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悠馬の目の前に本の塔が三つも立る。読み終えた『フランケンシュタイン』を、そのうちの一つに積み上げる。
マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』。
井上ひさしの『父と暮らせば』。
ドストエフスキーの『罪と罰』。
ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』。
あさのあつこの『バッテリー』シリーズ。
アレクサンドル・デュマの『
ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』
J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズ。
宮部みゆきの『
オー・ヘンリーの『最後のひと葉』。
ジョージ・マクドナルドの童話全集。
ポール・ギャリコの『雪のひとひら』。
その他にもたくさんの書籍が悠馬の前にあった。半日図書室にこもって悠馬が読み終えた本の死骸だった。
愛衣が教師たちに連れて行かれてから、悠馬は男女関係なく質問責めにあった。内容はもちろん、愛衣との関係についてだ。
先日の音莉との会話が脳裏に思い起こされる。だから、決めつけようとしてくるな。
「おい国枝! お前一之瀬のことどう思ってるんだよ?」
そう言ったのは土川隆史だった。お前が聞くかよ。途端に身体が かぁっ と熱くなった。
「さぁね。少なくともお前よりは大事に思ってるぜ?」
言葉とともに悠馬の右手が勝手に動いた。合気道しか習ったことがない悠馬の柔い拳だけど、素早かったからか、簡単に隆史の頬にめり込んだ。余裕だ。確かに俺の後輩に負けるくらいなら、底が知れてる。
騒ぎになりかねないうちに、悠馬は図書室に向かった。入るなり手当たり次第に本を腕に抱えて窓辺の席に積み上げた。授業も出ないで、今の今まで読みふけっていた。
考え事をしないのには活字を追いかけるのが一番だ。本の世界を頭に叩き込んで、なにも考えずに文字を追う。悠馬の目は少し変わっていて、文字を拾いやすい。それに伴って現実や真実をも見つけやすかった。
本を読み終えてしまったら。読むものが尽きてしまったら、また現実を見なければいけない。清く正しいはずの現実は否応なく周囲を傷つける。
本の塔をぼーっと眺めていると、隣に座った花鶏が頭を撫でてきた。「触んな」と強く払い除けると「悪い」と悪びれもなく謝罪を投げた。
「また一段と落ち込んでるな」
きちんと授業を全部受けてからやってきた花鶏は、まるで世間話をするみたいな口調で言って、片肘をついた。
「愛衣のことがそんなに気になるか」
「あ?」
威嚇を込めて声を出す。けれども花鶏は気にも留めずに英語で書かれた分厚い本を開いていた。
忘れたいことを思い出させやがって。
愛衣の手首を握ったとき、その細さに驚いた。小学校に入学してから、手も繋いだこともなくなった。一番最後に繋いだ手は、幼稚園の卒園式の時。あの時よりも大きくなっているけど、愛衣の手首は細くてすぐに折れそうだった。
少し力を入れただけで簡単に拘束できてしまった。愛衣は軽々と本の山を運ぶけれど、男女の力の本当の差をここで思い知らされた気分だった。
両手を開いて手のひらを見つめる。
ショックだった。思わず血の気が引いた。あんなに小さくか弱くなってるなんて、思ってもみなかった。傍にいすぎて、わからなくなっていた。
それに、大樹のこともだ。
愛衣の兄である大樹は、悠馬にとって憧れでもあった。弓道を始める前、大樹は居合道を習っていた。その姿は凜としていて、三つだけ歳が離れているとはとうてい思えないくらい、大樹は大人びていた。
悠馬が夏休みに書いた読書感想文を最初に褒めてくれたのも大樹だった。具体的に
いつも悠馬よりも愛衣に目が行く母や姉と違って、大樹は悠馬自身を見てくれた。
その大樹さんが、まさか男の人と付き合っているなんて。
その人が、あの日愛衣と一緒にいた人だったなんて。
同性の恋愛は本の中では珍しくない。それはちょうどいい障害になる。障害があるから燃える恋があるのは『ロミオとジュリエット』で証明済みだ。障害を乗り越えてこそのハッピーエンドは感動を呼ぶ。わかりやすいストーリーだ。それに、前部長の
息を吐いて机にうつぶせになる。陽に当たった机の熱が頬を暖めた。心地良い。でも今はいらない暖かさだ。腕に顔を埋める。どうしてこうも上手くいかないんだろう。それが現実、なんて言い訳したくもない。でも、もう今日は、今日だけは動けない。
「…………どうして」
自分の声が微かに潤んでいる。
真実はいつも否応なく周囲を、悠馬自身を深く傷つける。
§
一気に冬の冷たい風が吹いてきた。きりっと冷たい。学校帰りだけれど、コンビニによって温かいものが恋しくなる。例えば肉まんとか。瀬呂家の子息である花鶏だって買い食いぐらいはする。
「悠馬先輩、やっぱり何かあったんですかね?」
「失恋ですかね?」
「鐘花ちゃん、それはちょっと違うような気が……」
鞄をぎゅっと抱えた夜鷹が隣を歩き、その隣を長い三つ編みを垂らした鐘花がのんびりと歩みを進める。
マフラーに口元を埋め、花鶏はどうするべきか考えあぐねていた。
後輩たちは今日起きたことを知らない。教えて余計な心配をさせるのも、愛衣も悠馬もきっと望まない。けれど教えなかったら追求されるのも目に見えている。特に音莉に。
「花鶏先輩はなにか知りません?」
鐘花に問われ、花鶏は「知らん」と簡素に答えた。本当は知っているけれど。
花鶏は事の
愛衣がクラスメイトを傷つけた。正確には椅子を投げつけたらしいが、最初に聞いたとき花鶏も驚いた。暴力を嫌う愛衣が人を傷つけるとは。愛衣なりの理由がきっとあるのだろう。それにしても、だ。
悠馬は大丈夫と言っていた。でも図書室での彼の様子を見る限り大丈夫とは言い難い。
「悪い。やっぱり知ってる」
夜鷹と鐘花が同時に花鶏を見た。
「知ってる、けどお前たちに話すかどうかは迷ってる」
沈黙の後「やっぱり」と言ったのは夜鷹の方だった。
「やっぱりってなんだよ」
「えっと……花鶏先輩は、悠馬先輩と仲悪いので……」
「そこは“仲が良い”んじゃないのかよ」
夜鷹がきゅっと肩をすくめた。鐘花はなにを言っているのかわからない、と首を傾げている。夜鷹は肩をすくめたまま続けた。
「だって……悠馬先輩も花鶏先輩も、いっつも喧嘩してるじゃないですか。仲悪いからこそ、気を遣わずに何があったのか踏み込んで聞き出せるんじゃないかなって」
一端言葉を途切れさせると、夜鷹は慌てて「そう……思った次第です、はい」と付け足した。
夜鷹の言うように、花鶏は悠馬と仲が悪い。というより波長が合わない。作品や書籍についての議論はするものの、基本的に苛ついているだけだ。互いの言葉や言動や価値観が合わず、その度に衝突している。しかし花鶏は引っかかりを覚えた。
「でも、部長とも喧嘩してるじゃねーか」
喧嘩という喧嘩は、もっぱら風夏との方が多い。うるさいと悠馬に怒られることもしばしばだ。
「あれは喧嘩とは違いますよ」
「そーですよ。だって花鶏先輩、風ちゃん先輩のこと信頼してますでしょ」
けろっと夜鷹が言って、続いて鐘花が口を開く。
「信頼してなきゃ、いつものあんな暴言が吐けるわけじゃないですか」
驚いた。いつもぼんやりしているように見える二人が、自信満々にこんな鋭いことを言うなんて思わなかった。
「お前ら……よく見てるな」
「えぇ、今更ですか」
「そうですよ~ 私たち先輩が思ってる以上に先輩たちのこと大好きなんですから~」
ねーっ、と夜鷹と鐘花が声をそろえる。
「だから、なにが起きてるのかくらいは知りたいんです。大好きな先輩が困ってるのなら、行って、助けてあげたいんです」
「夜鷹先輩? そこは『大好きな“愛衣ちゃん先輩”だから、助けてあげたい』の間違いじゃありませんこと~?」
「ちっ、違うってば! も~勝手なこと言わないでよ鐘花ちゃん!」
急に夜鷹と鐘花がたくましく見えた。年下だからって見くびっていたのか。一つや二つ歳が違うだけなのに、まだわからない子どもだって。なにもわかってないのは子どもなのは、自分も同じことなのに。
追い風が吹いた。
「わかった。そんなに言うんだったら教えてやる。ただし部外に他言無用だからな」
§
何があったのか教えてくれない。
愛衣の部屋の前で結衣はむすくれる。トレイに乗せた二つのカップにはホットココアがまだ湯気を立てている。
まずドアを開けてもくれないなんて。
「お姉ちゃんっ、ホットココア作ったの、一緒に飲もっ」
もう一度声を掛けてみるが、すぐに「いらない」とくぐもった声で返される。布団をかぶっているのかもしれない。
姉の様子がおかしい。大樹と愛衣が帰ってきたとき、結衣もただならぬ気配を察した。夕飯は嵐志が作ったが、愛衣は帰ってから部屋に閉じこもったきり、食卓に降りてこなかった。大樹も夕食の後、すぐに部屋に入ってしまった。
「なーんか変なの」
嵐志も気になってはいるものの、すぐには動き出さない。触らぬ神に祟りなし状態を貫いている。
「俺の出番はもう少し後なの!」
そんなことを言っていた。経緯はそんな感じで、特攻隊として結衣が先陣を切ったが、すっかり足止めを喰らってしまっているところだ。
せっかく作ったホットココアどうしよう。ココアに浮かべたホイップが半分以上溶け出している。とにかく飲んでもらわなければ。
「で、俺のところに来たのか」
「だって~」と結衣は膝をバンバンと叩く。大樹は折りたたみのテーブルを出してきて結衣からもらったココアをその上に置いた。
「だってお姉ちゃんが飲んでくれないんだもん」
ちょこんとカーペットに正座したむーっと頬をリスみたいに膨らませる。頭をぐりぐりとなで回すと「や~ん、お兄ちゃんもぅ~、や~め~て~っ」と結衣は猫みたいに身体をくねらせた。
「ダメ?」
「だーめっ」
「だめかー」
大樹はがっくりと首を垂れた。でもそんなに落ち込んでない風を装って「じゃあ、おいで」と両手を広げる。すると結衣は素直に大樹のあぐらの上に腰を下ろした。小さい結衣は、ぬいぐるみみたいに懐に収まった。
「結衣は優しいなー」
「優しくないもん」
「優しいよ」
「優しくても、肝心の人に届いてないんだったら優しくないのとおんなじだよ」
言うな。
「じゃあ、ココアを俺のところに持ってきてくれたってことで、優しい」
「捨てるのもったいないって言ったのはお兄ちゃんだよ? だから優しくない」
誰に影響を受けたのか、大樹の知らない間に口が達者になってきた。このまま皮肉屋にならないか、少しだけ心配になってくる。
「んー、なかなか認めないな」
「結衣は認めませーん」
「なら……こうだ!」
脇に手を挟んでこしょこしょとくすぐり始めると、結衣は「ひゃんっ!」と身体を跳ねて猫みたいにころころと身をよじった。
「きゃ~ん! くすぐったいっ、きゅすぎゅったい~ぃ~! も~! やめて
甲高い声で抵抗してくる。結衣は本当にくすぐりに弱い。脇と足の裏を徹底的にくすぐってやると、一分後には膝の上ですっかり伸びていた。
「結衣はかわいいなぁ」
「も~っ、お兄ちゃんのば~か~ もうおやつ作ってあげないも~ん」
ごめんごめん、と頭を掻く。結衣は大樹の毛布を身体にくるめて、
「ねー、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「愛衣お姉ちゃん、まだ元気ないね?」
さっきと打って変わって、真剣な声で聞いてくる。
「そうだな」
今日、中学で起こったことを思い起こす。あれで傷つかない愛衣じゃない。愛衣は弱い。意志は火のように苛烈で強いけれど、感情という水をふっかけられたら消えてしまう。それだけ危うくて脆い。
どうやってあの傷を癒やしてやればいいか。結衣が来るまでそればかり考えていた。
「お兄ちゃん、明日の朝、結衣が朝ごはん作る!」
毛布に包まったままの状態で身体を起こして、結衣は堂々と宣言した。
「でも、できるのか?」
「できる!」
誇らしげに結衣の目がきらきらしていた。その目は大樹よりも逞しい。結衣の成長に胸の奥にぐっとこみ上げるものがあった。
「そっか。やってみるか」
再度聞くと、結衣は力強く頷いて笑ってみせた。
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