第43話「始まりの終わり」

 ぐっすり眠ったのか、夢すら覚えていない。


「うーん?」


 ゆっくり体を起こして、妙な違和感を感じた。

 静かだ。

 部屋が静かで、外の鳥の声、射し込む光。

 この静寂。

 そう、この部屋に俺一人。

 一人暮らしだったこれまでの俺の朝だった。

 俺以外の気配が無い。

 とてつもない恐怖に襲われた。


「マミ! マミ!」


 俺は布団をはねのけた。

 いない。

 この布団の中で寝ていたはずのマミがいない。


「マミっ!!!」


 キッチンにも、トイレにも風呂場にもいない。

 心が、声が震え始めた。


 鉄砲玉のように玄関から飛び出そうとしたそのとき――。

「わっ」という可愛い声がした。

 ドアがギィッと開いていた。


「!??」


 驚いた表情のマミだった。


「マミ……」


 すでに着替えたのか、白いスカートと青いTシャツといった女の子の普段着だった。


「なんだ、起きてたの? ゴミ、出してきたよ」

「ゴミ?」


 そういえば、片づいている。

 昨日は結構いろいろ散らかっていたが。家事をやっていたマミが家を空けていたし……。

 でも小綺麗に部屋が片づいている。


「きよ兄は、そこで待っててね、朝ご飯、あたしが今作るから」


 マミは、さっさとエプロンをつける。


「あ、お醤油、もうすぐ無くなっちゃう。今日買ってこないと」


 てきぱきと朝飯の仕度をする。


「お前……」


 マミが女言葉を使っている。

 あっけに取られてぽかん、と口を開けている。

 茶碗と味噌汁の椀を並べた時、少し口元に笑みを浮かべていた。


「あ、言葉遣い、気付いた? 今日から、変わるってきめたんだ。新しいあたしになるって――」


 迷いが吹っ切れた表情だった。憂いを帯びていつも影があったマミの表情。今日はそれが無い。


「そんなに変かな……」


 驚いている俺を見て、その長髪の頭をかきあげた。


「い、いや……」

「きよ兄――、ともかく朝ご飯食べよう」


 兄ってマミは、オレの妹ってか?

 呆気にとられている俺を横目にさっさと朝食の仕度をする。

 ご飯と、豆腐の味噌汁と、卵焼き。海苔も添えている。

 並べられた食事を前に、テーブルに座った。


「いただきます」


 手を合わせるマミ。


「い、いただきます」


 俺もつられて手を合わせた。

 食べながら、マミが口を開いた。


「昨日、双葉様があたしのところに来たんだ。あたし小学校に行きたいって言ったら……枕元にこれが置いてあったんだ」

「は?」


 小学校? 双葉様?

 でも、戸籍とかそういうのは……。


「夢の中で最初は、マミちゃん、また一緒に遊ぼうよって手を差し出されたんだけど……まだもうちょっと待ってってあたしは言った。こっちにいたいって。双葉様、ちょっとがっかりしてた」

「小学校に行きたいって言ったら、じゃあ、これをあげるって言われて……」


 マミが傍らから取り出したものに、俺はあっと声を上げそうになった。

 マミが持つ赤く光るその光沢のものは――

 ランドセル。

 どこまでも赤くて小学校に通う女子児童の証。

 それがマミの手の中にあった。


「目が覚めたら、枕元にこれが置いてあったの」

「一体、これは……」


 ピンポーン、ピンポーン

 二人のまだぎこちない会話を遮るようにチャイムが鳴った。

 赤いランドセルと黄色い帽子の群れ。

 ドアの向こうには小学生の女児たちが何人もいたのだ。


「マミちゃんー学校行こうよ」

「おはようございます! マミちゃんのお兄さん」


 三つ編みの女の子、おかっぱ頭の女の子が、子供らしい元気なテンションで玄関前に屯している。

 マミは小学校には通っていないはずだった。マミは大学生だった真実が、少女の姿になっただけ。

 女の子としては誰も知らないし、何もない。

 なのに、今、子供達から迎えが来ている。


「これは……」


 洋服ダンスを開けてみた。

 そこには、いつの間にか、着替えの体操着、ブルマもあった。

 本棚には、小学校の教科書やノートまである。


「じゃあ、オレ……いや、あたし行ってくるよ、『きよ兄』――」


 振り返ると、身支度して、赤いランドセルを背負ったマミがいた。


「おはよう、マミちゃん」


 靴を履いたマミをすぐに子供達が囲んだ。

 男の子は、虫かごを持っている。


「マミちゃん、ほら、日曜日に、父さんと山に行ったときに取ってきたクワガタさ」

「一緒にサッカーしようぜ、マミ」


 俺は呆然と立っていた。その俺に子供達が気がついた。


「あ、おはようございます。マミちゃんのお兄さん」

「マミちゃん、これ似合う?」

「マミちゃん、この本凄くおもしろいよ」


 女の子はもっと積極的だ。抱きついたり、手を繋いだり。もっとマミに接触する。


「おまえ等、女子でマミを独り占めすんなよ」

「ずるいぞ!」


 やきもちをやいた男子から、不平が出た。


「いーのよ、マミちゃんは女の子なんだから」


 あっかんべーをしながら、


「ふーんだ、悔しかったら、あんたたちも女になりなさいよ」

「ちくしょー」


 小学生たちに囲まれながら、スカートをなびかせて、歩きだした。

 道路の向こうに、赤いランドセルが消えていった。

 消えざまに、こっちを振り返ったマミの表情は、憂いや迷いが消えていて、とても晴れ晴れしていた。

 そしてマミは俺に小さく手を振った――。

 空を見上げると、今日はよく晴れていて、雲一つ無かった。

 何て清々しい朝だろう。


「うん?」


 気がつくと、ポストに何かが届いていた。

 この間、就職受けた出版社の不採用通知だった。


「くそ!」


 せっかくすがすがしい気分になれたのに。ゴミ箱にたたきつけた。


 そして、その日の午後。

 俺はキャンパスへ向かう。

 卒論の仕上げもあるが、大川と翠のこともどうだったか気になっていた。

 マミが昨日、乗り込んでいった先――。

 しかし、マミには俺がなんとかすると言ったもののどうすればよいものやら。

 肝心の二人はキャンパスにいる様子もないし。

 思案したまま時間だけが過ぎ、ランチタイムに突入してしまう。だが案外その機会はすぐに来た。

 学食で一番安い二百八十円の醤油ラーメンをすすっていたときだ。

 女子のグループが、俺のテーブルにやってきた。

 翠のランチ仲間だ。よく一緒に昼のランチ時に、おしゃべりしているのをよく見た。


「ねえ、鷹野君だっけ? ちょっと話があるんだけど……」

「んー?」


 俺の前に向き合うようにそいつらは座った。

 斜め横にもう一人。俺は持っていたラーメンの箸をとりあえず置いた。


「あなた、翠の前の彼の橘真実ってのと親しかったらしいけど、本当?」

「ああ、そうだけど、それが?」


 思いもかけず、真実の話題が出たので、ラーメンを食べるのをやめて、箸を置いた。


「昨日から、翠の様子が急におかしくなって……昨日は寝込んでいたみたいだし、ただ体調を崩してるだけじゃなくて、なんか恐れてるみたいなの、あるいは悔いているみたいで」


 女子の一人が、学食の一角を見つめていた。

 俺もその視線の先を辿った。

 そこに、かなりやつれた表情で、学食のテラスで座っている女子学生に気がついた。

 翠だ。


「実はね、翠、その前の彼と今の彼と二股かけてたみたいなの。それで、トラブったみたいで」


 色恋沙汰のトラブル、そんなふうにとらえているみたいだ。そして真実が行方知れずなことまでは情報をキャッチしていた。

 女子のグループは、俺をその翠の元へ誘った。

 そして、俺に彼女を紹介した。

 どうも、ずっと考え込んでいたのか、憔悴しきっているようだった。


「ほら、彼が、その知り合いらしいわ」


 グループの一人が俺を紹介したので、軽く頭を下げて挨拶した。


「そう……」


 まったく元気がない。チラ、っと一回俺を見たが、うつむいたままだった。

 心ここに無い、という感じだ。

 ね、こんな調子なの、と俺の耳元でささやいた。


「これ――」


 俺はポケットからあの写真入れを取り出した。


「!?」


 驚いたようにそれを見た後、俺を真剣な目でみた。


「俺にはこれが何かわからねえけどな、これをお前に返したいみたいだったぜ」


 震えるように、その手で受け取った。

 目に涙が浮かんでいるのがわかった。


「そうそう、俺、あいつから伝言預かってるんだ」

「元気でなって」

「!?」


 握りしめた。

 もうこれ以上は伝えることはないと思って俺は、そのままきびすを返した。

 背中を向けた俺に翠のか細い声が返ってきた。


「あ、あたし、傷つけるつもりなんてなかった」

「伝えておくよ――」


 俺は一瞬だけ振り返って、そう言った。


 俺は、歩きながら、ふと思った。

 マミが願ったら、あの双葉という少女の神は、マミを連れてってしまったのだろうか?

 マミをいつでも連れて行く。

 俺の心が戦慄した。

 いや、あいつがそんなことを思うわけない。








 学食を出た俺に、女子のグループの一人が、追いついてきた。

 短めの髪に、眼鏡をかけた、さっきの女子グループの中で、あまり目立たない風の女子学生だ。

 よくみると、決して可愛くないわけではなかった。


「あ、あの……清弘さん!?」

「なんだい?」

「翠が、大川君には言わないで欲しいって」

「ああ、わかってるよ、ところで、あいつどうしてるんだ?」

「大川君も昨日、どっかのコンパでもいったんだかなんだかで二日酔いで頭が痛いって、昨日のことも思い出せないらしいわ」

「へえ……」


 少し吹き出した。大川には悪いがそういうことにしといてもらおう。

 なんとなく最近キャンパスから足が遠くなりがちだったので、情報収集も兼ねて、そのついてきた子と会話が進んだ。


「へえ、え……と。八代さん、だっけ」

「はい……前のレポートの報告会の時に、以前いろいろ手伝ってくれて……あの時はありがとうございました」


 ああ、そんなこともあったっけ。

 そういえば、中間報告を合同でやった時に、別のゼミの子たちと準備をしたっけ。OHPの使い方やスクリーンの使い方を教えてたり……。

 この子のことも名前だけは覚えていた。


「その時は他の子と一緒だったから……あんまりお話できませんでしたが――」


 なんとなく話は、就職、ゼミや卒業論文の話から、身の回りのことにも及んだ。


「ところで……就職活動はどうですか?」

「いや、あんまり」

「駄目ですよ! 早く決めないと」


 バイトのことも、実家から、離れてアパートで一人暮らししていることも。いや、今は一人じゃ……ないか。


「へえ、八代さんは実家からか、近いんだね」

「いいなあ、一人暮らし、私も出てみたかったんだけど、反対されちゃって」


 まあ親によってはそうだろうな。女の子の一人暮らしなんてもってのほかなんてのもあるかもしれない。


「そんなに、大したもんでもないけどさ」


 しかし、なんで彼女、俺についてきたんだ?


「清弘さんのこと、もっと知りたいです――」

「え?」


 俺はもう一度、彼女の顔を、今度ははっきりと見つめた。

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