第1話「とある男子生徒の苦悩」
きっと誰も信じてくれないだろうが、この学校の男子が全員女子になってしまった。
生徒が入れ替わったわけではない。
スカートやブレザーに身を包むあの女子も、窓際でだるそうにしている女子も、あの廊下で屯っている女子も、この間まで皆男子だった。
あれは三か月以上前に遡る。
その日の前日ボクは風邪を、引いて学校を休んでいた。
風邪は酷くはなく、ちょっと熱っぽかっただけで、翌日には、症状は治まっていた。
大事をとって一時間だけ遅れて登校した。
あらかじめ事務室に遅刻する旨の連絡を入れていたので、下駄箱で靴を上履きに履き替え、直接教室に向かった。
所属する二-Aの教室は階段を昇った二階のすぐ手前だ。
すでに一時間目の授業中で、しんと静まり返った廊下には誰もいない。
そのまま一人自分のクラスへと歩みを進める。
「ん?」
自分の教室まであと十数歩というところで、ふと違和感を強く覚え、辺りを見回した。
景色はいつもと同じ。でも何か違う。
しばらく戸惑ったのち、それが視覚ではなく、嗅覚の違和感であることにボクは気付いた。
この廊下に漂う空気の匂いがいつもと感じるものと違っている。
実はこの嗅覚のおかしな感じは、下駄箱の時からあった。だが、校舎へ入っていくにつれて強くなり、ようやく違和感としてはっきりと意識に上ったのだ。
(なんだ? この匂い)
微かに混乱した。何か甘い空気が漂っている。自分とは異質な匂いだった。
どこが発生源というわけではなく漂っている。
(変だな……)
由緒正しい男子校であるこの学校はいつも泥と埃と汗が入り混じったような臭いがしていた。ザ・男子校の臭いといいたくなるような――。
なのにいつもと違うこの甘ったるいような妙な匂いは一体なんなのか。
急に不安にかられる。
(いやだな……。この感じ)
僕は欠席した日の翌日の登校が何より苦手だ。
とてつもなく苦手だった。
欠席した翌日の登校は、たった一日だけいなかっただけで、見慣れた教室風景とクラスメイト達が、別人のように違って見えるのだ。
自分は丸一日、そこで何があったのか知らない。けれども奴らは知っている。
たったそれだけの差だが、途方もない距離を感じて自分一人が世界から取り残された気がしてしまうのだ。
あの孤独感がたまらなく嫌だ。
自分の知らない世界が出来上がり、自分がたった一人残される。
今の状況がまさにそれだ。
「はあ……何もないといいんだけどな」
制服のズボンのポケットから買ってもらったばかりのスマホをおもむろに取り出す。
僕の両親は年が離れていて、こういうものに疎い。その頭の固い両親を説得してようやく手に入れたのがこいつだ。少し画面に傷の有る型落ちの中古品――。
慣れない手つきでアプリを起動する。そして画面に表示されるメッセージのやりとりを見直す。これがあれば休んでもやりとりができる心強い味方で、孤独感もやわらぐ。
そのはずであったが……今は妙な具合だ。
実は昨日の朝、学校の仲間にSNSで「今日は休む」とメッセージを送った。その後、返事が来た。真っ先に帰ってきたのは幼馴染の白川純(しらかわじゅん)からのメッセージだった。「大丈夫か? ちゃんと休めよ」と清久を気遣うものだった。
だが、その夕方、純から入っていたSNSのメッセージは妙なものだった。
―純、今日学校はどうだった?―
―どうもこうもねえよ。すげえことになってるんだぞ―
―すげえこと? なんだよ、教えろよ―
―いや、言葉でいっても説明しきれねえよ―
―水くさいな、教えろよ―
―まあ、明日来てみればわかるよ―
それきり純からは返事もなく終わった。もったいぶった悪ふざけかと思った。だが妙だったのは純だけではない。
―もう俺達にはエロ本もういらねえな。捨てちまおうか―
―トイレってどうやってするんだ?―
意味不明なメッセージが多数あった。
あるいはテニス部の先輩とのメッセージも変だった。
―部の新しいユニフォームどうしようか?―
―胸のサイズが……―
―胸が重てえよお―
―巨乳なんかになるからだ―
メッセージの意味が全然わからない。妙に不気味で、僕はそれ以上返信を送れなかった。
結局パソコンやスマホで連絡を容易にやり取りできるようになっても変わらない。むしろ今回は中途半端に情報を手にしたために、かえって不安が増してしまった。
「はあ……」
今一度大きなため息をつく。
この意味不明なやりとりを改めて思いだしたせいで、本当になにか大変なことが起きたかもしれないという胸騒ぎが強くなってきたのだ。
いや、考えすぎだ。
早く安心したい。みんなに会いいつもと変わりないことを確かめたい。
目の前の教室の扉に手をかけた。
扉の向こうからは教科書を朗読している声が聞こえる。
「すいません、遅れました」
頭を下げつつ引き戸となっている入口を開けるとガラリと音がなった。
一瞬教室が静まり返った。
(この感覚……嫌だな)
「ああ、話は聞いてるから座りなさい」
担当の教師にそう促され頭を戻した瞬間に――。
「うぁ!」
完全に引きつった声が出た。
体が硬く強張る。
皆ことごとく胸元に赤いリボンの着いた白いブラウスと紺のプリーツスカートを着ている。
教室にいたのは全員女だった。
制服を身に包んだ女子生徒が一斉に僕の方を見ているのだ。
(一体どういうことだよ……これ……)
ショートカットの女子もいれば、ストレート、三つ編みの女子もいる。
しかも皆見れば見るほど可愛く、そして同い年くらいの女子高生達だ。
しかしこの教室にはいてはならない存在だ。何故ならここは男子校。天聖館高校個に女はいないはず。
二年A組のクラスメイト達はどこへ行ったのか――。
だが、教室の空気はこっちとはまるで逆だった。
「あれ? なんで清久のやつ学生服で登校してんだ? 新しい制服を着て来いって言われてただろ……」
「それより、鷹野の奴、そもそも男のままじゃないか」
「ああ、そういえば、清久って昨日休んだんだっけ? じゃあ、知らないのも、しょうがねえよなあ」
教室に座っている女子たちは、まるで僕を異質なものを見るような視線を送る。
胸元に結ばれたリボン。白いシャツの袖口に二本線。短めのスカートから映えるスネ毛もない綺麗なすべすべの脚。
(こいつら本当女だ……)
そのことを瞬時に理解した。
だが、次の疑問が思い浮かぶ。じゃあ昨日まで教室にいた汗臭い男子たち一体どこへ……。
「清久、清久」
一番後ろに座っていた女子が僕の腕をちょんちょんとつついた。
記憶を辿る。ここの席に座っているのは、佐久間孝安というクラスの仕切り屋であることを思い出す。
今ここにいるのはやや茶色がかったロングヘアーの女だ。スマートで胸の形もスタイルも抜群な女子だった。
こんな女子生徒は僕は知らない。
再び佐久間の席に座っている女が髪を片手でかき上げる。
「授業が再開できないだろ、早く席につけ」
クラスの中を取り仕切るような発言はまさに佐久間だ。
「でも君は……誰なんだ?」
やはり見覚えがない。その女子生徒を再びじっと見つめる。
(いや、ちょっと待て。)
この女子の顔をよくよく見るうちに、佐久間に似ている気がしてきたのだ。佐久間孝安に似ている。
(これは一体?)
その佐久間に似た女は深いため息をついた。
「ハア、お前、昨日休んだから知らないんだろうがな」
そして、信じられないことを耳にした。
「うちの学校、女子高になったんだよ」
「じょ、女子高? 今日から?」
佐久間を名乗る少女は頷く。
「そ、それでオレは今は佐久間孝子。名前、忘れないでくれよ」
簡単に佐久間を名乗る孝子という女子生徒は言ってのけた。
だが、この日から世界は変わった。僕を残して。
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