三味:異世界なんてない


 時刻は正午。

 四限目も後半に差し掛かる頃。


 哲学者でもあり数学者でもあるバートランド・ラッセルが提唱した「世界五分前仮説」について、英語の授業を受けながら思案する未来。


 連綿と続いてきているように見えるこの世界も、実は神様が五分前に創造したものであり。

 記憶も何もかも、すべてが歴史というものの存在を誤認させるためのフェイクなのだと。


 くだらない。

 何の冗談だ。


 そう吐き捨てたい自分がいる一方。

 「そうでないことを証明するのは、難しい」という誰かの言葉に対して、確かになるほどなと、納得している自分もいる。


 三行三列右前に座る幼馴染:九堂智音の背中を見ながら、未来はぼんやりペン回しした。



 朝起きた世界は、景色も登場人物も、どこもかしこも昨日と同じであったとしても。

 昨日いた世界と同じであると、別世界にいるのではないと、いったい誰が証明出来るだろうか。



 況してや。



 登場人物が一人完全にいない世界だなんて、もう「別世界である」と完全に、完璧に言い切ってしまってもいいのではないか。


 未来は、言葉の綾と思考の罠に陥りかける。

 あまりにも非論理的な帰結であると、溜息をきながら机に突っ伏した。



「おーい北海きたみさんやーい、授業ちゃんと聴いてるのか〜? 可愛い幼馴染に見惚れてるんじゃないぞぉ」


 頭上から、教師の揶揄が降りかかる。


「よっ、『お兄ちゃん』!」

「羨ましい! さっさとくっついちまえ!」

「クソやろー! 青春は何『味』ですか!!?」


「うるさいぞ」


 クスクス笑う周囲を睨み、静かに一喝。

 ニタニタ顏のクラスメイトに混じって、英語の教科書「Crowdn」に顔を埋めもじもじと恥ずかしそうな九堂の姿。


 ・・・違う。

 あいつはこういう時も、毅然として「授業に集中しなさい」と反応を返す、はずなんだ。


 噛み合わない。


 表情筋が、不機嫌に歪む。


「おおっと、ごめんて。教育委員会が茶化しで済ませてくれるうちに授業に戻るぞ。じゃあ北海、『不幸なことに、エムージェは外見によって知人から悪い方向に誤解されてしまっていた』を英訳しろ」


 ニヤッとする英語教師。


 聞いてなかったろ?

 答えられんだろ?

 そういうオーラの「味」がする。


「忌々しくて腹立たしい教師だ」

「うん? 答えられない負け惜しみか? え?」


 教師たるもの、生徒の挑発如きで余裕を崩すことはない。

 ビクビクして平身低頭状態になるのは、保護者のクレームに対応する時だけ。


 ふっ、といつもの澄ました顔つきを取り戻す未来。

 ほぅと赤面する女子たちに対して、英語教師は舌打ちした。


 未来は大きく深呼吸して。


「Unfortunately, Ms. Emugea’s appearance has made the acquaintances misunderstand her in the wrong direction.」


 一息で詰まることなく、綺麗な声と発音で。

 英語の一文を、駆け抜ける。


 おおっと歓声どよめき、拍手が教室に鳴り響いた。

 同時に四時間目の終了を知らせるチャイムが、キンコンカンコンと。


「ちくしょ〜!! 俺とお前で何が違うっていうんだ〜!」


 終わりの挨拶を日直に促すことなく、英語教師は捨て台詞を残し職員室へと逃げ帰って行った。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 昼休み、そして五限六限と時間は過ぎ去って。

 今日のカリキュラムをすべてこなした高校生は、ワイワイガヤガヤと帰路に着く。


「やっと終わった! さらに明日からゴールデンウィィィィィィィィクゥ!」

「ハイテンションだな横田。不快な『味』の声で叫ぶのはやめるんだ」

「ひでえぞ『味覚少年』!!?」


 校門を出る辺りで、横田は仰け反った。


「あ、『味覚少年』だ」

「こんちゃーす!」


 未来のことを知っていると思しき後輩たちが挨拶をかけてくるが、未来自身は彼らのことを知らない。


「よっす」

「お兄ちゃん、すっかり有名人だね」


 ああ。

 その辺は、「九堂智文」がいなくなる前も後も変わっていない。


 苦笑しながら、自分にピトリとくっついて離れない、変わってしまった九堂に意識をやった。

 本当に、「甘酸っぱい」。


「有名になるのも仕方ない。世の如何なるものにも『味』を感じると宣う、特異な男だ。それでいて成績優秀運動神経抜群、しかもハンサムとくるのだから」

「おま、自分で言うか!??」


 またもや仰け反る横田。

 いちゃいちゃカップルにしか見えない未来と九堂を、半目で睨む。


「くそ、女の子にそんなに好かれやがって! さっさと早逝しろ」

「ひでえぞ横田少年」


 くっくっくと笑いながら、未来は先ほどの意趣返しをしてやった。


「ったく。・・・それにしても、はあ。未だに驚きなのは、コミュニケーションとブラインド・ウォークという難しそうな横文字を同時並行的にやってることなんだよな」


 「味」に振り回されたくない未来はやはり、瞑目しながら歩いていた。


「練習したら誰でも可能さ」

「なわけあるかい」


 下りの坂道を足取り軽く進む三人は、駅前およそ二十メートル。

 横田は自宅が反対方向にあるため、改札を過ぎればお別れとなる。


「他にも勉強しかり運動しかり。どうやったらそんなに出来るようになるんだよ。あ、この前webの無料小説読んだんだけどさ。俺も異世界とか行ったらチートとかもらえるのかなぁ」

「異世界なんかあるわけないでしょ、横領くん」

「その間違え方は酷くない!?」


 ゴールデンウィーク前だからか、改札を妙に丁寧に抜けていく名も知らぬ学生の後を追いかけて。

 情けない叫びとともに、横田は反対側の構内に続く階段へと消えてゆく。


「異世界なんてない、か・・・」

「どうしたのお兄ちゃん」

「なんでもない」


 異世界。

 別世界。


 呼び方が違うだけで、まあ同じものだろう。

 少々ロマンチストの気がある未来は、その存在を頭ごなしに否定したいとは思わない。

 俗に言う「アナザーワールド」くらい、あってもいいじゃないかという願望は抱いているのだ。


 さすがに、世界が五分前に創られたというのは信じたくないけれども。


 しかし九堂の考えどおり、もし別世界など存在せず、昨日までいた世界とここは同じだっていうならば。




 人の存在を抹消出来る、物語の神のような何かがいるってことになる。




 それこそ、別世界よりもありえない。


「ねえお兄ちゃん。明日一緒に登校しない」

「明日から休日だろ」

「あ、そうだった。今年のゴールデンウィーク初日ってなんの日だっけ」

「憲法記念日」


 ・・・しっかりしてくれ、お前が抜けてたら調子が狂う。

 薄らと目を開けた。

 膨大な「味」の波、と。


 どこまでも違う、しかし姿形は全く変わらない九堂。



 ーーー姿形は、全く変わらないーーー。



「・・・いや、ちょっと待てよ・・・・・・っ」


 自身の脳を蝕む「味」のことなど気にせず、未来は目を見開いた。


 もしかして。

 そんなことが。


 ガタンゴトンとやってきた電車に、乗り込みながら。


 九堂に近づき、その面貌をまじまじと観察し始める。


 不変の日常に、ケチつけられるところがないか。

 隈なく探すように。


「ね、ねぇこんなところで・・・近いよ・・・」


 さっと身を離す女に。

 ぐっと近づく男。


 反対側の閉まっている扉へと、押し込める形になる。


「お兄ちゃんどうして、今になって急に・・・」

「九堂」

「ひゃひゃい!?」


 呼びかけた未来の、続く言葉を待つ少女。

 ゆっくり開く、彼の口から出てきた言葉は。



「やっぱりお前が智文さんのこと覚えてないのは、おかしい・・・!」

「・・・え? その人って朝聞いてきた・・・・・・」



 九堂智音にはその面影が、しっかりはっきりと残っている。

 それはこの世界に、「九堂智文」という男が存在していた証ではないか。


 同じ母親でも相手が違えば、当然違う子供が生まれるだろう。


 「九堂智文」がいなければ、目の前の幼馴染がこの世に生を受けているはず、ないじゃないか!



「・・・どうしてあの人が、少なくとも俺と、九堂の記憶から消えているんだ・・・?」


 口元を手で押さえる未来。

 最初から「九堂智文」のいない別世界の説が消え、再び疑問が鎌首をもたげ。

 朝に感じた焦りが不安がパニックが、蘇る。


「覚えてないし、聞いたこともないよ。朝からどうしたのホント」


 心配してくれる九堂のことなど気にも止めないまま、未来は挙動不審気味に視線を彷徨わせた。


 「味」よ、もっと来い。

 この不安を紛らわせてくれと、いつもと真逆の考えに囚われながら。


 なのに。


「お、い、九堂・・・・・・」

「なーに、お兄ちゃん」


 子供のように頬を膨らませ、ただただ拗ねているだけの九堂とは対照的に。

 進む電車の天井に飾られる、政治家の汚職を派手に宣伝する雑誌の広告を凝視する、冷や汗塗れの未来。


「!? 体調かなり悪そうよ! しんどかったりする!??」

「いつだ」


 走る動揺に瞳孔を震わせ、それでも一点を見つめる未来の視線の、先には。


 いつもの通り・・・・・・閣僚級の大物たちの収賄疑惑などが載ってる広告。

 首相の悪名も、デカデカと描かれている。


 毎日毎日朝のニュースをチェックしている未来は、今日も昨日も一昨日も、彼が首相であることを一切疑問も持たずに受け入れていたのだが。


「いつ、前の人から今の人になった・・・・・・」

「?」


 前代首相について。

 任期満了した記憶も、総辞職した記憶も、政権交代の憂き目にあっていた記憶もない。


 にもかかわらず。


 今の今まで、未来は彼のことをすっぱり忘れており。

 さらに国民全体も、全く気づくことはなく。



 いつの間にか日本の首相の席に座る者は。

 入れ替わって、いた。

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