第6話

「今日はギリギリだな、ユズ」


 席に着いて手で髪を整えていると、前の席に座る牛島雄吾が大きな身体をねじらせて話しかけてきた。

 クーラーが効いている教室だが、下敷きで自身を扇いでいる。今日も朝練をしていたのだろう。雄吾の汗の匂いがした。


「雄吾もでしょ。汗拭きなよ」


 ボクはポケットからハンカチを取り出す。雄吾は「サンキュ」と受け取って顔を拭く。顔の汗が見る見るうちにハンカチに染み込んでいく。

 拭き終わって返してもらったハンカチをポケットにしまう。ハンカチは汗で湿っている。ポケットの中でギュッと握った。


「今日も朝練だったの? サッカー部」

「今週も試合があるからな。中学最後の大会だ。やれるとこまでやりたいしな」

「次は準決勝だよね。どこでやるの?」

「先週と同じとこ。また応援に来てくれるのか?」

「愛着あるし、最後の雄姿くらいは見とかないとね」

「また来るのか。久我」


 ボクたちの会話に別の声が加わる。顔を上げると見覚えのある顔があった。雄吾と同じサッカー部の一人だ。


「行くよ。高菜も応援してあげる」

「高菜じゃない、高田だ。不味そうな名前で言うんじゃねぇ」

「不味そうな顔をしてるから間違えちゃった。ごめんね」

「まったく重みが感じられない謝罪だな」

「高菜には要らないかなって思って」

「謝る人間の言葉じゃねぇな」


 高田はフンと鼻を鳴らした。


「受験に専念するからって辞めたくせに、見に来る余裕はあるんだな」


 高田が見下ろしながら嫌味を放つ。小学生の時から変わらない態度だ。昔はこの目が苦手だったが、今では可愛らしく見えていた。


「週末に休むくらいの余裕はあるよ。それとも高田はボクに戻って欲しいの?」

「いらねぇよ。マネージャーの仕事なんざ一年でも出来るんだからよ」

「ユズ以上に働いて、気が利く奴はいないけどな。前の試合の時も、ドリンク持ってくるのが遅いって怒ってただろ。ユズが居たときは一度もなかったのにな」

「そうなんだ。じゃあ高田が頭を下げたら戻るのも考えてもいいよ」

「分かってて言ってるだろ」


 また高田が鼻を鳴らす。


「こんなカマ野郎に誰が頼むか。お前が居たら気色悪くて集中できないんだ。居なくなってせいせいしてるよ」

「お前なぁ……」


 見下しながら言う高田に、雄吾は呆れた表情を見せる。

 雄吾が何か言おうとして口を開く。


「そりゃよかったよ」


 それよりも先に、ボクが発言をした。


「ボクが居なかったら集中できるんなら、次の試合は高田に見つからない場所で応援してるよ。そしたら高田でも活躍できるんだよね」


 高田はムッとした表情をしてから舌打ちする。それと同時に担任が教室に入ってきて、高田は自分の席へと戻っていった。


「悪いな」


 雄吾はそう言って前を向く。ボクは「平気だよ」と雄吾の背中に返した。

 オカマとか、そういう類の言葉には慣れている。小学生の時から言われていたのだ。今更どうってことはない。むしろそんな風にいじめられたことで雄吾と親友になれたのだ。悪い思い出ばかりではなかった。




「あ、猫だ。かわいー」


 給食を食べ終えて友だちと話をしていると、近くの女子がベランダの方を見て言った。ここは三階、猫が易々と来れる場所ではない。ふと気になってベランダを見る。

 案の定、ネネがベランダに居た。ネネはボクと目が合うと顔を上に向けると、そそくさと去っていった。

 ボクは友だちとの会話を打ち切ってその場を離れる。ネネの意図は読めていた。ボクは階段を上がり、四階を過ぎて屋上へと向かう。屋上に出る扉は普段は鍵がかかっているが、今は開いていた。

 屋上に出ると、ネネがボクを待ち構えていた。


「悪いな。急に呼び出して。来ないかと思ってた」

「ネネが呼ぶってことは仕事なんでしょ。行くに決まってるよ」

「いや、けど今日は来ないと思ってたんだ」

「なんで?」

「怒ってるんじゃないかって思ってな」


 そう言えばネネとの別れ際、挑発めいたことを言われていたのだ。それで腹を立ててもいた。

 しかし、そんなことをいつまでも引きずるほど子供ではない。


「気にしなくていいよ。言ってたことは事実だし、仕事に持ち込む気は無いから」

「つまり怒ってたのは確かなんだな」

「どっちでもいいでしょ。それより何で呼び出したの」

「そうだな……」


 ネネは柵の方に歩くと、「見ろ」とボクに言う。ネネが見ているのは、ボクのクラスがある東棟とは向かい側の西棟の方だった。

 近づいて西棟を見下ろす。視界には中庭と西棟の教室が見える。教室には何人かの生徒がいた。


「三階の左から二番目の教室だ」


 ネネに言われた場所に目を向ける。その教室には見知った姿があった。相談者の島村さんだ。彼女は席に座り、一人で本を読んでいた。

 ……一人で?

 島村さんは孤立することを恐れていた。自分の変わった嗜好や趣味を隠して皆と合わせ、孤独にならないように努めていたはず。そんな彼女なら、長い昼休みは友だちと一緒に過ごすのが普通だ。

 しかし、ボクの目には一人でいる彼女の姿が映っていた。あれは見間違いで、島村さんじゃなくて他の生徒なのか? いや、見れば見るほど島村さんにしか見えない。あれは本人だ。じゃあ今日は、友だちが休んでいるから一人なのか?

 じっと観察していると、彼女の下に三人の女子生徒が寄って来た。彼女たちが友だちかと思ったが、どうも様子がおかしかった。

 彼女たちは島村さんを囲むように立っていて、島村さんは少し怯えているような顔をしている。そして彼女たちの一人が、島村さんの椅子を蹴ってニヤニヤと笑っていた。

 何が起こっているのかを理解するには、その光景だけで十分だった。

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