第61話「決意の朝」
朝、オレが起きた時にはマミ姉は布団の中にはいなかった。
起き上がってパジャマ姿のまま、リビングに行くと、そこには、誰もいない。
キッチンではいつもマミ姉の朝食の支度音がしていた。
だが今日は――。
静かな朝だった。家の中は静まり返っていた。
(どこへ行ったんだろう?)
ふと不安になってきた。
マミ姉はいつも綺麗で儚げで、ある日突然いなくなってしまいそうな、そんな雰囲気を持っている。
だから小さな頃はマミが朝起きていなかった時に、近所の人が何事だと思うぐらいに泣きじゃくったことがあったらしい。
もちろんマミ姉はオレのところに、普通に帰ってきた。あの時はただ近所に買い物に行っていただけだった。
その不安は今も同じ。
湧き上がる不安の中、マミ姉を探した。
すぐにキッチンテーブルの上に既に作られた朝食と、書置きを見つけた。
『お姉ちゃんは、用事があるから、朝ご飯食べておいて』と。
夕方には、戻る、とも書いてあった。
大きく安心の息をついた。
心を落ち着かせ朝食を済ませた後、洗面所へ向かい、そこでパジャマと下着を脱ぐ。
たった一晩で汗で汚れてしまっていた。
昨日さんざん濡らしてしまったが、今は乾いている。
だが……臭いに敏感な奴は気が付くだろう。
服を脱ぎ捨て裸になったら、そのまま浴室に入って給湯栓を捻った。
シャワーヘッドからお湯がザアッと勢い良く放出される。
体を人肌よりもあったかめの湯が流れていく。
浴室が、湯気に包まれる――。
寝汗を洗い流し、念入りに洗う。
ふと思い出す。
(あの相棒は、今どこで何をしてるだろう――)
生まれた時から一緒に十何年、苦しいときも楽しいときも一緒に過ごしたのに、あっさり捨てて乗り換えてしまった。
別れてから、あの良さに気づいた。
随分経って、もう記憶も薄れかかってきた。
(オレはこいつに手を焼いてるんだぜ)
シャワーを済ませたら、再び洗面室へ戻りバスタオルで体を拭く。
ニキビも染み一つ無い肌。顔も、胸も、足のつま先から、指先まですべすべだ。
あまり、手入れが必要ないのは便利だが、本当に人形みたいだ。
長い髪を櫛でとかす。
ロングのストレートは『母さん』が作ってくれた髪形だ。
だから、ずっとこの髪型でやってきた。
でも、そのうちに変えてみるのもいいかとも思う。
着替える。ショーツ、下着を新しいものに変える。
胸の膨らみを両手で掴み、チェックする。
「あれ? でかくなったか?」
身長は、もうこれ以上は伸びないだろう。
男だったら、まだ大きくなっただろうが……。
だが、別のところが成長して大きくなる。
胸と尻。
ここは今も成長している。
だから、いつも裸になった時に習慣的に大きさをチェックするようになる。
ブラのサイズ、ショーツのサイズを考えないといけない。
(えーっと、ショーツはどこだっけ)
「うわ!」
驚いた。
マミ姉が、ショーツまで用意していた。
制服と一緒に置かれていたのは、えらく気合の入った刺繍と、フリルのついたピンク。
(これって……)
以前にマミが『真琴の勝負パンツ』と言っていた。
特別なときに穿くのよ、と言われた。微妙に意味が違うような。
第一高校の制服である黒いセーラー服を着込んだ。
マミ姉が制服にアイロンかけてくれていた。
ピチっと皺もない。
紺のプリーツスカートも折り目ただしく揃えられている。
脚を入れ、腰まで穿くと脚のあたりで、ふわっと広がる。
靴下を履く。
もう一度鏡の前で自分の姿をチェック。
(よし、準備完了)
今日は色々やることが沢山ある――。
革靴を履きスカートを揺らして勢い良くドアを開けた。
暖かい部屋の中と違って、凍てつく冬の空気が真琴の身を包んだ。
凍えるような、寒さだ。
吐く息が白い。
天気は生憎曇り空。
だけど、今日は行かないといけない。
「よ、お早う。あ、そうそう、雄一。借りてた漫画、まだもう少し待って……」
朝、教室に入った時、クラスメイトの滝川雄一から借りてたバスケ漫画を返すことを忘れてた。
ずっと考えごとが多かった。
すっかり返す日にちを忘れていた。
学生服の男子で固まっているグループの中にいる雄一に、詫びるために声をかけたら、いきなり――。
「あの話、本当!? 姫宮さん」
食らいつくように、雄一がオレに尋ねてきた。
「は?」
「せっかく、うちのクラスに慣れてきたばっかりなのに……」
「なんで、来たばっかりなのに、またいなくなっちゃうんだよ……」
雄一だけでなく、他の男子も慟哭状態になっている。
「もっとゲーム教えてやりたかったのに……」
「野球の話できなくなっちゃうのかよ――」
(なんだ? なんだ?)
しかも……。
「ねえ、まこっち。まこっちに好きな人がいるって本当!?」
男子だけでなく、今度は、女子にも囲まれる。
「ちょ、ちょっと待った! 皆」
だが波紋は止まらない。
「一体どんな人なの? まこっちが好きになった男の子って……」
「きっと真琴さんが好きになるくらいだから、理想的な男の人ですよぉ」
噂は、クラス中に駆け巡っていた。
真琴(オレ)が再び天聖館に戻る。再転校し、出戻りする……らしい。
あの生徒会長の皆川の奴の話が広まったのだ。
あの場には途中からオレは席を外したが、どこかで誰かが聞いてたのかもしれない。
そして、オレに好きな男ができたという噂まで……。
「なんか、尾ひれが付きまくってるな……」
休み時間。
校舎の屋上にセーラー服の生徒二人。
明美と共に妙な喧騒状態になっていているクラスを避け、屋上へ退避した。
怪しいどんよりとした曇り空。
それにも風ある。強風ってほどじゃないが。
スカートが揺れる。
この天気だと……雪が降りそうだな。
「そりゃ当たり前よ。男子にとっては、真琴は女神。浮いた噂は無いし、とっつきやすいし、気軽に話してくれるし……。その真琴が、いなくなるんだから、この世の終わりがきたのと同じよ。女神がいなくなるんだから」
「じゃあ、オレに好きな男ができたって噂……なんなんだよ、一体誰がそんな噂、まさか……」
「ちがう、ちがう! 私じゃないって」
オレの言葉を途中で遮った。疑いの目を向けられたことがわかったのだろう。
右の手の平で、遮るように突き出した。
まさか明美がオレに男ができたとか、そんな噂を流したのか、と思った。
「別に私じゃなくてね……女子は、もう皆気が付いてたのよ」
「気が付いてた?」
「うん、ここしばらくの真琴の様子、仕草、行動……大抵の女の子は経験したことなのよ。だから、皆すぐ気づいたの。真琴が何に焦がれているのかを、ね。まあ無理もない……か。真琴は男の子だったんだよね。ま、それはそれとして……」
近頃の明美は、オレが男だったということを踏まえて話す。
明美はオレに話を合わせているのかもしれない。信じているのかもしれない。
「で、どうするの? 真琴」
屋上の柵に背を向けてもたれかかって、明美は問うてきた。
「オレ、天聖館高に行く」
柵に肘をつきながら、屋上からの景色を眺めた。
遠くの山あいの中に、件の天聖館の校舎が見える。
「そう……」
「今日、もう一度……会いたい奴がいるんだ」
オレが言葉を言い終えるのと同時に女の甲高い声が響いた。
「私は反対です!」
明美とは別の声が響いた。
屋上にもう一人、セーラー服の生徒が出現。
「春香!」
オレ達を追って屋上にやってきたようだ。
「なんで今更……真琴さんを、追いだしたくせに……」
「春香……」
オレ達のところに駆け寄ってきた。
明美よりも、もっと思いつめたような顔をしている。
「ここは、この第一高校は真琴さんがいる場所なんです。真琴さんは私達と同じ女子生徒として、いる場所。戻っちゃ駄目です」
ついに、春香は顔を両手で覆った。
(泣いている? オレのために?)
「あそこに真琴さんは戻っちゃいけない。あそこは幻みたいにあやふやで不安定な場所で……戻ったら真琴さん、もう戻ってこないような……」
うう、と嗚咽を漏らしている春香。
どうしたらいいか動けなかった。
「真琴さんのこと、いつの間にか、凄く大事な存在に、最初はライバルで、敵だったのに……」
さらに涙を零す春香。
「好きなんです、真琴さんのこと。綺麗なくせに女の子らしくなくて、何にも知らない生まれたばかりの無垢で純粋で……」
明美が春香に寄り添い、背中をそっと撫でた。
「春香。これは真琴が決着を付けなきゃいけないことなのよ。真琴の大事な人も、そこにいるのよ――わかるでしょ? 春香」
「で、でも……」
「もちろん、私も真琴がいなくなるなんてことは認めない。ここは真琴が戻ってくるべき場所よ。真琴を放したりなんかしないわ」
はっと春香は顔をあげ、明美の顔を見た。オレも明美の意図がよくわからず聞き返した。
「あ、明美? 何言ってるんだ?」
はっと春香も泣きはらした目のまま、顔をあげた。
「私も天聖館高校に行くわ。私も、真琴のやることをこの目で見届けたい」
明美は、笑みを浮かべつつも、意志の強い視線を真琴に向けた。
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