鎮めの海のキネ

 島を縁取る藻草はみな潮の流れる方へと襟足をそろえ、筆でさっと描いたような細い葉を暗い水底へたなびかせている。

 赤らんできた海の上では、細波に砕けた光がきらきらと瞬いていた。

 鎮めの海に影を落とす遥かなる垂状山脈の頂きが揺らぐ事はない。ただ陰りの奥から生まれるように、ぽつりぽつりと吊り屋の明かりが灯るさまは、なにかとてつもなく巨大な生き物の胎動や産卵を思わせた。

 年に一度の月が降りてくる真夜中に羽衣珊瑚はごろもさんごがひかりの粒のような卵を放出するその姿と、夜にその身を浸し始めた山々はよく似ている。

 キネはふと頭をもたげた。風の向きがいつの間にか変わった。潮よりも強い水のにおいが風に混ざり始めている。

 降ろしていた小傘錨を引き上げ、キネは島を走らせる準備に取り掛かった。〈大凪〉がここに来る。潮と風に任せていては間に合わないだろう。仕方なく、キネは島の後ろに繋いだ海牛のつるつるした背を叩いた。まどろみかけていた海牛は、飼い主の所作を批難するように顔を上げ胸鰭で水面を打った。

「ごめんね。でも少し走って」

 手綱を取ると海牛は少しむずかりながらも、島を引いてゆったりと泳ぎ始める。

 兄から引き継いだ海牛は、まだ自分を正式なあるじとして認めてくれてはいないようだ。キネはため息を吐いたが、これをどうにかできるという確信を失ったわけではなかった。

 まだ〈島分け〉の儀式は始まったばかりなのだ。太陽が九十三回、昇って沈むその内に、この子島と海牛を一人前にして見せる。

 冷え始めた潮風を肌に感じながら、キネのこころは風を送られた炉の火のように赤々と燃えていた。


 海の一族、竜の末裔のこどもたちは、皆十四の歳になると親島から生まれたばかりの子島をひとつ与えられ、それを〈海駆るもの〉に育て上げる試練に挑むのだ。

 キネは十四になった。子島をひとつと海牛一頭を率いて、ただひとり海を往く。

 海へと子島を走らせ一族のもとを発ったあの朝の事を、彼女はよく思い出した。風の穏やかな晴れた日だった。金色に輝く海とどこまでも遠く広がる水平線を見つめながら、風と潮の導く方へと島を進めた。すぐに親島の率いる筏之群いかだのむらは見えなくなった。

 ひとりで島を駆った事は何度もある。ただ、親島から遠く離れ本当の意味でひとりきりになったのはこれが初めてだったのだ。

 海の広さを切に感じた一日だった。

 できるだけ早く大人になりたいと、キネは願う。この高なりも焦燥感も微かな不安も寂しさも、すべて潮に流して、これを当たり前の日々にしてしまえる大人になりたい。


 沈んだ日の残滓が海の彼方に落ちていく。島を走らせるうちに、黒く小高い島のような影が行く手に現れた。近付くうちにそれが見慣れた〈潮喰らい〉だとキネは気付いた。

 適当な距離をあけ、手綱を引くと海牛は泳ぎを止めた。錨を降ろして島を泊める。

 潮喰らいは横に裂かれたような不格好に大きな口を開け、静かに波を飲んでいた。海流に混じる目には見えない生き物たちを喰らって生きるこの大きな鮫は、大凪の来る場所では捕食をしない。夜を越すにはこいつの傍らが一番だと、そう話したのは父だったかとキネは思い出す。これだけ大きな生き物なのに、不思議と海牛もこれを恐れたりはしないのだった。

 潮喰らいの平たい背は張り付いた貝の死骸や塩の塊、あとは枯れた藻草が積もって固まりほとんど岩のようになっている。一羽の針鴎はりかもめがそこを今宵の宿と決め、羽を畳んで縮こまっていた。

 あたりはすっかり暗くなっていた。

 海牛を留める綱を確かめて、子島にひとつだけ建つ小屋へと入ると、キネは燈ノ虫の虫籠を鏡張りの平傘の下に吊した。橙色の弱い明かりがほわりと部屋に広がる。長火石式の焼き窯に火を入れその上に鉄瓶を置くと、キネは戸棚から小さな文箱を取り出した。

 いつだっただろう。貰った手紙をうっかり波にさらわれて、ドロドロに溶かしてしまった事がある。黙っていれば分かるような事ではなかったけれど、それがどうしても申し訳なく思われて、キネは返事にその出来事と謝罪を書いた。その次から決して水に溶けない蔦油つたあぶらのインクと綾紙あやがみで返事が来るようになったのだ。決して安いものではない。だから、これからは便箋にいっぱい小さい字で書きます、ちょっと読みにくいけど我慢してねと、そんな返事が。

 キネはそんな文通相手をとても大切に思っていた。

 一番最近来た手紙を手に取ると、そっとキネはそれを開いた。蔦油のインク独特の花のようなにおいがした。

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