第74話「過ぎ去った日々①」

 二人の遠い記憶――。






「じゃあ、行ってきます」

「ちょっと待ちなさい、真琴」


 いつものワイシャツとジーンズで行こうとしたら、姉のマミからNGが出た。


「真琴。今日は、男の子と二人で出かけるんでしょ?」


 まじまじとオレの格好を眺める。


「う、うん、清久と……」

「その恰好じゃ駄目よ。ちょっと来なさい」

「でも時間が――」


 マミ姉は箪笥をから色々引っ張り出して、どれがいいかなと呟いていた。

 そうこうしているうちに時間が過ぎてゆく。オレはちらりと壁掛け時計を見た。


「少しぐらい焦らしたほうがいいのよ」


 マミ姉は少し笑みを浮かべつつ気にする様子もなく、いそいそと箪笥から服を厳選し始めた――。

(なんでマミ姉、あんなに気合を入れてるんだろう? たかが清久と遊びに行くぐらいで)

 待っている間、オレはそんなことを想像していた。

 ようやく服選びが終わった。


「い、いいの? これマミ姉のだろ?」

「気にしないで。サイズ、わたしとあんまり変わらないから。動きやすくて、それでいてちょっとお洒落なものにしたのよ?」

「わ、わかったよ。マミ姉が言うなら」


 オレは急いで服を着る。

 腕時計を見た。


「やべえ、遅れる!」


 玄関を飛び出すと、思いっきり走った。今日は清久と野球観戦の日。

 いつも遅れてゆく癖のあると自分でも自覚しているため、前日に必ず今回は遅刻しないと清久に誓っていた。

 その約束を早くも破ろうとしていた。




   ☆   ☆   ☆



 なんでボクの胸がこんなに高まっているんだろう――。


 その日は心地の良い陽気で、絶好の外出日和だった。

 空は快晴で、雲一つ無い。暖かい日差しの市民公園では、犬を散歩させている 老人、マラソンしている中年男性。

 そして、遊具で遊んでいる子供達……。のどかな光景が広がっている。

 待ち合わせに指定した噴水の流れる音が静かに流れる。

 やや汗ばんできた顔をハンカチで拭いた。

 その直後、気配がした。


「よ、清久」


 少女の透き通るような声がボクの名前を呼んだ。

 振り返ると、明るい日差しの中に立つ一人の少女。真琴がいた。

(……!)

 体に電撃が走った。

 今日は日曜日だから、真琴はいつも見る制服姿ではなく私服。

 紺のプリーツスカートではなく、デニム風のショートパンツを穿いている。

 赤や黄色の模様に、黒い英語のロゴが入っているTシャツ。

 いかにも、今風の少女が外に遊びに行くような格好だ。

 ちょっとボーイッシュな風でもあるが、意外にそれなりの女の子らしい格好をしていることに驚かされた。

 いつも制服のところしか見ていなかったボクにはとても新鮮だった。

 着飾ってはいないが、似合っている。

 それに、胸も巨乳ではないけれど、少女らしい、形の良い膨らみ。

 背中からみるとシャツにブラの線がくっきりと浮かんでいる。

(男っぽさが抜けなくても、なんだかんだいっても真琴もブラを使っているんだ)

 自分が女であることを十分に認識している印。

 そしてハーフパンツはブルマほどではないが、細身ながらも、大きい尻のラインを見事に映し出す。

 太股も血色のよい肌色。

 健康な若い少女の肉体に思わず見入ってしまい、ごくり、と唾を飲み込んでしまった。

(綺麗だ……)

 どこがと言われると困るぐらいにどこも良くてバランスが良い。

 神様が与えた体と思う。

(でもあんまりガン見し過ぎると真琴に感づかれるよな)


「よ、よう、真琴」


 今日は、この天聖市の市民球場で、野球の試合がある。

 真琴が行きたがっていた野球観戦であった。真琴は野球を好んでいるようで、話をするとすぐに食らいついてくる。

 ついこの間、清久の鷹野家がとっている新聞配達員からチケットを貰ったと言ったら、すぐ食いついてきた。

 この作戦は成功したようだった。

 真琴の方から絶対行こう!っと言い出した。

 そして休日のこの日。ボクは真琴と待ち合わせをした。


「悪い、待ったか? バスが遅れてさあ……」


 真琴はどうも走ってきたらしく、ハアハア、と軽く息せききっている。


「まだ全然大丈夫だよ。ゆっくり行こう」

「はあはあ……お、おう」


 一緒に歩き出した真琴の右手に、手提げ袋があることに気付いた。


「ん? これか?」


 何だろうと視線を落としていたら真琴もボクからの視線に気が付いたらしい。


「オレの姉貴がサンドイッチ作ってくれたんだ。持ってけって」

「そうか、それは嬉しいな」


 待ち合わせ、昼食の弁当……。

 心の中で何度も繰り返す。

(これって周りから見れば、完全に、デートだよなあ……)

 特に弁当はありがたかった。試合の時間的に場内で観戦しながら食べることになりそうだった。かといって現地の売店で丸々調達すると、高くつくだろう。

 一応小遣いは、多めに持ってきた。真琴の分までおごってやろうか、と思って十分に持ってきたのだが、学生の寂しい懐事情では痛いのが正直なところだ。

 昼食の弁当があれば余計に使わずに済んだ分で終わった後にどこかでゆっくり喫茶店にもいけるだろう。

 直接会ったことはないけど、真琴のお姉さんに感謝した。

(お姉さんグッジョブ)

 ふと、真琴のお姉さんという人に会ってみたいと思った。

 が、今はやめとこうとも思い直す。

 真琴はあまり進んで家のことを話すタイプではなかった。さらに時折り口にでてくるお姉さんという人は、とても大事な存在だというのはわかっていた。

 滅多なことを言うと、真琴の逆鱗に触れそうな気がした。

(真琴と一緒にいたらそのうち会うだろうし)


「さ、早く行こうぜ」


 真琴が急かすように清久を促す。

(本当に楽しみなんだな)

 歩いて十五分ほどのところに、球場がある。そこを目指して、二人で歩き出した。


 天聖市市民球場は、十年ぐらい前にできた球場で、できたばかりというわけではないが、それなりに設備そのものは充実している。

 この近辺では一番良い設備を持っているので、本格的な試合や大規模なイベントに使われる。

(そういえば、うちの高校も、野球部はここで練習をしてたりしてたんだよな)

 特に今日はプロ野球の公式試合だということで結構な人手だった。徐々に球場に近づくと人が増えてやがて人混みとなる。臨時のチケット売場や屋台、自動車販売もやってきていた。


「すげー人出だな」


 ボクと真琴は行列に並んで、流れに任せて進んでいく。

 やがてたどり着いたライトスタンドの座席は、もう観客で一杯だった。

 周りには弁当をパクついている親子連れや、既に缶ビールを何本もあけて熟睡してしまっているオヤジなんかもいた。

 それらをかき分け自分たちの座席をみつける。


「お、ここだここだ、座れよ真琴」

「やった、結構良い席だな」


 席はちょうどベンチの裏側。高すぎず、低すぎず、全体を見渡せる位置にあった

 二人で並んで座るとしばらくして、試合開始のサイレンが鳴る。


「いけ! ファイターズ」


 試合が始まると、メガホンで、夢中で真琴が叫んだ。

 だが、清久は試合に、イマイチ集中できない状況があった。

 近くにいる男達の中で、真琴を露骨に見ているのがいた。

 視線は胸や尻。もう隠そうともせず、ガン見している。

 真琴は試合に夢中で気づいていない。いつも視線には敏感だが、この野球観戦をそれだけ楽しんでくれているということなのだろうと清久は思ったが……。

(というか、なんだよ、真琴を隠れて撮ろうとしてる奴がいるぞ)

 真琴とカメラの間に、立ちはだかる。


「おい、そこに立たれたらみえねーぞ」

「い、いやははは」


 あきらめて離れるまで、清久はカメラからブロックし続けた。

(真琴を守らないと……)

 真琴はなおも野球に夢中だった。楽しんでるところに水を差したくない思いもあった。

(は、はは……こりゃ僕は試合の方に集中する余裕はないな……)

 ゲームの合間、二人で休憩のため一旦スタンド裏に入る。

 だが――トイレは激コミだった。

 特に女性トイレの方は長い行列ができている。


「な、なんだこりゃ…」


 凄い行列だった。十分以上待ちそう。


「ママーあたし、我慢できないよう」


 もっと前の方に並んでいた母娘の幼い女の子の方が、もう駄目とばかりに、スカートのまま股間をもじもじさせている。

 それを見て真琴も動揺したようだ。


「ぐ、まだかよ……」


 真琴も心なしか、股間をもじもじさせているような感じが見て取れた。

(相当我慢してるのか)

 一方、男子トイレにも待ちがあるが、それほどでもない。回転も速い。


「おい、オレもそっち行く」


 真琴が男子トイレに突っ込もうとする。


「そ、それはまずいって」

「ずりーぞ、清久。オレだって前はそっちつかってたんだからさ」

「ま、待て真琴、押さえろ、押さえるんだ」


 ゲームセットのコールで試合が終わると一斉に球場から人の波が引いていく。

 一部まだ熱狂的なファンが太鼓を打ち鳴らしているが、出口は帰り道につく観戦客でまた大混雑だ。


「すげーな、最後、九回裏ツーアウトだったのにサヨナラヒットで逆転だ」


 野球観戦をした余韻が残っていた。

 熱っぽく語る真琴。今日の観戦は十分楽しめたようだ。誘って良かったと思った。


「ああ、いい試合だったよな」


 球場を後にし、人通りの多いところから離れた公園の池の畔のベンチに二人で腰掛けた。


「よっと」


 カルガモがゆったりと池の遠くの方で泳いでいるだけだ。

 野球の試合は思ったよりも速く進んでゲームセットも速かった。

 まだ夕方まで時間があるし、このまま帰るのもどうも素っ気ないように清久は思えた。

(もう少しいてもいいか――)

 せっかくのポカポカしたちょうど良い陽気。

 それに、この付近でカップルが結構チラホラいい雰囲気で手をつないだり、ベンチで肩を寄せているのに目がいってしまうと、このままここにいたい気がした。

 池の遠くのほうには、ボートを漕いでいるカップルもいる。

 それらを見てると自分の心にどうしてもやりきれない思いがこみ上げてくるのがわかった。


「お、見ろ見ろ、ザリガニがいるぜ」


 真琴は池の手すりに乗り出して、水面を指を指している。


「はは、僕もこの辺で昔ざりがに釣りしたことあるよ」

「本当か!? オレもやってみたいなあ」


(僕は真琴と、ずっとこういう限りなく男友達に近いままなのだろうか――)

 首を振って余計なことが頭によぎるのを振り切る。

(いやいや、変なことを思ってはいけない。真琴は純粋に自分を友人として見ているんだ)


「ちょっと、ジュースでも買ってくるよ」


 どうも思考を整理できなくて、腰を上げる。


「おう、サンキュー」


 自販機を探していると、思いの外見つからないので、遠くまで歩いていった。

公園の反対側の出口に近いところで、ようやく紙コップ式自販機をみつけ、財布を取り出す。

 炭酸飲料とスポーツジュースを買った。


 五、六分ぐらいだったろうか。

 紙コップのジュースを落とさないように慎重にゆっくり歩いて、元の真琴が待つベンチに戻る。

 ――と、異様な空気に気づいた。


「!?」


 真琴が男に囲まれていた。

 3、4人ぐらいの男が真琴を取り囲んでいた。


「ねえ、君どこから来たのぉ?」

「一人なの?」


 ピアスをしたり、髪を金色に染めていて、肩にはタトゥーすら透けて見える。

 校内の不良とか、という可愛いものじゃない。

 人目でろくでもない連中というのがわかるものだった。

 へらへら笑いながらの欲望丸出しの顔――。

 対する真琴は、面倒くさそうな嫌悪感すら抱いている表情だ。

 しつこく、しつこく真琴に絡んでいる。


「一緒に俺たちと遊びに行こうぜ」


 ヘラヘラした様子で、真琴の肩に手を置く。

 あからさまに拒否する表情をしているのに、まったく察する様子もなく、真琴の腕を掴んで連れて行こうとした。

 かなり性質の悪い連中だ。

 真琴の体に奴らの野蛮な手が触れるのが黙っていられなかった。


「真琴、待たせたな」


 タイミングを見計らって、飛び込んだ。


「はは……すいません」


 極力普通の様子を装って割って出ようとする。


「さあ、真琴、行こうか」


 こういう場合、「ち、男連れかよ」と言ってあきらめるのが定石……。


「なに? お前」

「邪魔すんじゃねーよ」

「――?」


 この連中の野蛮ぶりを侮っていた。

 こいつらにとっては、目の前の雌を奪われた状況だ。

 逆に刺激してしまっている。手のつけられないあて馬と化してしまった。

 さらに場の空気は悪化していく。

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