第42話「融和」

 夕方。

 薄暗い人気の無い道に車が停車した。

 ドアがバタンと開いて、中からは一人の女が出てくる。


「ありがとう、送ってくれて」


 車から降車した後に運転手に御礼を言う。


「気をつけろよ、もう暗いしな」

「もう、アパートはすぐそこだから大丈夫だって。あ、明日、卒論ゼミで、また遅くなると思うけどいいかな?」

「ああ――じゃあまた明日な」


 車はエンジン音と共に、走り去ってゆく。

 静まり返り、虫の音や風の音が不意に届く。

 手を振って車を見送った翠は、すぐ後ろに小さな気配があることに気付いた。


「だ、誰!?」


 翠が慌てて振り帰ると、人影があった。


「あの男、誰だよ。翠――」


可愛い声色に感情を込めた口調。

翠が振り返ると幼い少女が立っていた。


「だあれ? あなた……」


 一瞬ほっとする。

 首を傾げるが少女は既知であるかのように真っ直ぐ見据える。


「なんで、オレじゃ駄目だったんだ」


「え? な、何の話しかしら? それよりこんな時間に出歩いちゃだめよ。家はどこかしら? 親に連絡しないと」

「なんで……オレは本気だったのに」


 泣いていた。

 少女の流した涙に翠は身体が凍ったように固まった。



   ☆   ☆   ☆



 マミはまだ過去に未練を持っていた。

 だが、知ってしまった。

 山本翠の中には、もう橘真実はいなかった。

 自分の場所がそこにはないことを知った。

 通り過ぎて行った男の一人。


「清弘……悪い、オレ、お前がオレのためにずっとこれまで尽くしてきたこと、知ってたのに……オレはお前を今壊そうとした」


 マミが一方的にぶちまけるだけだった。

 俺はただ、マミの頭を撫でているだけだ。


「オレ、どうしよう。オレ……もうここにはいられない。いつか、また同じように惑わす――」


 体を震わせている。

 冷たい。マミの心も体も。

 どんどん黒く冷たい淵に落ちていこうとしている。


「あんなことするつもりは無かったんだ……」


 マミを暖めなければ――。


「!?」


 強く抱きしめた。


「大丈夫だよ。オレは、平気だよ」


 この世界で居場所を失い、身も心も凍りきったマミが再び行き着くのは、あの幻の世界だ。

 それは絶対にさせてはいけない。


「オレは惑わされてなんかいない。少しよろけただけだ」

「でも……」

「オレは最後までお前の、味方だ。偽りの感情じゃない、お前が自分からいなくなったりすりゃ別だがな」


 マミは、オレの腕の中で、いつの間にか泣き出していた。

 しばらくの嗚咽。

 オレは腕で抱きしめて撫でていた。

 胸のシャツは、涙の粒で、湿りを帯びていた。


「……りがとう」

「?」


 やや落ち着いた頃、涙声の中から、マミが呟いた。


「清弘、ありがとう――」

「マミ……」

「ありがとう……オレ……」


 しばらくの間、静寂が訪れた。

 電灯が灯る夜の公園。少し離れた電灯がジジっと音を立てて明滅を繰り返す。

 無数の蛾や虫が集まっている。

 俺たち二人の世界。


「う……」


 急にマミの声が、静寂を破った。


「どうした?」


 マミが俯きつつ、胸を押さえた。


「なんだ? この感覚、変だ……」

「変?」

「胸に、電気が走ったみたいになって……」

「なんだ? 大丈夫か?」


 中腰になって、顔をのぞき込むと、顔を背けた。


「!?」

「み、見ないでくれ――」


 急に女の子らしい。

 それも、幼女のような、子供っぽいかわいさではなく、少し色っぽい――。


「そう、みつめられると、余計に胸が……、いや、何でもない」


 よくわからないが、落ち着いたみたいだ。

 声の調子も落ち着きを取り戻している。


「さあ、帰ろう」


肩を叩いて頭を撫でた。

 以前だったらオレはガキじゃないって怒ったのに。


 公園を出て、アパートへの道へつく。


「清弘、お前汗臭い……でも、なんだろう……良かった……」


 体を寄せてくる。

 マミが目と鼻の先にまで近づいている。

 そういえば、前にもこんなことがあったな。

 山奥の神社からマミを見つけて連れて行こうとしたとき、あの時はマミを無理矢理負ぶって連れ出した。


「お前も違う、そんな女じゃない」


 でも、今はマミは自分の足で歩いている。俺に手を引かれながら……。


「なんとかしてやるからさ」


 オレの力でなんとかなるものなのか……。でも言わなきゃいけない。


「あ、ありがとう、清弘」

「ところでさ……マミに一つだけ言っておくよ」


 コホン、と一度咳払いをした。忘れないうちに言わないといけない一言を思い出した。


「なんだ?」

「俺はマニアじゃない――」


 拳でげんこつを作ってマミの頭を軽くコン、と叩いた。


「いてっ……」


 下宿先のアパートに戻った俺たち。


「ただいま――ほら、お前も言えよ」

「う、うん……た、ただいま……」


 促すと、おずおずと、だけどはっきりとした口調でマミは言った。

 そして、俺に続いて、マミも靴を脱いで部屋にあがる。

 暗い部屋の電気をつけて、部屋に座る。

 疲れたのか、すぐに眠そうに瞼をこすった。

 睡魔に襲われる子供と同じだった。もう飯や風呂に入るのも、疲れてできないだろう。

 だが、ずっと何も食べてないだろうと思い、せめてこれでも、と牛乳を温めて、マミに出した。

 嫌がらずマグカップのホットミルクに口を付けた。


「ごめん、オレ、お前に本当に世話になってばっかりだ」

「いいんだよ」


 もう何度もその言葉をさっきから耳にした。もう心は落ち着いたが、徐々に何か強い意志や決意のようなものが、マミの瞳に灯り始めたような気がした。


「これ……」


 取り出したのは、黄金色をした細工を施された写真入れだった。


「あいつに渡して欲しいんだ」


 よく見ると、写真入れだった。

 こんなもの……持っていたんだ。

 中には何も入っていない。


「あいつから貰ったんだ」


 誕生日記念か、デートの時に思い出のためにプレゼントしたのか、お互いで持っていたものだったのか。

 間違いないのは確かにマミ、真実にとっては、思い入れのあるものだってことだった。

 俺はあえてこれが何なのかは、聞かなかった。


「伝えてくれ……」

「ああ、わかったよ」


 俺は写真入れを受け取った。


「ふわ……」


 マミが大きな欠伸をする。

 やがてうとうとし始めたマミの体をそっと抱き上げて、敷いた布団に、寝かしつけてやった。

 スゥスゥ、と寝息をたてて眠ってしまった。

 下宿部屋は、その少女の息づかいと見守る俺の二人の世界になった。

 俺は眠る少女を見て思った。

 こいつをここへつれてきたのは俺だ。

 幻の楽園から連れ出してこいつも俺のことを信じてここに来たんだ。

 俺はこれから、こいつのことを守ってやらないと。

 こいつは、マミは……俺の、俺の大事な……。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る