第85話「異変の終わり①」

 久々に晴れた朝だ。

 綺麗な青色が冷たく澄み切った空に広がっている。

 この町は冬の間は曇り空が多く、雪もよく降り時には吹雪く日もある。

 だが、綺麗に青空が広がる日が続くと長い冬が終わり春の足音が近づいてくる兆候だ。


「ふう……」


 僕は今、陽光を背中に受けながら、長い長い階段を慎重に上ってゆく。

 冬の間積もっていた雪が溶け始めていて、地面はびしょびしょだ。

 途中の階段踊り場で足を止めて、振り返り景色を眺める。

 ここは振り返って見える景色が最高だ。白く覆われた、街が望める。

 長い長い冬を乗り越えてまた町が新たに命が与えられるかのように躍動を取り戻す。

 冬の眠りから覚めるように――

 この町に来て以来これまでも何度も経験した春の訪れだが、今年は輪をかけて楽しみだった。

 今の自分のようにも思えて心が躍るから――。

 踏み固められた雪が氷のように固く変化してゴツゴツと、してて滑りやすくなっている。あともう少し日が経てば春の日差しが強くなって、本格的な雪解けが始まる。

 町から遠くに望める山々はまだ白いが、もうすぐそこまで春が来ている。


 ようやく辿り着いた校舎には屋上から一階の窓あたりにかかるぐらいに、祝・バレーボール部県大会優勝と垂れ幕がつり下げられている。

 初の国体出場も視野に入っているとか。

 運動場へ目をやると、当のバレーボール部部員達の集団が、運動場の端で息を整えたり座り込んだりしている。

 冷たい朝の空気の中、体から湯気が立っているのを見ると、朝練のランニング終えたばかりなのだろう。その練習の激しさが伺える。

 皆身長は清久より大きい。ちょっと距離が離れているが体の大きさははっきりとわかる。

 美人でも、身長が高くて体格の良い連中が多いのが天聖館高校バレー部の特徴。

 そして冷たい寒さの中、皆ジャージを着ているのに、一人だけ紺のブルマの少女がいた。

 大会では珍しいまだブルマの学校と評判になってるらしい……が。

(長谷川さん真冬でもブルマ一丁か……)


「ほら、今度の大会に向けて今日も頑張るよ!」


 中心で下級生部員に激を飛ばし、引っ張っているようすが伺え得る。


「は、はーい! ハァハァ」

「はい、きゃ、キャプテン……」


 その生徒が、僕を見つけて手を振って大きな声で叫ぶ。


「おはようーっ、清久君!」


 手を振ると大きな胸が揺れる――。


「あ、おはよう長谷川さん」


 身長が大きいバレー部でもその中でもその体格の良さは一際大で、また胸も大きい。

 けれども、アスリートらしい、筋肉質で無駄がない体。

 スポーツをやっている少女らしくショートヘアキャプテンの長谷川太一。

 男でも女でもバレーボール部を引っ張って行っている様子は変わらない光景だ。


「真琴は元気にしてる?」

「ああ、歴史研究でまた今度ここに来るってよ」


 負けないように大きな声で返した。


「たまには真琴もうちの部に遊びにおいでよっていっといてよ」

「わかった、伝えとくよ」


(窒息するくらいに抱きしめられるから一人で行くのは嫌だっていってるんだよなあ……)


 入り口の下駄箱の前で上履きに履き替えて、校舎に入ると、廊下は冬服であるブレザーを着た女子生徒たちが行き交っている。

 着ていたオーバーコートを脱ぎマフラーを外している。


「ねえ、吉田先輩第一希望の学科に受かったらしいよ!」

「え、本当? 良かったねえ」


 三年生は受験シーズンまっただ中。もう少しすれば、卒業式の準備が始まるだろう。まだあと1年以上残っている僕たちも、もう受験の態勢だ。

 話題は、あの先輩はどこへ行っただの、ここの大学の推薦を受けただのが中心で、そこかしこで噂が飛び交っている。

 特に異変後の最初の卒業生。男子校から一転女子の進学で、これまでとは様相が一変しているので、勝手の違う進路選択でケンケンガクガクだ。

 進路指導担当の先生はてんてこまい。

 卒業後はすぐ結婚して家庭に入るだのなんだの言っていたけれど、大体は普通に進学、就職すると聞いている。

(男が卒業したら自分探しするとか、放浪の旅に出るとかいってるのと同じだな)


 2ーAの教室に入ると、寒かった廊下から一転し、石油ストーブが焚かれていて暖かい空気が、そこには満ちていた。

 気温の差が激しいのか窓にはびっしりと水滴。


「おはよう――」


 既に数人いる女子生徒たちに声をかける。


「あ、おはよう、清久」

「おはよう」


 教室にいた数人が挨拶を返してきた。


「清久、今日の朝の物理は松島先生が休みで自習だって」

「お、そうか。ありがとう」


 手に入った情報をクラスメイトが伝えてきたので礼を言って返した。


「ねえ、体調が悪かったって、ひょっとして『あれ』?」


 勝手に女子生徒たちは、おしゃべりを再び始める。

 おなかの腹部のあたりで、手で膨らみを表してみせた。


「ここ数日気持ち悪そうに松島の奴が、口押さえてたの見た子がいるんだって!」

「父親は誰よ? あいつ奥さんと子供がいるんじゃなかった?」


 ……誰がどうした、くっついた離れたとかのゴシップの競い合いが、ここ最近の生徒間での流行だ。

 漏れ聞こえてくるところでは、相変わらず女同士の百合百合が全盛だが、生徒の何人かは男とつき合っているのもいるなんて噂も聞こえてくる。

 また同じ学年のやつが妊娠がわかったとかなんとか……。

 早くも活気づく教室の喧騒をよそに、朝の簡単な挨拶のやりとりを済ませて席に座る。 

 けれども――教室に出現したたった一人の黒い学生服を、見咎めたり排除しようとする空気を、もう感じることは無かった。

 この教室、いや学校に起きた異変で、生じた立場や存在の違い。男女という性で分かたれた壁。

 それらを乗り越えて今ようやく僕は、日常に戻ることができた。

 だが、清久のために力を尽くし、守ってくれた真琴――。

 この教室に真琴はいない。


 あの日、先生たちも生徒も真琴に天聖館への復帰を促した。けれども真琴は首を振った。

 真琴は既にそこで、新しい場所ができた。自分を受け入れてくれる場所と人たちを。

 現在と未来。

 第一高校の皆がいるのだ。

 真琴はここには帰ってこない。

 でも、もう清久は寂しさも空虚さもない。これは現実、その先に未来が続いている。


「こら! 静かに話を聞きなさい!」


 朝のホームルームでは、3年の5月にある修学旅行の話がされた。その時、教壇で担任がなかなか静まらない教室の喧噪に吼えていた。

 ここ最近、教室では生徒たちのおしゃべりがひどくなるという傾向が強くなってきていて、教師たちが問題にしていた。

(皆女の特性がより一層強くでてきているのかなあ……)

 中には夜何時間も電話でおしゃべりに費やして電話代が大変になったとか、放課後も教室で残って暗くなるまでわいわいやっていたとか。

 女の姦しさが一層増してきているようだ。


「まったくあんたたちは、口から先に生まれてきたみたいねえ」

「そういう先生だって職員室でお茶飲みながら、仕事そっちのけでしゃべってたでしょ!」


 お互い一歩も引かない。


「女なんだからしょうがないでしょ! でもあなたたちは生徒でしょ」

「そんなの教師も生徒も関係ないよねぇ」

「好きになもんは好きなんだから」


 この応酬もいつものものだ。ああいえば、こういう。

 徐々に口げんかスキルがパワーアップしてるのは気のせいだろうか。

 何せ清久以外、教師まで若々しい女性だ。

 締め切った部屋には、むせかえるような女の臭いが教室に充満している。


「まったく、あとこの間配布した2回目の進路希望調査を……」


 さすがに時間が惜しいと思ったのか担任が話題を変えてホームルームで希望調査用紙を回収していた。

 今度は教室のやかましいおしゃべりたちも、やや真面目な顔になった。

 一高ほどの進学実績ではないが、一応我が校も進学する者が多い。特に今年は女子大、それに加えて医療系や資格を取れる学科希望が増えたらしい。実学志向と呼ばれるものだ。

 卒業してこの学校を出れば一女子、一人の女性としての人生を歩むことになるからだろう。

 以外に現実を見据えている傾向が見て取れる。

(真琴はどうするつもりなんだろう?)

 真琴も進学希望らしいと聞いている。

 三年間は、あっという間だ。残った時間を有意義に過ごさないと。


「や、やあ、おはよう……」


 一時限目終了後の休み時間、次の現国の準備中にやや遠慮がちのぎこちない挨拶の声が耳に届いた。

(ああ、そうだ。まだ今日はあいつに会ってなかったな――純)

 おずおずと様子を伺うように、教室に入ってきた一人の女子。

 教室が静まり返っている。やたらと純に対する視線がきつい。

 以前とはまるっきり違う教室の空気に純の身は震えている。

 あの神社での事件翌日は、


「昨日、母さんが学校に来たって」


 と授業開始がしばらく遅れるほど、その話でもちきりだった。

 あの不思議な一連の出来事……

 一部部活や用事で学校に残っていたものだけが体験した。

 実際、社での遭遇を体験したのは、全校生のうち半数に満たない。


「早く帰るんじゃなかったなぁ」


 早く帰宅した奴は悔しがっていた。双葉様――「母さん」に帰依する気持ちは圧倒的。

そして一連のことについては純は下手をうった。 与えられた大いなる力を誤ったことに使った。そういう共通認識ができつつあったようだ。

 自然一番最初は僕と会って話すことも目を会わせることも、はばかられたみたいだったが、清久のところに様子を伺うようにやってくるようになっている。

 会長の皆川の説得もあったと聞いた。

 今回の件について僕との仲を戻すように――。

 それも一人で行けと。

 それでこそ初めて僕と純はまた元の幼なじみ同士になる。


 その純が、教室に来ている。

 息を吸い込んで、振り返り、できるだけ元気のよい声で挨拶の言葉を純へ送った。


「おはよう――純!」


 元気のよい挨拶をしたから、純ももう一度大きな声で挨拶を返してきた。


「おはよう! 清久」


 純に笑顔が戻ってきた。

 最初はしばらく僕の前に姿をみせないかもと思っていた。 

 けれども、翌日には自分からやってきた。

 大失敗に終わって、学校中から白い目で見られた時期があったが、今はそこから持ち直したようだ。

 母さんの手で女性になった者たちの特有の心理的な結束の強さ、仲間意識の強さで、純がいじめを受けたり無視されたりということはなかった。

 だが大いに反省したようで、態度にもそれがはっきり表れていた。

 どんなに有名な学校にいっても、美少女であっても 純が望むもの心を満たすことはできないし満たしてやることもできない。

 自分が望むものは何か――

 その純から少し離れたところ、ちょっと後に皆川会長がいる。

 やややきもきしている様子で――教室の様子をそっと眺めている。

 純には言っていないし、言わないようにお願いされてはいるが、内々に皆川からは直接お詫びがあった。

 これまでの個人的なこと、学校での扱いについて――。

 そして純とはもまた元の幼なじみとして接してほしいと。

 僕は当然それを受け入れた。というかもとからそのつもりだった。

 真剣に会長と純は付き合っているようだ。

 なんだかんだで、あの会長、純のことを一番考えてるからなあ。

 純はあれから、雰囲気が変わっていた。

 自分の世界に篭もりがちだったが、積極的に他のことにも出て行くようになっていた。

 僕たちと同じように純も変わり始める。

 明美の言葉を思い出した。


    ☆   ☆   ☆


 あの日、純は涙が涸れるかと思うくらいに泣いていた。くしゃくしゃになるまで、泣きぬいていた。

 それを見て、明美が、純は変わるだろうといっていた。明日になればすぐにわかる、と。そんなにすぐに変わるかと訝しんでいたが、明美は自信たっぷりだった。


「わかるわ。私は女なんだから――」

「そういうものかなあ」

「あの子は自分が女の子であることを自覚したの。わたしは大事なものを失った女の子がどう変わるのか知ってる」


 明美は明美で純のことをよく気にかけている。

 このまま放っておけないというのは、純に惹かれているからのような気もする。ある意味親のように躾と監督をしたいのかもしれない。


「女の子は何度でも生まれ変わるのよ。そして女として成長していくの」

「僕にはわからないな……」

「真琴だって純だって、女。あなたの知っていたあの純とは違うのよ」


 女に生まれ変わった純は、女としてさらに生まれ変わっていく。

 男から女になる時に生まれ変わって、さらに何度も生まれ変わるのだ。


 そして翌日、確かに変化を感じた。

 翌日姿を現した純は髪型を変えていた。

 ぎこちなく僕のところへ現れた純。


「あ……清久……その……」


 昨日の今日。あの騒動のことで学校中が騒ぎになっていた。純は学校中からさんざん批判の矢面に立たされていた一番きつい時だった。

 学校からも事情を聞かれ、他の生徒からも散々説明を求められて、疲れ切った顔だった。いろいろ終わってようやく僕のところに来た。


「お、純、その頭……」


 髪型を変えた……のか。


「あ、こ、これ、わ、わかった? イメチェンしたの……」


 まあ見れば一目瞭然だが。

 子供っぽい感じのするツインテールをやめていた。

 栗毛の長い髪を後ろで縛っているだけの髪型は落ち着いた雰囲気を持っていて、やや大人っぽく変えている。


「やっぱり女って髪型で随分印象変わるなあ」

「そ、そうだよね? 結構女の子って変わるんだよね」

「似合ってるよ、純――」


 そういうと純は恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに笑った。

 ファッション力はまだまだ純も発展途上。これからどんどん女の魅力を覚え身につけていくだろう。

 今度こそ純は生まれ変わったのだろうと僕は思った。


   ☆   ☆   ☆


 キーンコーンカーンコーン


 休み時間終了のチャイムが鳴った。

 また授業が始まる。今度は古文の授業だ。

 純のいるF組はやや離れているから、急いで戻らなければいけない。


「あ、清久、それよりも……今日の午後――忘れないでね」

「あ、そうだったな。よろしくな、純」

「うん、またーー」


 純は踵をかえして二ーFの教室を出て行った。

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