第76話「光明」

「真琴はお姉ちゃんのことが好き?」

「うんボク、マミお姉ちゃんが大好き」

「嬉しいわ――」


 優しく5歳のオレを抱きしめ、頭を撫でた。

 姉のマミを喜ばせることをすると、素直に喜んでくれる。嬉しかった――。


 中学の時――。


「真琴ももう、女子で好きな子がいたりするでしょ?」

「俺、マミ姉以外は好きにならない」

「まあ、真琴ったら……」


 だがマミ以外の女は目に入っていなかった。


 ある日のこと。

 学校から帰ったら、キッチンのテーブルにもたれかかっているマミ姉がいた。いつもはおかえりなさい、オレに声をかけてくれるのに返事がないので、覗き込んでみた。


「?」


 胸が張り裂けるほどの衝撃を受けた。

 マミ姉は泣いていた。綺麗な頬をつたって流れる雫。


「ま、マミ姉!?」

「あ、真琴……。今日ね、お買い物している時に昔の知ってる人を見たの」


 マミ姉は慌てて涙をハンカチで拭いた。


「誰だよ、そいつ」


 オレの胸にすぐ怒りが沸いた。

 オレの知らないとこで他の男と繋がりがあること自体が許せなかったこともあった――。


「興奮しないで、真琴。むしろお姉ちゃんが、悪いことをした相手だから」


 そうは言ったが、そんな奴、絶対に許さないと心の中で誓った。

 もし悲しませたり、泣かせたりする奴がいたら絶対に許さない。

 オレにとって大事な女はマミ姉以外ありえなかった。

 そのマミを悲しませる、泣かせるような奴がいたら、オレは絶対に許さない――。


   ☆   ☆   ☆


(もうダメだ――)

 明美は心で叫んだ。

 長谷川の指示で急いで職員室に生徒の一人が屋上への合い鍵を取りに行った。

 だが間に合わない。もう最後の時が着てしまった。


「ああ、純ちゃん!」


 叫ぶ会長の声。

 明美の腕の中で崩れ落ちた少女は、早々と冷酷な現実世界から逃避してしまった。


「はやく、まだこないのかい!?」


 長谷川は指示した生徒が戻らないことに度を失ったようにいらだっていた。

 しかし、もう真琴には自らを覆うものが何もない。


「……綺麗」


 そんな状態でも明美は驚愕と恐怖の一方、その光景に見とれていた。

 真琴のすべてをさらけ出した姿は、さらに綺麗だった。

 降りしきる雪よりも――純白で曇りのない――少女の体。

 醜い化粧をした怪物は、その少女を食らおうとしていた。

 馬乗りになって、真琴に乗りかかる。

 無防備な少女に馬乗りになって股を広げ、こじ開けて貪り食らうとした

 美しい小鳥、いや白鳥が獰猛な野獣の手に落ちる――。

 そう覚悟した瞬間(とき)だった。


 例えようもない嗚咽がドアのこちら側の明美たちにまで聞こえていた。


「……お……おお」


「?」

「……」

「まさか……」


「おおおおおおお、あああああ」


 皆目を凝らし、耳をそばだてた。


   ☆   ☆   ☆


 簡単な話だった。

(オレが男だったら――マミ姉を無理矢理に犯したりなんかするはずない。マミ姉を泣かしたりする奴がいたら、それこそオレは許さない)

 聞こえた。

 オレの耳に確かに声が聞こえた。


『真琴――男には男の理性ってもんがあるんだからさ。わかるだろ? お前にも……』


 聞こえたのは清久の声だ。

 あの日、あの時清久が言おうとしていた言葉が何故か聞こえたような気がした。

 日曜日の公園のベンチで、ボロボロになって擦り傷だらけになりながら、オレの膝の上で言おうとしていた言葉が。

 男の理性。

 もし清久にそれが残っているのなら、奇跡じゃない。確かに起こる。

 とはいえ確証はなかった。賭けだった。

 ただ、オレは清久と過ごした日々の中からそれを見出した。

 きっと清久には、その心の一番奥の部分に残っているはず。あとは信じるだけ。


『本当に好きで、本当に尊敬している女に対しては、男ってものは、嫌がると思うこと――、惨いこと――傷つけることは、絶対にできないんだよ』


 今、はっきりとオレには清久の言葉が聞こえた。

 心の底から――。

(清久が、オレのことを好きなら、男として好きなら、清久は絶対にオレを襲わない)

 ただ綺麗だとか、女の体が欲しいだけとかではなく――。

(そう、清久はオレを心の底から――)

 男として好き。愛してるんだ。

 涙が止まらない――気が付くと瞳から涙が溢れていた。

(清久はオレが好きなんだ。ようやくオレは知ることができた)


「やっと思い出したか? 清久」


 オレはブラ丸出し。

 一方清久は、胸に顔を埋めたままだった。幼子が母に甘えているように――。


「う……うわああ……」

「うう……」


 響いていた――。

 泣き声か――。

 感情を解き放つ。

 胸に顔を埋めていた。大きすぎず、小さすぎないその胸に。

 嗚咽が漏れてくる。


「やっと思い出したか」


 乳児のように――。

 そっと清久の頭を撫でた。


「遅えぞ、この野郎」


 体から猛々しい気が消えているのを感じた。

 ワイシャツが裂けている。

 そんな中でもオレの駆け巡る想いは止まらなかった。

(女ってすげえな……相手をこんなに癒すことが出来る――奇跡を起こすことができるんだ)

 そしてこうも思った。

(男ってすげえよな。……相手をこんなに思う気持ち)

 その両方の想いを馳せた。

   

(マミ姉……ごめん。オレ、マミ姉以外にも大事な存在ができた)

 マミ姉より上じゃないけど、負けないくらいに大事なもの。

 もしもだめだったら……そのまま犯されてもいいとさえ思った。

(清久のガキを孕んで産んでも、それはそれで……)


「オレ、女になって良かったよ」


 そっと呟いた。誰ともいわない。どこかの誰かに――。

 マミ姉に――清久に――この場にいる皆に――この世界に

(オレはこのために女になったんだ)

 目にはまだ涙が滲んでいた。



   ☆   ☆   ☆


 ドンっとドアが外れる音がした。


「一体どうしたの!?」


 オンボロの扉の蝶番が外れてドアが壊れる。

 生徒をかきわけて大人の女性の声がした。

 女性の教諭がやってきた。鍵の束と、ハンマーを持っている。


「離れなさい――」


 生徒たちが離れたのを確認した後、そして勢いをつけてドアのガラスの部分を叩いて壊す。

 ガチャン、とガラスが粉々に壊れる音と共に扉が開いた。

 手を突っ込んでつっかえぼうを外す。


「真琴!」


 明美も長谷川さんもドアを飛び出して真っ先に二人の元へ向かう。

 後を追うように、他の野次馬のように集まった生徒たちが、開いた扉に殺到し、ドッと一斉に駆け寄る。

「いたたた」「押さないで!」「髪ひっかかってるよ!」

 小さな扉に多数の生徒が殺到したせいか、後ろの方で混乱していた。

「止まって!」

 手のひらを突きだして、二人に集まってきた人並みを押しとどめる。

 もみくちゃにされないように、勝手に二人を引きはがさないように。

 長谷川と明美、二人で静止した。

 二人を中心にして半径2メートルの半円ができる。


「……真琴……」


 駆け寄った真琴は周囲を意に介さないで清久を優しく抱きしめていた。

 子供をあやすようにのどかに。

 清久、彼の様子も違っていた。

 まだ異様な化粧は残っていたが、穏やかな表情になっていた。

 少なくとも般若のような面は消えていた。


「明美……オレ、ようやくわかったよ――」


 ずっと清久を抱きしめた。

 胸の中にいる本人に問いかけるように――。


「どうやらオレも清久を好きになってるみたいだ」

「そう、わかったんだ、真琴……」


(良かった)

 明美は心の底から祝福した。

 自分の気持ちに気が付き、今の自分を認め、一人の男の子への気持ちに気が付いた真琴に――。


「女が男を好きになるってこういうことなのか? 明美……」

「まだ焦る必要はないよ、時間はたくさんあるんだから」

「焼け焦げるような胸が今は凄く、熱い何かに変わってるんだ」


 どきどき、不安、期待。それらがおり混ざった熱い感情。

 体からあふれ出てエネルギーに変わっていく。男の子を好きになり、その男の子に愛されていることを感じている。

 真琴は女子として幸せを感じている。


「まったく、女って凄いな……」


 清久はまだ真琴に抱きついていた。


「真琴……真琴」


 虚ろな声とは違っていた。

 はっきりとした口調で、そして穏やかな表情になっていた。

 真琴は確かに清久がこの腕の中にいる暖かさを感じた。

 魂が奥底から戻ってきた。

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