拾壱話 春の兆し

あれから少し経ったあと。

「ありがとうございます、ありがとうございます!!!」

と必死に頭を下げる猫の探し主を背に、私と署長は相談者宅を去った。

住所を控えておいて正解だった。私はもしかして、有能な助手なのではなかろうか。

隣の署長は顔を顰めているが。

…あの後、隅田さんご夫婦の記憶をちょいちょいっと弄らせてもらって、辻褄の合う適当な偽の記憶を植え付けさせてもらった。

勿論、これは私の手によって行われたことではない。署長である。

何を隠そう、彼は記憶の改竄なるものを行うことが出来るのだ。

──「厳密には記憶の改竄ではないけどな」

──「あれは、夢をあたかも現実であるかのように認識させているだけだ。直接記憶を弄った訳では無い」

とは言っていたが、よく分からなかったので私は記憶の改竄だと認識している。

「しかし、まさか最初に受けた依頼まで達成するとは思いませんでしたよね。」

依頼とは、勿論猫探しのことである。

「依頼なんて受けてない」

なんて署長は隣で悪態ついているが、満更でも無いらしくそこまで嫌そうな顔はしていない。

「事件に巻き込まれてるなんてな。本当に、不幸な奴だ。」

署長は梅男に引っかかれた手を擦りながら呟く。彼は何故か、動物に好かれない体質らしい。本人も動物を好いていないので特に気にしていないらしいが。

「あ、そうだ。隅田さん、別棟を取り壊すことにしたそうですよ。屋敷神も、新しいものを本家から祀り直したそうです。」

「それがいいだろうよ。」

署長がふと立ち止まって宙を見上げた。

目線の先には、枝という枝にみっしりと大きな花をつけている、梅の木があった。

「春になったな」

「そうですね」

あの夜とは違い、肌を撫でる風はほんのり暖かく、ふわりふわりと髪を揺らす。

風が運んでくる花の香りが鼻腔をすぅと通り過ぎていって、その甘さに思わず頬が綻んだ。

(さてと)

本所に帰ってきてすぐ猫をお返ししてきたので、一度も家に帰っていないのだ。

それに、怒られるので署長には黙っていたが、学校を数日休んだせいで実はやらなければならないことがもりもりと溜まってしまっている状態なのである。

一刻でも早く帰って、明日以降の学生生活に備えなくてはならない。

丁度、大きな丁字路に辿り着く。ここを西に曲がれば私の自宅、東に曲がれば探偵事務所がある。

「じゃあ署長、ここで私は失礼しますね」

署長が無言で右手をすっと挙げる。私はくるりとその場で一回周り、西に曲がる。

目指す先は自宅。私の歩みは次第に少しずつ早くなっていき、気が付いたら思わず走り出していた。

のどかな日差しが全身を包み込み、風がふわっと通り抜けていく。

その暖かさはまるであの温もりのようで、どこか安心する。

ああ、笑みが止まらない。

(今日は、──なんて、いい日なんだろう)

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