陸話 倍返し三秒前

(ふむ。)

あれから三日ほどたった。署長はあれから部屋に篭もり切ってしまって最低限出てこない。

(単独行動を控えろってなら、私のそばにいろっての。)

などと口に出せもしない愚痴を心の中で呟いた。口に出そうものなら恐らく、指先をくるっと丸めた人差し指で頭をぺしん!だろう。私は心中が顔に出やすいらしいが、こうして周りに誰もいないのなら変に騒ぎ立てられることは無いだろう。いらんこと教えやがって。

しかし署長が出てこない以上、仕方がないので四六時中隅田さんご夫婦のお手伝いをしつつ、署長のおつかいを遂行する日々を送っていたので、一人になる瞬間というのはほぼ取れずにいた。

なのでこうして廊下を一人歩くのも、わりと久々な気がする。

にしても、あの日以来書生達は褒めてくれるどころか、あまり絡んでくれなくなった。あれは、やはりお世辞だったのだろうか。分かっていても、やはり寂しいものだ。しんみり。

「やあ。」

「ひゃあ?!」

後ろから急に話しかけられたことに吃驚して、思わず飛び跳ねる。そして足を滑らせてそのまま前にずっこける。

とても痛い。

「驚いた?」

くっくっと笑う声。振り向くと、そこに居たのは書生参だった。

「もう、吃驚したじゃないですか!」

腰をさすりながら立ち上がるのを、彼はにやにやしながら手を差し出し助けてくれた。

「ごめんごめん、驚かせたくてさ。」

とんだ傍迷惑である。

「ところで、ずっと気になってたんだけどなんで隅田さんのお宅に泊まらせてもらってるの?」

「家が火事になっちゃって、暫く住みづらい状況だからですかね。借家を見つけ次第、出ていくつもりです。」

「それはご愁傷さまだ。」

勿論嘘だ。というのも、滞在初日時、署長は「書生達には事情を話すな」と指示してきたからである。深く理由は教えてくれなかったが、署長は考え無しにこのような指示は出さない。

きっとなにかを掴んでいるのか、それとも嫉妬なのか。

後者はまあ、冗談だが。

「今晩空いてるかい?三人で花札をしようって話になっているんだけど一緒にどうかな。女の子がいるだけで話盛り上がると思うんだ。」

「あ、ごめんなさい。今晩はちょっと、早く寝ようと思って。」

これも嘘だ。今晩は署長に部屋に来るよう言われている。そして、その事を誰にも言うなとも。

書生参はあからさまに不機嫌そうな顔になる。

しかしそれはほんの一瞬で、すぐににんまりと笑う。そして、

「そういえば、知ってるかい。この家に出る幽霊の話。」

小声で囁いた。

「え、知らないです。聞きたい聞きたい。」

釣られて声が小さくなる。書生参はにんまり笑ったまま、顔を近づける。

「実はね、別棟があるだろ。あそこに幽霊が出るらしい。」

「え、本当なんですか、それ。」

この家に滞在する本当の理由はまさにそれなのだが、彼らはそれを知らないはずなので話ごと知らないふりをする。

「僕達は見た事がないけどね。隅田さんが出るって言ってるんだ。」

確か、隅田さんは書生達は幽霊を見てもないし信じてもいないと言っていた。

しかしやはり若いのだろう。こうして話してくるということは、信じてはいないが興味はあったらしい。

「ええ、幽霊見たいです。」

「な、気になるよな。…僕達か行った時は出てきてくれなかったけどね…」

酷く落胆した顔をする。 しかしそれは一瞬で、すぐ顔を上げにんまり笑う。

「まあ、借家が早く見つかればいいな。花札、参加したくなったら是非来てくれよ。部屋は隅田さんの部屋のすぐ前の部屋だ。」

「はーい。」

書生参は、そのまま反対方向に手を振りながら去っていった。そして彼の姿が視界から消えたことを確認して、

「何人の会話盗み聞きしてるんですか。」

「たまたまだ、気にするな」

私の視線の先─廊下の角からすっと、腕組をした人影が現れた。

署長だ。

室内だろうが相変わらず書生服に外套を羽織り、帽子を目深く被っている。

帽子と長い銀の前髪から漏れ出た赤い視線がすっと私の目を刺した。

「単独行動は控えろと言ったはずなんだが。」

「仕方ないじゃないですか、急に話しかけられたんですから」

盗み聞きしてたなら経緯も知ってて当然だと思うのだが、何故分かり切っていることを聞いてくるのか。

私は度々この人のことがよくわからなくなる。

「ていうかなに引き篭もってたんですか。酷いじゃないですか、一人にするなんて。」

「うるさい。別に関係ないだろ」

けっと吐き捨てる。よく見れば頬にほんのり赤みが差している。そしてなんか酒臭い。

こいつ昼間から呑んでやがったのか。

思わず怪訝な目を向ける。

さしもの署長も気まずそうに目を逸らす。そのまま、ぼそりと呟いた。

「三日前に頼んだことがあるだろう、それの報告が聞きたい。」

そこでようやく私の目を見る。その目は何だか、胡乱としているように見える。

「いいか、今すぐだ。今、すぐ。急な予定変更申し訳ないが、今すぐ部屋に行くぞ。」

なんだか呂律が上手く回ってないような気がする。署長、若干酔ってません?これが所謂ほろ酔いって奴です?

…もしかして、部屋に連れ込まれてつまみにでもされてぱくってされちゃうのか?!

それは嫌だ、私はまだ生きていたい!

抗議の声が飛び出しかけて止まる。署長の手が私の口を塞いだからだ。

「お前の声、頭痛くなるから聞きたくない」

……さいですか。

せめてもの抵抗にじーっと睨みつけてみる。再びすっと視線を逸らされた。

その時。

署長の顔が強ばり、目が大きく見開いている。

(ん?)

署長は私の口を塞いだままそのまま器用に私の後ろに周り、もう片方の手が私の腰に回った。

(?!)

思わず声が出かけるも、思うように声が出ない。

「しょ、ちょ……はな、…して…」

「うるさい」

無声音で囁く。ますます口を塞ぐ手の力も強まっていく。

その手を振り落とそうとじたばた暴れてみるものの、暴れれば暴れるほど回した手の力がますます強まってくる。いい加減疲れて息が上がってきた頃、署長の顔が私の耳元に近づいて、一言囁いた。

「気付かないのか?」

──空気が、変わった。

先程までとは全然違う、凍りつくような、悪意に満ち満ちたような空気。後ろから鋭く、刺すように突き刺さる視線に思わず背筋が凍る。視界の端に映るは、今までと比べ物にならないほどのどす黒い、漆黒のもや。

廊下の片隅で、それが悔しそうに蠢いているのが、見えた。

完全に固まってしまった私を無理やり先導する形で署長が部屋に連れていく。その間も、腰に手が回ったままだった。

そして署長が部屋の戸をあけ、私を入れる。


部屋に入る瞬間、誰かの舌打ちが聞こえた気がした。


「危なかったな」

部屋に入るなり拘束が解かれた。足の力が抜け、へなへなとその場にへたりこむ。

「あれ……どういうことですか……?」

「気付いての通りだ。お前今、狙われていた。」署長が私の前にしゃがみ込み、目線を合わせようとしてくる。でも私は、気恥しさから目を合わせることが出来なかった。

「狙われるって、なにに。」

幽霊の正体や毎晩何をしているのかすら、明らかになっていない状態だと言うのに。

「それを説明するために呼んだんだ。でも、あくまでまだ想像に過ぎない。だから、話をまず聞きたいと思う。」

そのままどかっと座り込む。

もうちょっと待っていてくれてもいいのに。でも、言葉は相変わらずだが、その雰囲気はいつもより少しばかり柔らかかった。

それが少しだけ嬉しくて、顔が思わず綻んだ。

「悪いが時間が無いんでな。」

帽子をとり、頭を搔く。その銀の髪は、窓から射した陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。

「調べろって頼んだこと、調べたな?」

「それは、勿論。」

三日前、風呂場で解散したあと、私は署長に部屋に呼ばれた。

そこで言い渡されたのは、幾つかの指示と頼み事。

署長は今、その報告を求めているのだ。

まずは一つ目。

「この家の屋敷神のことですが、」

気恥しいなんて言ってられない。

顔を上げ、署長の目をちゃんと見つめ返した。

「本棟の端にある小部屋に祭壇がありました。話を聞いたり見たりする限り、ちゃんと丁寧に祀られていたように感じます。でも、屋敷神は既にこの家から消えています。残り香が多少あるくらいで、本体は居ません。」

屋敷神とは、その屋敷と土地を守護する神である。基本的に彼らは悪いものから屋敷、そして一族を守護し、繁栄を約束する。その加護に感謝し、一族は感謝を以て丁寧に祀るのだ。祀られた屋敷神は普通、祭壇の周りに漂っていることが多い。たまたまその場に居なくても、大抵家の何処かにいるし、普通気配そのものは家中からするものだ。

しかし、この家の場合屋敷神のやの字程も気配がなく、祭壇がある場所には神々しい気配の代わりにとてつもなく悪いものが、沢山蠢いていた。

この家を包み込む黒いもやは、屋敷神の不在が原因と見て間違いないだろう。

しかし、この家の祀り方になんらおかしい点はなく、むしろ他家より丁寧なものだった。

それでも消えるとしたら、それは余程強く悪いモノに淘汰された場合と思われた。

残り香もそこまで古いものではなかった。消滅はせいぜい、半年前ほど前のことだろう。

以上が、私の屋敷神の件についての感想だった。

「やっぱりな。」

署長も同じ感想に至っていたらしい。苦虫を噛み潰したような顔になる。

「そして二つ目。書生達のことですが、」

すーっと一息つく。

「彼らが隅田さんのお宅に宿泊し始めたのは、半年前ほど前から。書生壱、書生弐、書生参の順に下宿を始めたそうです。で、最初こそそれぞれで行動していましたが、次第に常に共に行動をするようになったようです。」

その情報になんの意味があるのか、私にはよくわからなかった。しかし署長は真摯な顔で頷いているので、何かしら意味があるのだろう。

「隅田は、あの三人には怪奇現象のことを信じてもらえなかったそうだ。興味すら持たず、すっかり忘れ去られた話だと言っていた。」

ぼそり、と署長が呟いた。

前半は聞いた話だが、後半は知らない話だった。

ふと、何か頭にひっかかった気がした。しかし署長の目は、続きを催促している。

取り敢えず無視して、続けようと思う。

「最後に三つ目、怪異現象についてです。」

手に冷や汗がじわりと滲む。落ち着いた頃に恐怖が再び襲ってくる。

狙われるのは、あんまりいい気分にならない。

「こびりついた血ですが、日によって血の跡の横幅が違うそうです。まあ、隅田さんは最初の頃しか見ていないそうなので、最近のことはわからないそうですが、横幅が大きければ大きいほど、音は更に大きいものとなり、小さければ小さいほど音も小さいものになった…ような気がしたらしいです。」

署長は顎に手を当てて考え出した。

それを無視して話を続ける。

「そしてこれらの怪異現象は、半年前から始まったそうです。」

頭の中で何か、引っかかった。

なんだろう、もう少し考えたらわかる気がしないでもない。

しないのだが。

署長がにんまりと意地悪く笑う。

「分かった」

「ほんとですか?!」

飛び出さずにはいられなかった。ぐぐっと近付き、顔をじっと見つめる。そして署長は顔をそむけて、

「…近い。」

「はっ」

すすっと後ろに下がる。流石に少しみっともない真似をしてしまった。自らの頬が紅潮するのが分かる。

「ごめんなさい…思わず。」

「思わずでたまるか。」

いつもより深い溜息のあと、いつにもなく真剣な眼差しで私を見る。そして、

「作戦がある。」

乗ってくれるか。

己が羞恥心なんて吹っ飛んだ。気分が高揚したと言っても過言では無いだろう。

私はその問いに、一も二もなく頷いた。

されっぱなしなんて、そんなの嫌だ。やり返せるのなら、喜んでやり返す。やり返せなくてもやり返す。やり返すのなら倍返し。犯人にはとびっきり怖い思いをして欲しい。

それが私、壬生菖の信条ですから。

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