第60話「涙」

「こ、壊れた、だと!?」

「清久君が、壊れちゃって。言動がおかしくなったり、女の子に乱暴したり、そ、そう―体もおかしくてね」


 清久に想像もつかない無理なことをしでかしたために、よくないことが起こった。

 容易に想像がついた。


「びっくりするぐらい大きくなっちゃって。もともとそんなに立派じゃなかったのに、今じゃ1日中いきりたってスカートも穿けないのよ」


 清久のものをオレは、別にみたことはなかったが、そんな化け物じみた体ではなかったと記憶している。

 あの純にやられた儀式のせいで、起こったのは確かなようだ。


「まさか……」


 これはきっと、欲望を抑えていた理性が失われて、リミッターが外れたのだと推測した。

(欲望が丸裸になってるのか――)


「壊れちゃった清久君を直せるのは真琴ちゃんだけよ」

「な、なんだ、と?」

「だって、清久君が……」

「てめえ!」


 再度環のブラウスを締め上げた。


「ひ!?」


 環を睨みつけていたから、鬼のような形相になっていたのかもしれない。


「壊れただと!? 清久は、清久は……人形じゃねえんだぞ! お前らのおもちゃじゃ――」


 やっと大事なことに気が付いた。

 あの神社の境内で、妊婦のミキさんの言っていたことが――。


「清久も、オレたちも、人形じゃねえ――そうさ、オレたちは―」

「そ、そう、真琴ちゃんも、気が付いたのね、『母さん』の正体――なら、わ、わかるでしょ?」


(こいつ――。こいつも知ってやがったのか)

 そして、あの儀式を思いついて、純をそそのかして、清久を落したのだ。


「だ、だから戻ろう? 真琴ちゃん、私達は普通の女の子とは違う、一緒になれないの」

「それ以上言ったら、どうなるかわかるな!?」


 さらに、環をにらみつけた。


「あ、駄目……真琴ちゃん。そんな目で睨まないで」


 ふっと力を抜いたので、環がずり落ちた。


「清久君が、ゲホ……真琴ちゃんの名前を……会いたがってるのよ」


 息を整えた環は、やっと一言、しゃべった。


「何?」

「『真琴』『真琴』って名前をうわ言のように……」


 清久が、清久が、オレを呼んでいる――

 それを聞いた瞬間、胸が例えようもないほどに熱くなった。


 なんなんだよ、これ……。

 抑えきれない感情が、湧いて出てくる。

 もうどうしようもならないくらいに、ダムから溢れていくように――

 ついに――

 よりはっきりした言葉と感情となって現れていく。

 会いたい。

 会いたい。

 あいつに会いたい。

 清久に会いたい――

 今すぐにでも――


「ぐ……」

「あ、真琴ちゃん――」


 真琴はたまらず、飛び出した――


   ☆   ☆   ☆


 生徒会室に密かに設けた清久の隔離場所――。

(どうにかしなきゃ、どうにかしなきゃ)

 純の胸は焦りで埋め尽くされていた。

(何か間違っているのなら、直さないと。あたしだって、あたしだって、真琴ちゃんやタマキちゃんがいなくてもできるもん)


「き、清久……何をやってるの?」


 ふと清久をみると、鏡に向かって一心不乱に、何かをやっていた。

 純に気づいていないのか、返事もしない。

 そっと、後ろに回って、様子を見てみた。

 何かを顔に施しているようだった。


「ひっ!?」


 腰を抜かした純はペタン、と床に尻餅をついた。

 多分、ここに来る前にトイレに行っていなかったら、漏らしていたかもしれない。

 それぐらい体から血の気が引き、力が抜けた。

 背筋が凍って震えた。

 清久は顔に白粉を塗りたくり、口には、口紅を塗りたくっていた。

 小さな子供が、みようみまねでお化粧するように、滅茶苦茶で、無邪気に――。

 その顔が、怪談の口裂け女のようになっていた――。


「真琴……」


 清久が鏡を見たまま呟いた。

 清久の瞳には純は映っていなかった。

 涙?

 冷たいものがあたしの頬を流れ落ちていく。

 一人ぼっち……

(あたしは、あたしはまた一人)

 結局、男でも女でも、何もかも離れていって……。

 大事な、清久も失った。


 そして純の脳裏に浮かんだ記憶――


『おーい、純。お前も日曜日にサッカー来いよ。人数集めてるんだ』

『え? で、でも塾が……』

『塾? お前、日曜日も塾に行ってるのか?』

『うん、朝山市の……』

『朝山って天聖駅からずっと先の駅じゃないか』

 天聖市よりもずっと大きな街で、人口も数十万で、電車で1時間半かかる。

 小学生の男の子だった当時の純は、塾をかけもちしていて、土日はそこの進学塾に通っていた―

 毎日、毎日……授業が終わった後も、塾、受験勉強に明け暮れていた。

 だから、男の子の遊びに加われず、友達もいなかった――。

『おーい、清久。やめとけ、やめとけ、純はいつも来られないんだよ』

『そ、そうかあ……残念だな』

 記憶に残る、清久と会話を交わした初めての記憶。

 普通の男の子だった。それ以上の印象はなかったと思う。

 そして、その時も、いつもどおり、遊びの誘いを断った。

 お金持ち、有力者の跡取り、長男。

 聞こえはいいけれど、豪華な籠の中に暮らしているようだった――。

 自由な時間がほとんどなく、遊んだ記憶もなかった。

 だけど――

 純は驚いた。

 日曜日にやってきた。

『ふえー、お前の家ってすげえでかいんだな……』

 清久がやってきたのだ。


「ど、どうしたの?」


 家に、誰かがやってくるなんてことは、初めてだった。

 誰もより付かない、豪華なだけの門に、清久が立っていた。

『純、遊ぼうぜ』

 清久は、グローブとボールを持っていた。

『で、でも、これから塾が』

 いつもどおり午後から塾があった。

 家の黒塗りの車で、駅まで送られて、そこから電車で……。

『まだ時間はあるだんろ?』

 いつもはそう説明するとすぐに引き下がったのに……清久は違った。

 強引でもなんでも……。

『それまで、そこの空き地でキャッチボールやろう』

『キャッチボール……』

『純は、やったことないのか?』

 確か、ボールを投げあうだけ。何が面白いんだろう?

 強引な清久に、空き地に行った。

 他に誰もいない空き地で2人。

 グローブを付けた。

『違う、こうなげるんだよ、こう、肩を使えば遠くまで投げれる』

『こ、こう?』

『そうだな、そんな感じだ』

 ボールを上手く投げられず、何度投げても、あさっての方へポトンといってしまう。

 清久は丁寧に教えてくれた。

 言うとおりにするとボールは遠くへ飛ぶ。コントロールが定まり、清久にボールを投げれる。

『ボールを受け止める時に、こうやって、ボールをキャッチする瞬間に、クッションさせるんだ』

 ボールを受けたときに手が痺れてしまった純に清久は、やはり丁寧に教えてくれた。

 段々面白くなってきた。

 その日、純は塾へ行く時間ぎりぎりまで、遊んだ。

 汗と泥にまみれながら。

 凄く楽しかった。

 こんな単純なのに、ボールを投げあうだけで、こんなに楽しめるなんて――とても新鮮でとても驚きがあった。

 塾へ行く時間が来てしまい、その日は終わってしまった。

『ね、ねえ、清久、凄い楽しかったよ。どうしてだろう……』

『だろ? キャッチボールは一人じゃできないからな』

『僕、一人っ子だからさ、わかるんだよ。一人だけだと、つまらない、寂しいんだよな。どんないいおもちゃ持っていても……』

 純は知った。寂しいことも知らなかった。

 清久は誰かといることの楽しさと、そして一人の寂しさを知った。

 誰よりも清久は、純の大事な、大事な思い出だ。

 そして今――

 清久がいない。純は一人……。

 暗い、冷たいものに体が覆われていく。

 この寂しさは、あの時の、あの時暗闇。

 あの時と違うのは、純は孤独を知っている。

 純は、清久の温もりを知り、そして今失った――。


   ☆   ☆   ☆


「マミ姉……」


 暗闇の中でオレは呟く。

 時計も見えないので、時間もわからない。だがもう深夜であることは確かだった。

 あの生徒会長を放り出して逃げるように家に帰ってきた。


「どうしたの? 真琴……また眠れないの?」


 頷くと、オレの股間にそっと、横で寝ている姉のマミの手が寄せられてきた。


「苦しいんだ……熱いんだ」


 マミと同じ布団で、同じ毛布に包まれて、いい匂いに包まれて、心地よい眠りに落ちる。

 子供の頃からオレはずっとそうしてきた。

(なのに、何で今日は違うんだ? オレにはマミ姉さえいればよかったんじゃないのか?)


 頭が煮えたぎりそう――。

 そして今度は、頬に熱いものが流れた。


「え?」


 拭うと、流れた雫だった。


「なんで……なんで、オレ泣いてるの? 悲しくないのに」


 目からもあふれ出ていた。


「もう、お姉ちゃんじゃ真琴を慰めてあげられないのね――」

「違う、違うよ、マミ姉――」


 ついにマミの手が止まってしまった。


「お願い、マミ姉。もっと、もっと――」


 ついにどうしようもなくて―混乱して、マミにすがりついた。

 抱きついた。


「聞いて、真琴――」


 ふわっと包まれるように覆われた。

 マミ姉もオレを抱きしめた。


「お姉ちゃん、同じ経験があるの……ずっと昔に……。ちょうど真琴のように、眠れなくて、胸が熱くて……目を閉じると顔が浮かんで。真琴はお姉ちゃん以外の人のことが浮かんでるのでしょ?」

「オレはマミ姉以外は……」

「真琴、自分に嘘をついちゃだめ。女の子は自分に嘘はつけないの」

「女は……?」

「そう、真琴の体は女の子なの」

「こんなに苦しいなら女にならなきゃ良かった……生理もあるし、服も面倒だし」

「ふふ馬鹿ね、その今の真琴の涙と心が答えを教えてくれてるのよ? 真琴が女の子だからなのよ――」

「答え?」

「そう、真琴が何をすれば良いかをね。自分を信じなさい」


『母さん』から貰ったこの体と心……。


「お姉ちゃんみたくならないように――真琴のここが教えてくれてるのよ」


 マミ姉の手が身体をまさぐった。「あっ」と声をあげると「ふふ」っといつものようにマミが笑った。


「オレ、マミ姉と同じでいい」

「駄目よ、真琴はお姉ちゃんのようになっては駄目。お姉ちゃんは、それで大切なものを失ったの。大切な人も心も――思い出も」

「大切な……」

「凄く後悔してる――心と体に嘘をついて、自分に嘘をついて――本当は一緒にいたかったのに……お姉ちゃんは自分に嘘をついた。一緒に暮らして、同じ時間を過ごして……、ほんの小さなすれ違いだったはずだったのに……。自分の溢れでていく気持ちに耐えられなくて、逃げ出してしまって……」

「マミ姉……」

「気持ちに気が付いたときには何もかも遅かった……。自分に嘘をついて、嘘をつき続けて、罰を受けたの。小さなアパートもあの公園も遊んだ子供達も……あの人も……失ったの」


 マミ姉の手がオレの髪の毛を研ぐように撫でた。


「真琴はお姉ちゃんとは違って、まだ失っていない、まだすぐ近くで真琴を呼んでるんでしょ?」


 マミ姉の胸の中に顔を埋めていた。

 柔らかい……心地よい……そしていい匂いだった――。

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