二味:幼馴染の豹変


 未来は常日頃から、時間に余裕を持って通学するようにしている。

 故に、電車に一本乗り遅れたところで、遅刻などということにはならないはずだが。


 学校の最寄駅、ICカードで改札をスルリと通り抜けた彼は、校門へと繋がる坂道を一目散に駆け上がり。五月の初め、まだ涼しい季節とは言え、全力ダッシュは体を火照らせる。

 門をくぐり校舎に入り、下駄箱に靴を乱暴に突っ込み。

 足の甲を抑えるゴム帯が捲れるのも気にしないまま、廊下すらも突き進んだ。


「はぁ、はぁ・・・」


 教室に着く頃には、学生服の首回りをほんのりと湿らせていた。


 ガラガラ! と勢いよく扉をスライドさせる。

 すでに八時も、十五分を回っていた。クラスメイトもそれなりに揃っており、全員の視線が一斉に未来へと集まる。


「どうした北海。そんなに急いでも、明日からの連休は早まったりしないぜ?」


 したり顔でさも上手いことを言ったと言わんばかりの横田健介は、未来ともよく喋る気の置けない友人だ。

 横田の冗談にクラスメイトたちは生暖かい笑みを浮かべて、中断された会話や作業に舞い戻っていく。


「もうちょっと反応してくれてもいいのに」

「すまん、今は冗談に付き合っている余裕はない」


 自らの小さな願望を一蹴する未来に、悲しげな目を送る横田少年。


「もうちょっとキャラを生かしたリプライをした方がいいと、この横田めは具申いたします『味覚少年』様」

「黙ってろ。九堂はいるか?」


 焦りの「味」と、パニックの「味」。

 珍しいことに、たった二つの「味」で占められている未来の感覚野。

 切羽詰まった友人の様子に気圧されたか、横田はおずおず、コクコクと頷き。


「あ、ああ。さっき教室に入ってきたはずだ・・・隅で本読んでるな」


 窓際の、一番後ろにある席。

 座る九堂はただ黙々と、小説を読んでいる。


「おかしいな。あそこ俺の席じゃないか。あいつが他人の席に居座るなんて」


 見たことがない。

 と続けようとした未来だが。


「いつものことだろ? 九堂がお前の机で読書してることなんて」

「・・・は?」


 焦りとパニックに、困惑の「味」が混ざる。

 横田の言葉は、あまりに事実と異なっている、と。


「照れ隠しは止せよ、男のそれは見苦しい。おぉい九堂! 愛しのお兄様が来たぞ!!」



 愛しの、お兄様?


 なんだそれは、九堂から見た俺のことか?



 それこそ何かの冗談だろう、と未来は当惑を隠せない。


 横田に呼ばれた九堂は、背筋をピンと伸ばして嬉しそうに微笑む。読んでいた小説を放り出し、机の上を上靴で踏んでまで直線リニアに走ってきた。


「とう」


 佐藤の机を足蹴にし、ふわりと宙に舞い上がって。

 ストンと、未来の前に落ちる。


「・・・甘酸っぱい、『味』だな。パンツ見えるぞ」

「大丈夫、お兄ちゃんにしか見えないようにスカートの動きは計算されているので」

「どんな微分方程式を解けばそんな計算可能なんだ」


 高校生らしくもない言い回しをしながら、彼は。



 誰だ、今目の前にいる九堂は?



 「九堂だ」、としか答えられない倒錯した疑問を抱く。


 勝森高校のクールビューティ。


 未来の記憶に残る彼女は、それ以外の何者でもなかった。

 恒に凛とし、常にシャンとし、恒常的にストイック。

 十年来の幼馴染である未来には時たま弱々しい本音を晒していても、他の生徒の前では、いや未来以外の人間の前ではその凛々しい姿勢を崩してしまったことはないはずなのだ。


 が、今の彼女の有様は、明らかにこれまでと異なっていた。


 読書の姿勢はお世辞にもいいとは言えなかったし、微笑みだけで「嬉しそうだ」と思えるほど感情の発露をしていた。机の上を歩き回るなんて、いつもの九堂なら注意し、咎めるほどの痴態である。


 何より。


「ところで、『お兄ちゃん』ってのは、どういうことだ?」

「? いつも呼んでるじゃない」


 記憶にございません。

 本日二度目の政治家:北海きたみ未来。


「どうした北海。今日なんか変だぞ? 熱でもあるのか?」

「黙れ横田。九堂、お前は本当に『九堂智音ともね』なんだな?」

「当たり前でしょお兄ちゃん」

「俺とは十年来の腐れ縁?」

「そうよ。どうしたの、今日? 横山君の言う通り、今日おかしいよ」

「俺はどこの巨匠だ」


 小首を傾げて、心配そうに聞いてくる九堂。

 おかしいのはどっちだと、喉まで出かかる文句を内に押し込める。


 すべての仕草が、未来の信じるオリジナルの「九堂智音」と微妙に、または大きく異なっている。


 同姓同名で同じ顔の、別人にしか考えられない。

 ゴクリとツバを飲み下し、次なる言葉を投げかける。



「お前の父親は、『九堂智文』という名前で合ってるよな・・・」

「え・・・?」



 核心たる質問。


「今日あの人が駅にいなかったのは、仕事が休みなのか。それとも風邪でも引いたのか・・・?」


 舌のすべてを、緊張感の「味」が覆う。



 休みだよ、風邪ひいて家で寝込んでいるよ。

 事もなげに、そう答えてくれやしまいか。

 頼む。

 であれば、今朝から背負うすべての心労が杞憂で済むのだ。

 ただ俺の頭が、パッパラパーなだけということで終わる。


 お前の豹変も、イメチェンしたのだなと受け入れるから。



 天に向かって只管ひたすら祈る未来。

 だが。


「『九堂智文』って、誰?」


 彼女は傾げる首をさらに傾け、さも当然のことのように自らの父を誰何した。


「なっ・・・!?」

「知ってるでしょ。私の家は、シングルマザー。父さんはいない。でも」


 九堂智音は、大きな瞳で未来を見つめる。

 頬は上気し、赤くなっている。


「強いて父のような存在を挙げるなら、お兄ちゃんのお父さんよ。お兄ちゃん」


 未来の片手を取り、赤い頬へと持ち上げ擦り寄る少女。


「お兄ちゃんに助けられて、北海の家に支援されてきたからね。私もこの高校に来れた。ホント、感謝してるのだから」


 チュッと手の甲に軽くキスし、同時に八時二十五分の予鈴が響き渡る。


 今度こそ自分の席に戻る幼馴染を呆然と見送る、精神的衝撃に揺れる未来。

 入ってきた担任教師に名簿でコツコツ促され、心ここにあらずといったていでありながらもどうにか着席した。



 登場人物が一人だけいない別世界にでも迷い込んだようだと、軽く目眩を覚えながら。

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