっけ。

「これ以上、兄さんと雪彦さんの邪魔しないでッ!」

 悲鳴、動揺、制止。全ての声をかき消すように椅子を振り下ろした。


  §


 愛衣が学年主任と担任に呼び出されてから、どれくらい時間が経ったのだろう。本来は数分程度だったのかもしれない。けれど、愛衣には何時間も拘束されているみたいだった。

 会議室で、座らされたテーブルに向き合うように担任が座り「どうしてあんなことをしたの?」と延々と問いかけられる。

 愛衣は硬く口を閉ざしていた。話すことなんてない。話したとしても、先生にはわからないだろう。中学生、高校生の恋愛事情にどうして入り込むのだというのだ。愛衣はじっと息を詰めていた。


 数十分前、椅子が振り下ろされたのを皮切りに、教室の中がパニックになった。窓際にいたクラスメイトたちは出口にめがけて殺到した。机や椅子がぶつかり、倒れ、悲鳴や足音と重なり合って大合唱を起こす。

 愛衣は素早く美奈子のセーラーの襟を掴んだ。彼女はじたばたと愛衣の手から逃れようと、醜く足掻いた。手首にスナップを効かせて、もう二、三度、美奈子の頬を叩く。

 今度は美奈子が愛衣に掴みかかろうとしたが、ビッ、と鋭い音がして振り払われた。左手で彼女の頭を掴む。親指と小指がこめかみに食い込んで、美奈子の悲鳴が響いた。父の遺伝か、兄に似たのか、愛衣は握力が強かった。頭を振って手を払おうとするが、指がさらに食い込んで、返って逆効果だった。

 拳を握り振りかぶったところで、誰かが愛の手首を掴んだ。ふっと、手首から図書室に似た紙の香りがした。悠馬だった。

「愛衣!」

「離して!」

 声が重なる。けれど悠馬の方が一枚上手だった。

「手を傷つけるな! 書けなくなるぞッ」

 掴まれた手首の骨が、ぎっ、と軋む。顔をしかめると「やめろ」ともう一度、静かに悠馬が言った。

 美奈子の頭を掴んでいた手を離す。同時に、その手で彼女のこめかみを殴打した。頭が吹き飛んだみたいに美奈子が倒れる。まるで右手に残っていた威力がそのまま左手に伝わったみたいだった。

 すぐさま悠馬に左手首を掴まれる。

「左手は利き手じゃない」

「屁理屈言うな!」

「悠馬には関係ない!」

 普段、教室では無表情か不機嫌のどちらかしか見せない悠馬が、愛衣を睨んでいた。拘束された手首が、ぎしっ、とまた軋んだ。鉄格子に嵌められているみたいに、びくともしなかった。

 騒ぎを聞きつけた体育教師と隣のクラスの男性教師、それに学級主任までがやってくると、悠馬も愛衣も途端に大人しくなった。大人が介入してきたことで、お互いに馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。あれだけ強く握られていた手首が、涼しくなった。

 教師たちに囲まれて教室を出る際、男子たちが悠馬を囲んでいた。おい国枝、さっきのなんだよ。一之瀬とどうなんだよ。いい雰囲気だったじゃねぇか。そんな声が聞こえた一方で、女子たちは皆、美奈子に駆け寄り心配の言葉を掛けていた。それを見ても愛衣は何も感じなかった。

 ざまあみろ。


 長い時間に感じたけれど、思い返してみるとあっさりした短い時間だった。苦いコーヒーを一気に飲み干したような後味が口の中に広がっている。口をもごもごさせるけど簡単には消えてくれない。

 会議室のドアが開いて、愛衣の知らない女の人が入ってきた。愛衣よりも十センチは背が高いように見える。教師ではなかった。淡いブルーのスーツを着ている。香水の匂いがキツく、愛衣は顔をしかめた。男受けしそうなシトラスの香りだ。化粧の匂いも混じっていた。見た目は若いけれど、愛衣の母とそんなに年齢は変わらないだろう。

「この子? ミナのことを引っぱたいたっていうのは」

 ちらりと横目で睨んでくる。「春間さんどうか落ち着いて」と学年主任が猫なで声を出すが、逆効果だ。美奈子の母親だ。

「落ち着いていますよ、えぇ、おちついています」

 見る限り言葉と様子がばらばらだ。声は上擦っていて、調子が狂ったピアノみたいだった。

 美奈子の母親は愛衣につかつか歩み寄ると、急に手を振り上げて愛衣の頬を叩いた。ぱぁん、と乾いた音が響き、頬に熱が走る。

 声は上げなかった。痛かったけれど、我慢するほどのものでもなかった。座ったまま美奈子の母親を睨みながあら、前髪の乱れを直した。それが癪に障ったのか、彼女は大声を上げて叫び出す。

 なんなのその目は、とか、教育が鳴ってないんじゃないか、とか。顎を上げて威圧的に見下しているが、あいにく五月蝿い弟のせいで、多少の騒ぎは虫の羽音同然であるし、正直言って、大樹の一睨みの方が、愛衣にとっては恐ろしいのだ。

「この子の親はどうしたの? まだ来ていないの?」と怒鳴り散らす。

 兄はきっと来るんだろうな。急に胸がきゅうっと音を立てた。左の手の甲をそっとなでる。

「遅くなってすみません」

 ドアが再び開いて、椿原高校の制服を着た大樹が現れた。走ってきたのか、肩が上下していて、ふーっと息を吐いていた。

「愛衣」

 ドアを閉めながら名前を呼ばれる。愛衣は膝に目を落としたまま顔を上げなかった。大樹の声は一切愛衣を咎めていなかった。「何したんだ?」と問われるが、その声もまた優しかった。悪戯いたずらをした嵐志に「今度は何をやらかしたんだ」と可笑しそうに追求するときと同じだった。

「ふざけてるの?」

 さっきよりも怒りに震えた声で、美奈子の母親が叫んだ。愛衣と大樹が顔を向けると、彼女は顔を真っ赤にしながら怒鳴り散らし始めた。

「高校生じゃない! 親はどうしたのよ親は! こんな子どもを寄越して、アンタたちの親は何してんのよ!」

「父は仕事です。母は入院中で、今ここに来ることはできません」

 すっかり言われ慣れてしまった台詞に大樹が淡々と答えていく。それに対して「仕事ぉ?」といかぶしげに顔をしかめた。

「私だって仕事を抜け出してきたわよ! 子どものことだもの、当然でしょ? よくもまぁ自分の子どもが事件起こしておいて、放っておけるわね! ちゃんと愛されてないのね、あぁかわいそう!」

 大樹が父が海上自衛隊であること、その仕事が潜水士であることを伝えると、彼女は「はっ! 海上自衛隊!」となぜか勝ち誇ったように口元を歪めた。

「まぁまぁ、なんて乱暴な親だこと。それじゃぁ子どもだけで暮らしているって言うの? 育児放棄よ、ネグレクトだわ!」

 愛衣が口を開きかけたが、大樹の手が制した。

 美奈子の母親は、事あるごとに育児放棄という単語を繰り返した。息継ぎのため、喋るのを途切らせたところに「失礼ですが」と大樹が切り込んだ。

「失礼ですが、あなたは育児放棄、ネグレクトという言葉の意味を正しく理解していますか?」

 不意を突かれた彼女は「むっ」と唸った。愛衣はそっと大樹を見上げた。

「ネグレクトというのは、子どもが生きていく上で最低限必要なものを養育者が与えることができずに、習慣化している状態のことを言います。俺たちの家には、確かに両親はいません。ですが、父は働いていて、仕事が休みの日に必ず俺たちのところへ返ってきてくれます。それにネグレクト、育児放棄は虐待に当たります。生命の危機に直面する状況を親から与えられるのを虐待とするならば、今の俺たちは、育児放棄なんかじゃありません」

 唖然と大樹を見ていた美奈子の母親は、はっと我に返ると、今度は子どものくせに大人に盾突くなんて、とぶつぶつ文句を垂らし始めた。学年主任が、椅子に座るよう大樹を促したが、大樹は丁寧に断った。あくまでも、愛衣の隣にいると、口調で伝わってきた。

「それで、妹が暴力をしたと伺いましたが」

 大樹が本題を口にすると、美奈子の母親は大声で「そうよ!」と再びヒステリックに叫びだした。

「うちのミナをひっぱたいただけじゃなくて、椅子まで投げつけたって言うじゃない! ミナったらかわいそうに、顔に青アザができちゃって……よくも傷つけてくれたわねッ、損害賠償をっ、」

「原因は?」

 早口でまくし立てていた文句の数々は、大樹の一言で呆気なく崩れた。

「妹が引っぱたいた、椅子を投げつけた原因はなにか、と聞いているんです。お宅のお嬢さんが、何か気に障るようなことを言った、あるいはやった、と考えることはないのかと」

 大樹はまたしても淡々と続けた。

「青アザなら時間が経てば消えますし、この程度で損害賠償と言われても、証拠も不十分で、どっちが悪いかもはっきりしないのでは、こちらも対応しかねます」

「暴力を幇助するの?」

「そこへ至る原因がわからなければ、暴力であるか、正当防衛であるか正確な判断ができません」

 それに、と大樹の手が肩に置かれる。大きな兄の手のひらから、じん、と熱が伝わってくる。

「妹は賢明ですので、そういった線引きはできると信じています」

 ふんっ、と荒く鼻息が吐き出された。真っ向から挑んでは勝ち目がないと踏んだのか、またぶつぶつと文句を垂れ始めた。

「大人に口答えするなんて。親が親なら子どもも子どもだわ。自衛隊なんて野蛮な仕事をしているから、子どもがまともに育たないのよ。かわいそうに」

 同情ともつかない視線に、愛衣はぐっとおなかに力を込めた。そうしていないと、教室と同じ事をしてしまいそうだったから。

「あなたも」と、今度は大樹に視線が向けられる。「男と付き合っているんですって?」

 途端、大樹の表情が少しだけ陰った。

「ミナから聞いたわ。その話をその娘にしたら、椅子を投げてきたって。やっぱり親がいけないのよ。ちゃんと大事な時期に子どもと一緒にいないんだもの。教育がなってないんだからグレて当然ね! だから癇癪持ちになったり、男と付き合ったりする頭がおかしい子ができ――」

「兄さんの前でそんなこと言うなッ!」

 ガタン、と背後で音がして、愛衣は自分が立ち上がっていることに気づいた。黒板を引っ掻いたときみたいに、不快な音が身体亜銃に響いて、あちこちに引っ掻き傷を付けて行くみたいに痛い。

「なんで他人のアンタに兄さんのことを悪く言われなきゃいけないの? 自分が気持ち悪いって思っているから、排除しようとしているだけでしょ。頭おかしいなんて言っているけど、アンタの娘はッ! 兄さんたちのことネタにして創作しようとしていた! 二次元と三次元の区別がついていないだけじゃなく、本人たちに直接了承も得ていない! 書くことを馬鹿にしているとしか思えないっ、そっちの方が頭おかしいッ!」

「愛衣、やめなさいっ」

「イヤッ、やめないわ!」

 厳しく制する大樹の声も、ぴしゃりと撥ね付ける。

「お父さんが野蛮ですって? 見たこともないくせに決めつけないで! お母さんだってそうよ! 今は一緒に暮らせないだけで、アンタなんかよりもずっと素敵な人よ! お母さんは、アンタみたいに人を貶したりしないッ!」

 愛衣の迫力に、その場にいた誰もが黙った。喉咽がひりひりしている。憎悪が身体の中からうねりながら飛び出してきて、室内をぐちゃぐちゃにしている。肩で息をしながら、愛衣はぐっと手を握りしめた。

「兄さんが誰と付き合おうが誰にも関係ないっ、もう邪魔するなッ!」

 そのとき、ふっ、と視界が遮られた。大樹の手のひらだったからだ。あったかい、ワックスの匂いがついた手のひらが愛衣を守る。

「愛衣、もういい……やめなさい」

 頭の上から振ってきた大樹の声は、ひどく掠れていた。

 愛衣は微かに息を呑んだ。その声は『雪の女王』に出てくる悪魔の鏡みたいに粉々に砕かれて愛衣の心臓に降りかかった。ちくちくちくと刺さって、取り除けないくらいに深い鋭い痛みが走った。

 大樹を傷つけた。その事実が愛衣の身体を縛り上げ、反抗の熱を急激に冷やした。

 愛衣は糸の切れたマリオネットみたいに腕を身体の両脇に垂れ下げ、「……はい」とだけ呟いた。


  §


 大樹の後ろを背後霊のようにのろのろ歩く。文芸部には行かなかった。気力がぷつんと切れてしまった。魂は身体を抜けて、宙をふらふらさまよっている。ふっと吹いた風は冬の気配をまとっていた。

 いつも胸を張って大股で歩く道だが、ゆっくりしか歩けないせいで家路が長く感じる。時々、アスファルトのくぼみに爪先が引っかかって、つんのめりそうになる。

 その横を、大樹も歩幅を合わせてくれていた。背も高く足も長い大樹には、ちょっとばかし辛いかもしれない、と思った。

 いつもの歩幅に戻そうとすると「コラ」とセーラーの襟を掴まれる。

「無理するんじゃない」

「だって」

「長男命令」

 出た。愛衣はため息を吐く。基本自由にさせてくれる大樹だが、どうしても譲れないときに出す言葉だ。これでも引き下がらないようなら「これを聞けなければ、俺の弟、妹じゃない」なんて言い出す始末だ。

 はぁい、と無気力気味に返事をして、手のひらを擦って温める。

「兄さん」

「なに?」

「私、あの人たちを許すことなんて、できない」

 頬が熱くなる。手のひらがほわっと熱を持つ。ぐっと胸が詰まって、言葉の代わりに雫が零れてきそうだ。鉛色の空が落ちてきそうな気配がした。今ならいい。このまま空が落っこちてきて、全部潰されてしまえばいい。

「愛衣が言っていることは間違いじゃない。それに無理に許す必要はない」

 立ち止まって兄を見上げる。

「でも、あの態度はダメだ」

「わかってる」

「おまえは、クラスメイトに危害を加えた」

「わかってる」

「紛れもない事実だ」

「わかってるっ!」

 そう答えながらも、正直もうわからなかった。何が正しくて、何が間違っているのか。間違っていることが悪くないなんて言ってしまったら、その中に潜む本物の悪意はどうなるの。

 自動販売機に立ち寄って、ポカリとミルクティーをそれぞれホットで買う。冬限定のホットのポカリは、そんなに甘くなかった。

「愛衣がわかっていることは、俺だってちゃんと知ってるさ」

 ペットボトルのミルクティーを、くらくらと回しながら、愛衣の頭を大樹の大きな手のひらが撫でた。

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