第5話
不思議なことが起こっていた。
汽車の中では、乗客がボクと山木さんのために席を譲ってくれた。駅に降りたら、タクシーの運転手がボクたちを山木さんの家にまでタダで送ってくれた。
まるで王様のような扱いだった。
山木さんは皆の奉仕を当然かのように受けていたが、ボクもそれが当たり前だと感じていた。
家に招かれたボクは、山木さんに勧められてシャワーを浴びる。両親は共働きで夜遅くに帰って来るそうで、それまでは二人きりだ。
山木さんが何を求めているのかが分からないほど、ボクは初心じゃない。着替えが制服しかないこと告げたが、そのままで良いと言ってくれた。優しさに胸が張り裂けそうだった。
ボクがシャワーを終えると、交代で山木さんが浴室に入った。出てくるまでの間、部屋で待つことになった。
部屋で待っている間、山木さんのことを知りたいと思って調べたくなった。見つかったら嫌われるかもしれないと思ったけど、それ以上に知りたいという好奇心が抑えられなかった。
机の中のノート、テレビ台に並べられたDVD、パソコンのデータや検索履歴、本棚のライトノベルや漫画。調べれば調べるほど山木さんのことが分かり、嬉しくなる。
ボクは彼のことを全然知らない。つまりもっと好きになれるということだ。
クローゼットを開けると、衣装ケースやハンガーにかかった服がある。そのうちの一つが、さっきまで山木さんが着ていた制服だ。
ボクは制服を手に取って鼻に当てた。山木さんの匂いが鼻腔を通り、身体中が幸せに満ちた。まるで天国にいるかのような気分だった。
部屋の奥にはベッドがある。制服を抱きながらベッドに寝転んで布団をかぶる。
全身が山木さんに包まれているような感覚に浸る。幸せだ。ずっとここに居たい。
「何をしてる?」
いつのまにか、山木さんは部屋に入ってきていた。愉悦のあまり気づけなかった。ボクはすぐに布団から出た。
山木さんは腰にバスタオルを巻き、上半身は裸だ。これからすることを考えたら正しい格好だ。ボクは服を脱ごうとブラウスのボタンに手を掛ける。
「まだ脱がなくていいよ。後でじっくりと脱がすからさ」
「は、はい……」
山木さんに言われて手を止める。「そんなことより」と山木さんはベッドに座るボクの横に腰を掛ける。
「ベッドで何をしてたの?」
にんまりと笑っている。楽しんでいるようだったが、ボクの顔は熱くなっていた。
「えっと、その……ちょっと眠たかったから……」
「じゃあ今日はもう帰るかい? おれはそれでもかまわないけど」
「……ごめんなさい。本当は匂いを嗅いでました。山木様の匂いを嗅いでると幸せになれたので……」
ボクは枕で顔を隠す。恥ずかしすぎて死にそうだ。
けど山木さんは枕を奪って、ボクの顔をじっと見る。黒真珠のような輝かしい瞳だった。
「大丈夫。そんなことで嫌いにならないさ」
「本当ですか?」
「あぁ。匂いなんていくらでも嗅げばいいさ」
寛容な心だった。安堵のあまり、ボクの顔は緩んでいた。
「ありがとうございます。お優しいのですね」
「いや、そうでもないさ。だってさ……」
山木さんはボクをベッドに押し倒した。
「これからいっぱい君をいじめちゃうんだ。こんなおれが優しいわけないだろ」
ニヤリと笑う山木さん。ボクも同じように笑った。
「いえ、やはり山木さんは優しいお方です」
「ほう? 何でそう思うんだ?」
「だって、今からボクの望みを叶えてくれるからです」
ボクは手を伸ばして山木様を迎える。山木さんはそれに応えて体を近づける。
やっとボクの願いが叶う。全身が幸福に包まれようとしていた。
その直前だった。
「なーにサカってんだよ。未成年」
男の声が聞こえると、山木様は体を起こして振り返る。ボクも声がした方を見た。
部屋には一匹の黒猫がいて、それ以外には誰もいない。どこかに隠れているのか?
「だ、だれだ?! どこから喋ってる! 出てこい!」
「にゃ~? ここにいるだろ。オイラだよ。オイラが喋ったんだよ」
黒猫が口を動かすと同時に声が出る。何で猫が人の言葉を喋ってるの?
「か、賢い猫だと思ったら……。それよりもどうやってこの家に入って来た?! そもそも、どうやってここまでこれたんだ?! お前は汽車に置いてきたはずなのに……」
「猫だからな」
黒猫はドヤ顔で言い切っていて、ボクはその顔にどこか既視感を覚えていた。
ボクは、この猫を知っている?
「やっぱ呪霊にやられてんな。どうりでバッグの中でも強い霊力を感じたわけだ」
黒猫がボクを見て喋っている。呪霊? 霊力? 何の話だろう。
「つーか、学校の外でも呪いを使うなんてなぁ。お前、思っていたより重傷だな。すぐに継音の家に来るなら、今回のことは許してやるぞ」
次に山木さんの方に視線を向ける。山木さんは立ち上がり、額に青筋を立てながら怒鳴り立てる。
「ふざけんな! これはおれの力だ! おれが元々持っていた力だ! なんでそれを消されなきゃならないんだ!」
「ちげーよ。お前は呪われてるんだ。このままいったら破滅するぞ」
「猫が人を語るんじゃねぇ! ペットは大人しく人間様の言うことを聞いてろ!」
「にゃ~。器が小さい男だな。ちょっと嫌なことがあるとすぐに癇癪を起こす。王様は王様でも暗君だな」
山木さんは顔を赤くして猫を蹴り上げる。猫は直前に後ろに跳んで回避し、部屋の片隅に着地した。
「はっ。所詮は畜生だ。そんな逃げ場のないところに自分から移動するなんて、おつむが足りてないんだな」
勝ち誇った顔で山木さんが距離を詰める。猫の後ろは壁で、左右に逃げられるスペースは少ない。山木さんが少し動くだけで止められるほどの狭さだ。
間もなくして捕まえられる。そんな絶望的な状況下でも、猫は平然としていた。
「いんや、ここがちょうど良いんだよ。ここならお前とお前の呪霊だけを相手にできる」
「相手にする? たかが猫がか?」
「そうだ。あと訂正しておく」
ボクは自分の眼を疑った。
「オイラは畜生じゃない。妖怪だ」
猫の尻尾が二つに割れていた。
二つの尻尾はうねうねと独立した動きを見せており、飾りの偽物ではなく本物であることが窺えた。
その姿に、ボクは一つの妖怪を思い出した。
「猫又……」
尻尾を二つ持つ猫の妖怪、猫又。妖怪に詳しくない僕でも知っている有名な妖だ。
妖怪なんて今まで見たこともない。そのはずなのにボクはあまり驚かず、むしろ懐かしさを覚えていた。
「こ、この化け物!」
山木さんは再び蹴り上げる。猫又は真上に高く跳び上がり、壁を蹴って体を捻りながら山木さんの頭上を跳び越え、ボクと山木さんの間に着地する。
着地した瞬間に山木さんが殴りかかるが、「……は?」と目を丸くして静止した。
猫又の体が大きくなっていたからだ。
ついさっきまでは普通の猫の大きさだったが、今は大型犬と同等だ。しかもそのサイズに止まらず、さらに大きくなっている。
巨大化が止まったのは、猫又の体が部屋の天井に着いた時だった。
「さっきの威勢はどうした? 王様」
「っ……」
巨大な猫又を前にして、山木さんは何も言い返さない。これほどの体格差がある相手を前にすれば、さすがの山木さんも手が出せないようだ。
猫又に睨まれて山木さんが動けないでいると、突然猫又が小さくなり始めた。縮小化が馬と同じくらいの大きさで止まると、長い二本の尾がボクに伸びてきて体に絡む。解こうとするがビクともしなかった。
「大人しくしとけ。継音に診せて治してやるから」
猫又は窓を開け、ボクを連れて行こうとする。そのとき「待て」と山木さんが呼び止めた。
「その子は……置いて行け」
山木さんの声は震えていた。猫又に恐れを抱きながらも、ボクを取り戻そうとしていた。
だが猫又は「ダメだ」と断る。
「結弦はオイラたちの仲間だ。連れて帰るに決まってるだろ」
「違う! その子はおれのだ! おれの女だ!」
「いーや、違うね」
猫又はボクを抱えながら窓から出る。
「結弦の人生は結弦のものだ。それは王様でも奪えないんだよ」
そして、高く遠くへと跳び上がった。
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