第37話「不安」

「よう! 清弘!」


 日中、大学のキャンパスを歩いていた時、俺は一人の男子学生から声をかけられた。


「なんだよ、大川」


 大川という奴だった。一応同じ学科で知り合いだ。

 親友、というわけではないが、試験の時の過去問をお互い融通しあったりするぐらいの付き合いはある間柄た。

 テニスサークルで幹事も務めている。

 ルックスも良いし、浮いた噂も結構聞く。


「最近、どうしたんだ? 授業終わったら、すぐにいなくなっちまうしさ」

「まあ色々あってな」


 まさか、幼い女の子の世話のため、とは言えない。


「ひょっとして、彼女ができた、とか?」


 女の子声がした。

 大川の奴のすぐ後ろに引っ付くように、女子学生がいた。

 あ。確か、こいつ以前は真実と一緒によくいた奴だった。

 山本翠(みどり)。

 茶髪のショートカットであるが、綺麗ではある。

 女らしい華やかさがある一方で、手ごわい相手というのが俺の印象だ。


「そうなのか、それは良かったな。お前にも彼女が出来たとはな」

「違う違う、そうじゃないって」


 慌てて否定する。


「ふうん、でも、何か雰囲気が……以前と変わったかな? 誰かと同棲でもしてるんじゃないの?」


 山本翠の質問は鋭かった。女の直感か? 問い詰められるとまずそうだ。


「そういえば、清弘、最近お前、弁当持ってきてるよな。誰が作ってるんだろう。お前料理まるで駄目じゃなかったか」


 適当にやり過ごそうと思ったが、どんどん突っ込んでくる。まずいな。


「そうだ、これからバイトあるから失礼するよ」


 ややわざとらしいが、会話を打ち切って場を去る。


「なんだ、清弘の奴……」

「さあ……」


 そそくさと去っていくと後ろの方でそんな会話が聞こえた。

(あいつら付き合ってんのか)

 仲よさそうにぴったりと寄り添っている大川と山本の二人。

 どうもただの関係には見えなかった。


 下宿のアパートに着いたのは、日が落ちる前。

 道路から見える俺の部屋に、電気が灯っている。

 あいつがいる。マミが……。

 たまらなく心が落ち着く。

 なんだろう、一人暮らしも嫌ではなかったが、待っている誰かがいるというのも、悪くないな……。


「ただいま!」


 ドアを開いて一声。


「おかえり――」


 いつも小さなエプロンを着た姿で、出迎えてくれるのだが、今日は、部屋の奥からの返事のみだった。

 ちょっと物足りないものがあったが……何かあったのだろうか?

 既に夕食の支度をしているらしく、部屋には空腹を刺激するいい匂いが充満している。

 靴を脱いで、奥を覗いてみる。

 いた。

 まな板、包丁、野菜なんかがキッチンの上にやりかけのまま、放置されている。

 当のマミは、キッチンの上部にある吊り戸棚の下で背伸びをしている。棚の上の醤油ペットボトルを取ろうとしていたみたいだ。

 ショートパンツとTシャツに、エプロンを着け、長い黒髪を後ろで縛って――。

 小さな体で一生懸命背伸びをして、つま先立ちしてそれでもわずかに届かない。


「う……ん」


 何せ十歳いくかいかないかの少女の体だ。背が小さくなったから、不便なことが多々ある。

 普段は、あんまり口にしないが色々マミも苦労があるに違いない。だがそこが健気で可愛かった。

 その必死になっている姿を目に焼き付けつつ、後ろからそっと寄った。

 届きそうで、届かない醤油の瓶に手に取る。


「お、ありがとう」


 マミも、振り返る。

 俺の姿を映すその瞳に輝きが増した気がした。

 やはりマミも俺の帰りを待っていたのだろうか。


「少し背、伸びたんじゃないか? ここに来た時は全然届かなかっただろ?」


 醤油のボトルをマミに渡す。


「そうかなあ」


 マミは首を傾げる。

 年齢を考えてみると、もう成長真っ盛りの年代だ。

 特に女の子は成長が早いと聞くが……。


「ちょっと待ってくれ、もうすぐ出来るから」


 マミは、夕食の支度を再開した。

 その間、俺は風呂の準備をする。

 いない間、洗濯も掃除も全部やってくれるから、せめて俺が出来ることを、とやっているのだ。

 それらを終えると夕食の準備が整う時間だ。


「おい、どうしたんだ? これ……」


 定番の味噌汁と煮物に加えて今日のメインのおかずは――テーブルの上の蓋付きの大きな鍋の中身だ。

 蓋と取ると、鍋いっぱいの煮物、牛肉をたっぷり使った惣菜が入っていた。

 いつもは近所のスーパーの特売の魚が中心なのだが、どうしたのだろう?


「いつも無駄遣いするなっていってるくせに……」

「これ、貰い物なんだよ。ほら、公園の先に高層マンションあるだろう? そこに将太って小学生がいてさそこのお母さんがくれたんだよ」

 

『ママ、この子、マミちゃんっていうんだ』

『こんにちは、お母さん』

『まあ、将ちゃんのお友達? 女の子が遊びにくるなんて、珍しいわ』


『ほら、お菓子よ』

『ありがとうございます、お母さん』

『可愛いわあ。やっぱり女の子はいいわねえ。うちにも女の子が欲しいわ。ねえ、将ちゃんも妹が欲しくない?』

『え? 僕は弟が欲しいなあ。一緒にキャッチボールできるし』

『私も、今晩旦那が帰ってきたら、ちょっと頑張ろうかしら――最近相手してくれないから、ちょっとけしかけてやらないと』

『あれ? どうしたの? マミちゃん、急に顔が赤くなっちゃって。変なの……それよりママが持ってきたお菓子食べようよ』


『ねえ、マミちゃん、夕ご飯もうちで食べて行きなさいよ』

『あ、そんな……』

『あら、お父さんとお母さんには、おばさんが家に電話しといてあげるわ。家まで車で送ってあげるわよ』

『そ、その、清弘が、いや、家族……が待っているから大丈夫です』

『残念ね、作っちゃったんだけど、そうだお鍋に入れるから持ってきなさい』


「へえ。そんな経緯があったのか」


 そんなこんなで、この鍋のおかずの由来についてマミから聞かされつつ、食べる。

マミが作ったやつの方が美味いんだけどな、まあこれもいいか。やや味付けが濃いが……。茶碗のご飯を口に運ぶ。

 家に閉じこもっているだけでなく、時折近所の公園や商店街にでかける。

 そこで、色々な人たちと出会っているらしい。

 年寄りのおばあちゃん、おじいちゃん、同い年ぐらいの子供。

 とにかく人気を得ているようだ。

 どこへ行っても可愛い、人形のように綺麗――。

 服もいらなくなった孫のものを、と貰ってきたこともあった。

 今マミが着ているハーフパンツも、そうだ。

 俺がスーパーで買ってやったものよりも今風だ。

 知らない間にいろいろなことをしているのは知っていることとはいえ、なんだかちょっと悔しいがする。

 俺もなるべくマミと一緒にいる時間を増やしたいんだが、 いかんせん、学生だ。

 講義も、バイトも、卒論もやることが多いし、世間体もある。大学生と幼女が同居していることが周囲に知られるのはまずい部分もある。――

 それに――

 少し胸に突き刺さるような感覚を覚えた。

 マミは知っているのだ。

 俺の生活費が苦しいことを……。

 仕送りはオレ一人分。

 もう一人の衣食住を、賄うには相当に切り詰めないと厳しいものがあった。

 今のスーパーのアルバイトだけでは足りない。

 マミは、成長期の少女。食べ盛りで、服もどんどん買い替えていかないといけない。

 もっともっとお金がいるようになるだろう。

 早く就職して、給料を稼がないと。

 それだけでもだいぶ違うんだ。

 それまではなんとか耐え忍ばないと。

 夕食後――。

 俺はしばし、部屋で身を横たえ休憩する。

 その間マミは夕食の片付け。

 別に亭主関白気取ってるわけではなく、バイト、ゼミで大変だろうから体を休めてくれというマミの願いだったからだ。


「そういえばさ、今日、大学キャンパスで翠とであったんだよ」

「そ、そうか……」


 食器を洗うマミの体が一瞬、ビクっとなった。


「それがさ、大川知ってるだろう? テニスサークルの幹事やってる……あいつの自転車に乗っててさ」

「そ、それで?」

「2人で仲良く、これからどこかに行くようなそぶりだったが――付き合ってるのかな? あいつら……」


 ガチャン、という音がした。

 マミが皿洗い中に滑って落としたようだ。


「?」


 起き上がろうとしたが、マミが手で静止する。


「あ、いや、大丈夫、割れてない、割れてないから大丈夫だよ、そうだ、もう風呂沸いてるだろ? 先に入れよ」


 マミの様子に変化があったことだけは、俺にもわかった。口数も少なく、考え込む様子も見えた。

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