九味:スマホ黎明期


「・・・なんてところに来てしまったんだ」


 自らの来た道を恨めしそうに睨みつけながら、未来は疲れる足を止めた。

 すぐさま出る、驚きと呆れ、また小粒ほどの慄きも混じった声。

 首と視線をふらふるふら、辺りを確認するために彷徨わせてみれば。


 暗闇の中の木々と、漆黒に包まれる田んぼは、昼間のそれとは一「味」も二「味」も違う。

 見上げると、綺麗な星空。


 なんと美しい「味」わいだろうか。


 全てをかなぐり捨てても魅入られたくなってしまうような、自分の住む半都会ではあり得ない景色。


「現実ではそういう訳にもいかない」


 L◯Eはないか、と溜息をきながらスマートフォンをポケットにしまう。

 このままでは夜空の下で野宿する羽目になる「味覚少年」は、感覚、主に味覚を用いながら宿泊出来る場所を探索し始める。

 周囲の様相、その全てが未来の好みの「味」とは言えず、嫌な信号が脳にグダグダ流れ込んでくるたび、彼はこんなところにやってきたことを後悔した。


 だが、来てしまったものは仕方がない。


 人を抹消出来るらしい男の存在に不安と恐怖とストレスを抱えながら株価のような不安定な動きをし、いつの間にかここにいたのは自分である。

 チカチカ光を夜空にまぶす星たちのその姿には、まるで未来の愚行をくすくすと笑っている「味」が感ぜられる。腹が立った未来は、靴底を地面にこすりつけた。

 そうしたところで、宿は向こうからやってきたりはしない。


「宿、宿、宿・・・」


 割と凄まじい危機感から、こうやって寝床を探している時間はあの超常存在のことも、「九堂智文」と前首相の消滅も忘れている未来。


 幸福なのかそうでないのか。


 ここで、旅館の「味」という概念としてよく分からないものを彼は捉えた。

 「味」の案内のまま歩いていけば、上を指し示す矢印と300m、また「宿あります」という字の添えられた古びた看板を発見する。目の前にそびえ立つのは、黒々とした山。

 森の木々により覆われた石の不恰好な階段が、看板の横より密かに山の上に続いている。


「暗くてこけそうだな」


 一段一段慎重に上がっていくと、弱々しく降ってくる人工的な木漏れ明かり。

 なんらかの建物があるのか間違いないと確信しながら、油断してこけかけた。


「疲れてる・・・」


 げんなりして呟きながら、登り切ったその先にあるものを観察する。

 五階建ての木造建築。

 ちんまりした駐車場。

 そこに止まるのは、二台の自動車。


「まさか人が泊まっているとは」


 後ろに落ちていく石段は、はっきり言って客を惹きつけそうには見えない。車が止まっているということは、どこかで道路にでも繋がっているというのだろうか、この宿は。

 暗いのと、あと木々で見えないが。


「ま、入ってみるか」


 特に気負ったところもなく、未来は上空からなら「く」の字に曲がっているのが分かるであろう建物に入ってゆく。入り口は、セルフのスライド式だった。


「中は意外と、綺麗だな・・・」

「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」


 正面から声がしたので、未来は反射的に会釈する。

 向こうも会釈を返した。


「泊まれますか? 予約とかしてませんが・・・」

「大丈夫ですよ、部屋もたくさん空いてますので」


 喋りながら受付の方に歩いてゆく未来に対し、対応する四十代ほどの女性はうんうん頷く。


「じゃあチェックインしようかな。一泊でお願いします」

「お支払いは現金かクレジットカード、どちらに致しますか?」

「・・・クレジットで」


 ほんの一瞬、逡巡してから答える。

 今までは、クレジットカードを持っているにも関わらずずっと現金を使っていた。その方が、足はつかないから。

 否、あの男がクレジットカードの購買記録から自分の足跡を辿ることが出来るとは到底思えないのだが。だというに、未来は今までカードを使って支払うのを無意識に避けていた。


 なぜだろうか。

 内心で、首を傾げる。


 あの化け物には名前をバラしてない、と高を括って本名・嘘のない住所を記入し、「308号室です」と渡された鍵をポケットに入れた。そのまま右に見える階段に赴けば、さらにその右方向にはロビーともいうべき空間が広がっており。


 柔らかそうなソファーに、一人でポツンと腰掛ける、未来と同い年ほどの少女。


 普段なら、見知らぬ人間にはあまり近寄らない彼だが。

 なぜだか彼女には、得体の知れない、しかしずっと自分の側にでも潜んでいたかのような、据えた特異性を感じてしまって。

 階段行きの足を不意に止め、彼女に近づく。



 少女も、「味覚少年」に対し振り向いた。

 交錯する、二人の視線。

 数秒ほど固まって。どうしてか、二人には理由は分からなかったが。



「・・・ナンパですか?」

「・・・さぁ? 違うのでは?」

「言い切らないのですね、曖昧ですね、残念です。あなた、私の好みなのに」


 苦笑する未来に目を向けながら、立ち上がる少女。


「好みで、優しくて、心地よいくらいなのに」


 小さいが、響くような声音でそう呟いた後に、彼女は階段へと向かう。


「・・・優しくて、心地よい?」


 初対面かつ僅かな言葉しか交わしていないのに、どうしてそんな評価を自分に下せたのか理解出来ない未来は。

 顎に手を当て釈然とせぬまま、少女の後ろ姿を見送った。

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