わすれじの酒場

ナオト

バレンタインはお茶漬けと共に

「もうしんどいんで帰るわ……」

「なんだなんだ俊輔、付き合い悪いな!」

「あと何時間後かには会えるだろ。おやすみ」

 ジョッキと取り皿が散乱する隙間に、だいたいの飲み代を置き、コートとマフラーを手に取った。泥酔したうちの一人が足に絡み付くもかわし、個室を後にする。上機嫌の同期が大声で笑うのを背中で聞きながら、居酒屋の扉を後ろ手に閉めた。

 外は骨も凍える寒さで、終電をとっくに逃した真冬の新橋の空は、月も星も見えない。充分お付き合いしているだろうと、酒臭いため息が白く濁る。

(さて、タクシーは……と)

 細い路地から通りに出て、ぼんやり流れてくるタクシーを待った。いつもは何かしら拾えるはずだったが、今日に限って一台も通らない。平日なのに不思議だった。何かイベントの日だっただろうか。

(明日――いやもう今日か、確かにバレンタインだけど、関係ないだろうし)

 それは自分にとっても特別な日。ただ、良い意味ではなかった。


 ――気が利いたのは、プロポーズの時だけね――


 一年前のバレンタインデー。自分達の結婚記念日に妻、愛梨から三行半を叩きつけられた。文字通り、頬にだ。同じ北欧の家具販売会社で、営業に打ち込む姿に惹かれ、向こうも同じく思ってくれた。

 結果、交際を始めるのに時間はかからなかった。無事バレンタインに指輪と花束を渡し、めでたくゴールイン。なんとか三十路半ばで最良のパートナーを得たと、その時は有頂天だった。

 愛梨は流行りのバリキャリ女子というやつで、お互い忙しく、いつしかプレゼントや記念日などは平気で無視し、家事も押し付けあって家庭を疎かにした。すれ違いの積み重ねが溝を深め、修復不可能だと悟った時には遅く、皮肉にもバレンタインに終止符が打たれた。

 その後、愛梨は退職、今どうしているかもわからずにいる。どこにでもある、仕事命の男が辿ったよくある末路だった。

(もう一年前になるのか。長いような、短いような……よくわからないや)

 やっと通った車がトラックだった事に肩を落とし、いよいよ寒さに耐えきれなくなってきた。

「駅まで歩いた方がいいのかなあ」

 思わず独り言をこぼしてしまう。それほど寒く、痛みを感じる冷たい風だった。足取り重く駅に向かい、より大きな通りを目指した。と――

(あれ、どこだここ)

 駅前に出たはずが、寂れた飲み屋街に出てしまった。随分飲み過ぎたのか、方向感覚まで失ってしまったらしい。赤い提灯の朧気な光のなか、どの店も真っ暗で、一つだけ明かりがついた店がある。

「わすれじの酒場……」

 古い暖簾には手書き文字でそう書かれていた。おふくろの味がウリの店なのだろうか。そういえば、給食みたいなメニューの居酒屋があると聞いたことがある。その類いかもしれない。

 どちらにせよ寒さで限界を越えた体が悲鳴を上げている。何か温かいものを頼んで、その間にタクシーを呼んで貰おうか。

 そう思い、暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ」

 店主はにこやかに俊輔を迎えた。年は六十過ぎくらい、眼鏡をかけた優しげな白髪の男だ。紺色の作務衣が渋くとても似合う。店内はそれほど狭くも広くもなく、テーブル席とカウンター席が数席の、木目調の落ち着く内装だった。なによりよく暖まっているのが嬉しい。

「寒かったでしょう、こちらどうぞ」

 なんとなく一人だからとカウンターに腰かけた俊輔に、温かいおしぼりが手渡された。指先からじんわり伝わる熱がこの上なくありがたい。

 温かい番茶も出してくれたので、まずはそれを飲んで落ち着く。やっと全身に血が通い始めた。

 空になった湯飲みに、店主が番茶のおかわりを急須からついでくれる。

「ご注文、お決まりでしたらお伺い致します」

「えっと……お品書きとかありますか」

「なんでも、お好きなものを仰って下さい」

「なんでも?」

「ええ」

 俊輔は困ってしまった。値段がわからないのは少し不安だ。時価だったらどうしよう、もうそんなに財布に残ってないのに――、そんな顔をしていたのか、店主は吹き出した。

「うちは居酒屋ですから、そんなお高いものはお出ししませんよ」

「ああ、すみません。以前季節の魚を頼んだら、飛び上がる値段だったもので、つい」

「それは災難でしたねえ」

 心を読まれて俊輔は少し恥ずかしかった。まあ、これならどきどきせずに済むだろうと、リクエストしてみた。

「お茶漬け、ありますか」

「はい、お茶漬けですね。ありますよ」

 かしこまりました、と、軽く返事をして店主が奥に消えた。かと思うと、すぐにお盆を持って現れたので、さすがに驚いてしまう。

「もうできたんですか」

「はい、熱いうちにどうぞ」

 目の前に置かれた丼に、言葉を失う。控えめなご飯にとろろ昆布と鰹節、白ごまを散らした、だし汁仕立てのお茶漬け。忘れもしない、飲み会で遅くなった俊輔に、愛梨が出してくれた定番だった。

「どう、して……」

「いやあ、なんとなくお客様には、この味が一番欲しいかなって思いまして」

 片目を瞑る仕草があやしいものの、お茶漬けはちゃんとした本物のようだ。一瞬、愛梨の祖父か父かと思ったが、料理人だとは聞いたことがない。

 戸惑っていると視線で促され、恐る恐る一口啜ってみた。

(間違いない、あの懐かしい味だ)

 たまらず俊輔は夢中になってかきこんだ。だし汁のしっかりした風味、ごまの香ばしさが鼻を抜ける。ご飯も柔らかすぎずちょうどいい。料亭に負けない味わいだった。

(お店に出してお金を取ったら、なんて冗談言ってたなあよく)

「当たり前でしょ、料亭でバイトしてたんだから」

 愛梨が嬉しそうに笑っている。これには俊輔も口をぱくぱくさせるしかなかった。なんとか言葉を紡ぐ。

「愛……梨、……なのか」

「そうだけど。酔ってる?」

 別れたはずの妻が今、目の前にいた。二人で住んだマンションのリビング、そこに俊輔はいる。今は自分一人で住んでいるはずなのに。何もかも当時のままで、今はない愛梨の持ち物もあった。

(一体何が……? 居酒屋にいたんじゃ……酔って寝てるのか、俺は)

 だとしたらこれは夢に違いないだろう。先ほどの茶漬けの美味しさと温かさに睡魔が降りてきたのだ。今日も仕事なのに寝ている場合ではない。そもそもタクシーを呼んでもらっていないのだ。なんとか起きなければと、頬をつねった。

「あたた、痛い」

「ちょっと何やってんの!」

 愛梨が慌てて冷凍庫から氷を出し、頬に当ててくれた。その感覚も感触も、夢とは思えない。現に今、頬が冷たいからだ。

「よくできた夢だなあ」

「はいはい、そうですねー」

 呆れながらも冷してくれる手に、己の手を添えた。叶うはずのない温もりが、夢でも嬉しかった。愛梨はというと、怪訝そうにこちらを見つめている。まっすぐには見ることが出来なくて、俊輔はうつむいた。

「多分夢だと思うからさ、今更すぎるけど言うね」

「え……」

「ハッピーバレンタイン。あと、結婚記念日おめでとう。プレゼントがなくて、格好つかないけど」

 ずっと言えなかった言葉が口をついて出た。酒と茶漬けの力を借りてでも、なんでもよかった。離婚を言い渡されたあの日、本当はこれだけでも伝えたかったのだ。もっとやり直したいと頑張ればよかった。諦めなければよかったのに、投げ出して後悔して、もう二度と戻れない。

 そっと視線をあげると、愛梨がはらはらと涙を流している。

(なんて慰めたらいいんだ――頭が、ぼんやりする)

 愛梨は、何か答えたように見えたが、耳が遠くなったように小さくて聞こえない。

(待ってくれ、何を言ってた?)

 聞き返したくても、口も動かせないくらい眠い。瞼がとんでもなく重いのだ。ほどなくして、意識が途切れた。


 何か叫ぶ声が聞こえる。遠くから名前を呼ばれて、体も激しく揺すられ、若干気持ち悪い。やっぱり飲み過ぎた、だからあんな夢を見たのだ。あんな夢とはどんな夢だっただろうか。薄く瞼を開けると、愛梨が必死に俊輔を揺さぶっている。

(そうそう、目の前に彼女がいた夢だった)

「……まだ続いてるのか、長い夢だなあ」

「いい加減起きろ!」

「へぶし!」

 往復ビンタでやっと目が覚めた。見慣れた自宅マンションのエントランス前、俊輔は大の字で転がっている。見上げると昇りたての朝日が愛梨の顔を照らして、目を凝らすまでもなかった。もちろん、ビンタも彼女がしたのだろう。久しぶりに懐かしい痛みを受けた。

「玄関先で寝てるから、死んでるかと思ったじゃない!」

「はは……ごめん。飲み過ぎたみたいでさ。ひとつ聞いてもいいかな、本物? それともまだ夢だった?」

「寝ぼけてるのね。本物です」

「本物の愛梨さん、どうしてここに?」

「……あなたの夢をみたの。具合悪そうにしてたから、心配になって。でも、損したわ。所詮夢は夢だった」

 バカみたいでしょ、と、愛梨は自嘲気味に苦笑する。取り越し苦労をさせて申し訳なかったが、今こそチャンスだ。俊輔の勘が全身で訴えている。喉に詰まりそうになりながら、声を押し出した。

「ハッピーバレンタイン!」

「……は?」

「だから、バレンタインだって」

 結婚記念日のほうはもう別れているから、それを言えるほど厚かましくもなかった。これだけでも勇気を振り絞ったが、駄目だっただろうか。愛梨は呆気にとられて動けないように見える。

「……っふ、ふふ、あはは!」

 愛梨が突然笑いだしたので、今度は俊輔が固まってしまった。そんなにおかしかっただろうか。本当に、修復はもう望めないかもしれない。絶望に目の前が暗くなって、余計気分が悪くなる。

「あー……おかしい。先を越されちゃった」

 驚いた事にはい、と、愛梨の鞄から出てきたのは、小さな包みだった。俊輔でも知っている高級チョコレートブランドのものだ。目を丸くしていると、ほら、と、手に握らされる。

「ハッピーバレンタイン。私はちゃんと品物も用意してるよ」

「……本当に本物? まだ夢?」

「つねってあげましょうか」

「いやいやいや、やめとく」

「はあ……元々これ、こっそりポストにでも入れて帰るつもりだったの。でも、玄関で倒れてるし、ほっとけないじゃない。あーあ、会うつもりなかったのに」

 それじゃ、と、立ち上がる愛梨のコートの裾を慌てて掴んだ。まだ話は終わっていない。なんとか繋げなくては。

「今日、仕事なるべく定時で上がるから、夕食に行かないか」

「なーに、デートのお誘い? 言っとくけどしばらく旦那も彼氏もお断りよ」

「うっ……そこを何とか」

「でも――そうね、古い友人の頼みなら断れないな。ねえ、オトモダチの俊輔くん?」

「!」

 愛梨から差し伸べられた手を握り、俊輔は勢いをつけて立ち上がる。視界が開けて、空がすっかり明るくなっている事に気づいた。今、そういえば何時だろう。腕時計は午前七時を指していた。

「わっ! 仕事遅刻する!」

「相変わらず仕事命なのねー、まあいいわ」

 愛梨が懐から名刺を取り出し、俊輔が持っていたチョコレートのリボンかけに挟む。肩書きはフリーのフードコーディネーターになっていた。

「連絡先、渡しておくわ。――フリーになって、私も視野が広がった。あなたも成長したか、話聞かせてよ」

「ありがとう! ……俺も前ばかり見て、横の君を見てなかった。今度はエスコート任せて」

「そんなの期待してない」

「ぐっ」

「期待してないけど、お店は任せていい?」

「もちろん! だって俺は友人だからね。また一から君に好きになって貰わなきゃ」

「真面目ね……まあ、だから一緒になったんだけど」

 可笑しそうに笑う愛梨の表情に、もう先ほどまでの皮肉を込めた笑みはなかった。

(そうだ、昨日の居酒屋にしよう。マスターにお礼も言いたいし。どう辿り着いたか覚えてないけど、新橋の飲み屋ってのはわかってるから)

 そこまで考えて、はっと気がついた。代金を支払った記憶がまるでない。まさか、食い逃げしたのだろうか。玄関にいたということは、タクシーを呼んでもらったのだろうけど、そちらもさっぱり覚えていない。

「昨日の店、もしかしたら食い逃げしたかも……」

「えー!? じゃあ今日はそこで決まりね。謝りにいきましょ、私もついてったげるから」

「ごめん。実は、マスターが君と同じお茶漬けを出してくれてさ。そのお陰もあるからお礼を言いたいな」

「ふうん。やるじゃない、そのマスター。私と同じくらい美味しいなんて、燃えるわ」

「相変わらずだなあ」

 顔を見合わせて吹き出した。そうしていると、マンションからは次々出勤する人が出て来た。愛梨も仕事に遅れるというので、一旦そこで解散する。

 その夜、新橋で待ち合わせた二人は、わすれじの酒場を探しに探したのだけれど、とうとう見つけることが出来なかった。また次回と、違う店に入ったが、その後何度訪れてもどこにも見当たらなかった。パソコンやスマホの検索にも引っかからない。

 俊輔は、今でも不思議だった。あの日の茶漬けがなければ多分今はない。今夜もどこかで、誰かの懐かしい一皿を振る舞っているのだろうか。

 いつかまた、あの暖簾をくぐって伝えたい。あなたのお陰で復縁できたと、妻を連れて。

「それは、おめでとうございます」

 目を閉じると浮かぶ、あの優しげなマスター。きっととても喜んでくれる、そんな気がした。


 おわり

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