十一味:風呂上がり
・・・動かない。
倒れた男は、ピクリとも動かない。
動けないまま、観察していると。
さっきまで斎藤から感じていた僅かな、しかし力強い何かの「味」がフゥッと無くなっていって。
「命の・・・『味』・・・?」
ザブン!
風呂の中で、未来は尻餅をついた。
「死、ん、だ・・・?」
浴槽に張られるお湯は、天井の光を反射して煌めいている。
なぜだかそんな瑣末なことか、過剰に意識されるのだ。
サウナの方からドタッ、ドタッと音が聞こえてきて、木で出来た重い扉がバンッと開けられる。
「なんだ今の叫び声は・・・っておい!?」
「斎藤!??」
熱気で赤くなっている顔を、二人して真っ青にして。
倒れる男の側に寄る。
「おい、どういうことだよこれ? 俺たちどうしたら・・・」
「し、素人だから、とりあえず触っちゃダメだよね・・・?」
動揺を隠さないまま、確認するように、未来の顔を覗き込む社会人。そんなこと、一介の高校生に過ぎない彼が知るはずもなく、ただただ曖昧に頷きを返すのが精一杯。
「何が、起こったんだ?」
「分かりません・・・。夜の闇に浸ってたら、急に大きな声がして、振り向いたら・・・」
人の体が、ぶっ倒れた。
「と、とりあえず、従業員の人に伝えてきます」
ザパンと風呂より抜け出して、着替え場に急ぐ。
いつもなら気になる、濡れていることによる寒気も、今の未来にとって慮外に飛んでいる。タオルで体をさっと拭き、パンツとシャツを装備したのち、浴衣を乱暴に羽織る。
スリッパを履き、暖簾の下をバッと突き抜けた途端、誰かとぶつかりそうになった。
「のわっ!?」
「キャッ!??」
即座に体を半身ずらすことで、追突はなんとか避ける。
「っ、すみません、大丈夫ですか!?」
「ええ、平気・・・。主人の叫び声がしたから向かおうと思ったのだけど、何がありましたの?」
この人は、斎藤とかいった社会人の、奥さんだったはず。
そう思い起こす彼は、「旦那さんが、倒れました!」と短く伝えたのち、走って階段へ。色々とごっちゃ混ぜになっている「味」の感覚など、気にする余裕はない。
四階、三階と降りたところで、従業員の人とばったり出くわして。早口でまくし立てる未来。
「人が、浴槽で人が、突然苦しんで! 倒れました!」
「!? なんだって!?? えっと、えぇっと・・・女将さん連れて行きますから! 待ってて!」
緊急事態への対応に慣れていないのだろう、あたふたしながら従業員の男は階下へと走ってゆく。
「はぁ、はぁ・・・」
・・・とりあえず。
とりあえず、目的を達成した未来は。
待っとけと言われたので、事件の起きた風呂場へと戻ることにする。
疲れたからか、階段を昇る足取りは重い。
5階まで漸くたどり着けば、正面に見える休憩所のソファには、受付を済ませた後にラウンジで会った、自分と同世代の少女が座っていた。濡れる髪、上気する肌は、彼女が風呂に入ったばかりであることを示している。
手には、飲みかけのフルーツ牛乳。
取れ立ての新鮮な葡萄のような「味」が、味覚少年の脳に広がる。
ほぉっと、自分の置かれている状況を忘れて。
「これはなかなか・・・」
「あ、さっきの。ねぇ」
流石に鼻の下を伸ばしかけるクール系高校生男子に対して、話しかける少女。
「男子風呂から叫び声が聞こえてきて、一緒に風呂に入っていたおばさんが急いでバタバタ出て行ったのですが、いったい何が?」
知ってますか?
小首を傾げ、尋ねる彼女の雰囲気には、どこか。
泣きそうになる。・・・未練だ。
言い聞かせ、努めて冷静に受け答えようとする未来。
「斎藤という名の男が、急に大きな声で叫んだと思ったら・・・倒れて・・・」
語ってしまうと、どうしても場面は頭の中で再生される。
斎藤の体から、スゥッと何かの「味」が消えていくところはどうしても、未来の顔から血の気を引かせる。
「そう。間近に見ていたのですね。私なら、二時間くらいは気絶していたかも」
沈痛な面持ちで語られる言葉は、未来を気遣うもので、この状況には確かに即しているものだったが。
彼は、なんとなしの違和感を覚えた。
倒れた、としか伝えてないにしては、少し返しがオーバーではないかと。
訝しまれていることなど気にかけずに、ゆったり静かに牛乳瓶を傾けて、残りのフルーツ牛乳を飲み干した少女。
「あ、瓶片付けようか?」
「いいのですか? お願いします」
いつも通りの足取りで、自販機横の瓶回収ボックスに、
横田ならこの段階で昇天していたに違いない。
俺は大丈夫だが。
と、密かなマウンティングをしてみた。
すると、目前の少女はクスリと笑い。
「意外と、子どもっぽいですね」
「・・・え?」
疑問符を呈すや否や、男湯の暖簾がバサバサ揺れる。
出てきたのは、項垂れる二人の男と、一人の女。
「・・・あなた」
押し殺すような声が聞こえてきたかと思えば、女・・・斎藤の妻が、膝を崩して目を押さえつけ。
大声で、泣き始める。
「あ、あ、あ、どうしてえぇぇぇぇ!???」
「落ち着いてください
「お気持ちは分かりますが・・・」
察する。
やはり、あの斎藤という男は死んだのだと。
必死になって、夫に先立たれた奥さんを宥め賺す男二人。
彼らも悲しいだろうが、自分たちより遥かに悲嘆に暮れているはずの女性を慮って、気丈なフリをしているのか。しかしその顔は、如実に受けた精神的なショックを隠しきれてはいないのだから、心中は察して余りある。
普通なら、同情の一つでもして涙でも流すべきシーンのはず。
だというのになぜか、どこか茶番のような「味」がして。自分という人間の底の浅さに反吐が出そうになる未来だったが。
ふと。キツいエグ「味」を横から感じて、反射的に視線を向けると、少女が鋭い目で大人の集団を睨んでいた。
「・・・? どうしたんだ?」
「来てください」
バッとソファより立ち上がり、未来の手をガッと掴む彼女は、なんと。
遺体の置かれる男湯の中へと、入り口に固まって悲壮な雰囲気を漂わせる社会人に割り込みながら、ドカドカ侵入していったのだった。
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