第19話 ラッキー・リップス

あれ? ここはどこ?

紗百合は浮いていた。

水の上ででもなく、空の中でもなく、宇宙の下でもなかった。

身体には重みを感じていない。

撃たれた痛みもない。

そして、生きている感覚もしなかった。

あれ? 私。死んでしまった?

改めて自分を観察した。

周りは真っ暗だったが、自分の姿は見ることができた。

服はちゃんと着ていた。たとえ、もし死んでいたとしても、やっぱり裸だったら、当然恥ずかしいのだ。

銃弾が当たった箇所は穴があいていだが、不思議と血は着いていなかった。

背中もきっと穴があいているのだろう。

靴も靴下も履いていた。

念のため下着も確認する。下もちゃんと履いている。ブラもしている。

2箇所穴はあいていたが、肌には銃弾の後はなかった。

って、事は、やっぱり死んだのか……

ぁーあ…… もっと、おいしいものを食べておきゃよかったなぁ。

お小遣いの残金なんて、気にしなきゃよかった。

あれ、待てよ。

夢の世界では、死なないっていっていたような。

虫に食べられた場合は、その存在すら消滅してしまうはずだし。

ぅーん。

これは、きっと夢だな。

現実世界側か、夢の世界の中間側で見ている夢なのかな。

ってことなら、自分の頭の中で見ている夢なら、リブルは出てこられない。

(……君の記憶の中に、僕がいる以上、当然夢の中にでも出てこられるよ)

声がどこからともなく聞こえてきた。

姿は見えない。

何だか見張られている感じで嫌だな……

(そりゃあ仕方ないよ。見張りなのだから)

「あいかわらず人の心を読むのね…… まあ、いいか。私のために、いてくれるんだよね。導いてくれるんでしょ?」

(まあ、僕の役目だからね。導くっていっても、全ては君の行動次第なのだけれどね)

「そうか。私の意思で世界は動く、ってわけね。じゃ、まずは、そうね、やっぱりパンケーキ食べましょ。ぁ、ぃや、この状態だったら、一口サイズがいいな。だったらマカロンでもいいよ」

(え? 食べたい気分だったの? 僕はてっきり、ここから早く抜け出したいと言うと思ったぞ)

「今ね、なんだかいい気分なの。何もかも解放されて、ようやく自由になれたなって感じなの。そりゃあ、こんな暗闇にずっといたいわけでは、ないんだけどね」

(自由に? 君はいつだって自由気ままに行動しているように思えるのだけれどな)

「自由っていうより、何もしなくてもいいってことなの。何もしなくてもいい時間。私にはそういう時間がね、無かったような気がしたの」

(それは、君のわがままってやつだね。世の中には君のように、幸福な環境の人ばかりではないのだよ)

「わかってる。でも、ちょっと息抜きしたいだけだよ。だから、少しぐらいいいでしょ?」

(しょうがないな、じゃあ、食べに行く? パンケーキ)

「ぇ? リブルが連れてってくれるの? さっすがぁ、私の監督さん。でわでわ、私を、導いてくださいな」

(僕は君の監督ではないし、コーチでもないよ。それに、それをいうならエスコートだろう。今日は特別だよ)

(でも、こんなあの世の入り口みたいな場所に、そんなお店があるのかしら。そのうち大きな川が現れて、三途茶屋なんてお店が出てきたりしてね。もし本当にあったら、きっとそこのお店は大盛況だろうな。腹をすかした死者が群がり、欲望のままにパンケーキを食らいつくんだわ。地獄の沙汰も金次第っていうけど、私、お金ないからよろしくね」

(この状況でも、君は変わらないな。ここが、どこかもわかっていないのに)

「正直ね、私、もしも死んでいて、これから閻魔様のところで裁かれるにしても、それはそれでいいかなって思うんだ。人生が途中で終わったとしても、このまま何もしないまま、さまよっていても、何だか受け入れることができるんだな。どうしてか」

(でも、君はそんなことは望んでいないと思うよ。君には責務がある。受け継ぐものがある。その責任がある。守らなければ、いけないものがある)

「わかっているの。この先に待っている、見えない重荷の重圧に今まで耐えてきたから ……だから、今は一息つきたい…… 何も考えたくない時間は必要なのよ」

(わかった。今は、パンケーキのことだけを考えればいい。今回は特別な御褒美だよ。目をつむって。案内するから)

「本当に? 期待しちゃうぞっ」

紗百合は、あまり期待はしていなかったが、目をつむった。

もともと真っ暗闇を浮遊していたから、目をつむる必要があったのかと思ったが、しばらくして、右手の指に何かが触れた。

そして、握りしめられた。手を引っ張られている。

ぇ? 人の手? 誰なの?

(まだ目を開けちゃダメだ)

「ぇ? リブル?」

今、手を握っているのはリブルなのか?

子猫の手ではなく、明らかに人の、大人の手だった。

暖かく、力強く、紗百合の手をしっかり握り締め、二人は一緒に飛んでいた。

しばらくして、今度は左の手も握られた。

(降りるよ。地面を感じて)

 つま先に大地の感触が伝わる。地上に降りたのだ。

(目を開けていいよ)

リブルが言った。

手を握っている人は、リブルなのかと思い、不安と期待で紗百合はゆっくりと目開けた。

手を握った青年がいた。

自分より少し年上なのだろうか。ちょっとかわいいと思った。

黒髮で少し伸びた髪は、眉毛にかかるぐらいで、ボーイッシュな女の子のようにも見えた。

「リブル……なの?」

デニムのスボンに、白いTシャツに、土色のジャケット。

スッキリしたコーデでまとめた、細身で長身の男子が隣で手を握っていた。

「そうだよ。初めまして、ではないでしょ? 紗百合」

「ぇっ? えぇ。そうね、な、何度もあっていたわね……」

目の前の青年リブルに見つめられて、紗百合は赤面してしまう。

どうしてなのかは自分でもわからない。

ただ、胸の鼓動は勝手に跳ね上がっていた。

「せっかくだから着替えようか。その服も穴だらけだし」

「着替えるっていったって……」

そういえば、ブラにも穴があいているってことは、そこが見えているってことだと気付き、紗百合は後ろを向いた。

「こんなのでいいかな?」

 リブルが言うと、服が一瞬光り、真っ赤なシャープなラインのワンピースに変わった。

「ぇ? ぅわっ、ちょっと派手じゃない?」

 くるっと回って自分を確認する。

体にぴったりフィットし、ラインがよく出るデザインになっており、膝上10cmほどのフリル付きのフレアースカートは、動くたびにヒラヒラした。

弾丸の跡こそないが、背中は丸出しの衣装になって、胸元から肩もほぼ丸見えだ。

いつの間にか、靴もスニーカーから、ハイヒールに変わっている。

首にはプラチナの鎖にさりげない輝石のペンダント、耳に可愛らしい花の意匠をあしらったシルパーのピアスが付いていた。

本人は気付いていないが、唇には紅のルージュが施されていた。

「よく似合っているよ。君は自分の身体にもっと自信を持った方がいい。日頃の鍛錬の賜物だよ」

 リブルは優しく微笑んだ。

 紗百合から見て、リブルは爽やか青年だ。それもなかなかの美男子である。そんな異性から間近で見られて、似合っているよ。なーんて言われて、ドキドキしない方が、おかしいというものだ。

「ぁ、ありがとう。こんな服着たことないから、ちょっと照れくさいな。でも、パンケーキを食べに行くだけなんだから、もっと普通の格好でいいんじゃないかな?」

「そうかな。まあ、紗百合が言うのなら、そうだな、こんなのはどうかな」

 紗百合の赤のワンピが白く光る。そして今度は白っぽい服に変わった。

フンワリ系のベージュのチュニックに、ワントーン濃いベージュのレースが入ったスカートは膝下5cm。

足元は、素足に革で編んだサンダル。

ピアスもペンダントも、よりカジュアルなデザインの物に変わっていた。

口元のルージュは薄いピンクになっていた。

「どうかな? リゾート地に遊びに来たよ感覚コーデ。かわいいよ。紗百合にはこっちの方が似合っているかな」

紗百合も、くるっと自分を見回す。

少し緊張していた表情が、いつもの笑顔に戻った。

「いい感じ。かわいく収めたね。悪くないっ。じゃあ、いこっ!」

 リブルは頷くと、紗百合と手を繋ぎ歩き出した。


いつの間にか、どこかの街を歩いていた。

石畳の歩道。

煉瓦造りの建物。

ふわっとともるガス灯。

雰囲気的にヨーロッパのようだが、ここがどこかは、わからなかった。

右を歩くリブルを見上げる。頭一つ大きいだろうか。猫のときは、あんなに小さかったのに、人間化すると、こうも変わるものなのか。

「どうした、紗百合。そんなに僕のことが気になるのかい」

「そりゃだって、いきなりこんな展開になったら驚くわよ」

「こんな展開とは、僕と君の関係かい?」

視線に気が付いたリブルは、紗百合の気も知らず、今の状況を説明した。

「見ての通り、デート中の若いカップルってところだけれど、仲のいい兄弟ってパターンもあるね。紗百合はどちらがいいのかな?」

リブルの瞳に、紗百合の顔が映る。

吸い込まれそうな黒い瞳は、紗百合の心の中の奥まで、見透かされているようだった。

鼓動が高鳴る。繋いだ手からリブルに伝わりそうだ。

「……どちらって、あなたが女性でなくて残念だわ……」

「そういえば、君は両刀使いだったかな? 僕みたいな男子では、満足しないのかもしれないね」

紗百合の冷たい視線が、一つ頭上のリブルの横顔に突き刺さる。

「そう言う意味じゃないわよっ。かわいい妹がいたら、楽しいだろうなってっ」

「君には、僕みたいな弟でも楽しいと思うよ。男性に抵抗力のない姉貴には、男のおの字から教えてあげるよ、かわいい姉貴」

「こら、姉をからかうな。リブルみたいな弟がいたら、私、余計に男性不詳になりそうだわ……」

「それは、弟に惚れてしまいそうで、他の男子を排他的になってしまうってことかな」

「こら、うぬぼれるな。あなたみたいな男子が、世の中の女子をもてあそんでいると思うと、不審になってしまうってことよ。我ながら不逞の弟を持ったというのもあるし」

「僕はね、今日は弟の役なんかではなくてね、彼氏という設定で来たのだけれどな。紗百合は本当に男子が苦手そうだから、今日はそれもちゃんと克服できるように頑張るよ」

「そんなところは頑張らなくていいから、おいしいパンケーキーを、食べさせろっ」

「照れない照れない。そういう所が好きだよ、紗、百、合っ」

屈託のない笑顔が炸裂した。

現在、夕暮れ時なのに、この空間だけが一瞬、青空が見えた。

紗百合にはそのように見えてしまった。

まずいまずい。ドキドキが止まらない。

確かに顔はいいし格好もいいし、性格も良さそうだけど、こいつはリブルだ。

黒い小さな子猫の監視官で、私は囚人だ。

惑わされてはダメだ。目を合わせたらダメだ。声を聞いたらダメだ……

「ねえ紗百合、どんな人を好きになるのだい。恋をしたことはある?」

「ぇ、えっ? な、ないわよ。そ、そんな恋愛なんて、している暇なかったもの。うちは厳しかったから、そんな男なんか連れて来たら、何言われるかわかったもんじゃないわよ」

「それはね、親父さんの目がいいからだよ。紗百合にふさわしい相手ならきっと、何も言わず歓迎してくれるよ。それにね、親父さんは信じているのさ。紗百合には、しっかりとした目があるって。自分の娘に、絶対的な自信があるのさ。それから、本題はここからだ。君から見て、僕はどうなのかな。ほら、こっちを向いて。紗百合は僕のことをどう思っているのかな?」

頭一個上からのリブルの視線は、人を見下すような視線では無く、小さな子供をあやすような視線だった。

少しの間、目があってしまい我を忘れてしまった。

「そ、そんなに見つめないでよっ。女子は、イケメンなら誰でもいいなんて、思い上がらないでほしいわ」

 リブルの眼差しは本物だった。優しさと強さを備えた眼光は一点の曇りも無く、紗百合の心に熱いものを感じさせた。

 紗百合はその瞳に見惚れてしまう。

 言葉が出ない。鼓動がさらに高なり、頭の中が火照っていく感じがした。

 リブルの顔が近づいてくる。

 ぁ……

次の行動が予測できた。

予測した。

自分はどうするかは考えなかった。

考えるより……

紗百合はそれを受け入れた。

リブルの温かい唇が重なる。

柔らかい感触と爽やかな香りが伝わり、紗百合の鼓動も吐息も熱を帯びた肌も伝わった。

 二人の接点で、お互いの持っていた熱いものが交差し、心の中で光り輝いた。

 唇が離れる。

 リブルの視線に、紗百合は顔を赤く染めて、視線を逸らした。

「ちょっと、こんな道端でキスを迫るなんて、ちょっとガサツよ。もっと、ロマンを持ってちょうだい」

「このタイミングを外したら、次はもうないって思ったのさ。だって、パンケーキを食べて満足した君の唇を奪うには、一体どうしたらいいと思う?」

「私にとって、パンケーキは全てにおいて最上級かよ」

「だって、君がパンケーキ食べる姿は、この世の全ての幸福を感じていたよ。僕のキスなんかでは到底勝てないよ」

「き、き、キスなんかじゃぁ、確かに私は満足しないわよ。キスなんて、そんなに特別なことじゃないし、キスなんて、しなくたって別に生きていけるし。パンケーキの方が断然甘くておいしいし」

「じゃあ、もう一回してみる? 減るものでもないし。特別なことではないのだろ?」

「そ、そ、そんな、か、か簡単に私が唇を許すわけないでしょ? さっきのはたまたまよ。そう、たまたま。お腹が空いていたから、気がどうかしていたんだわ」

 途端に紗百合のお腹からギュルギュルと音がなった。

「ぁ。ほら、こいつが原因。これのせいで私は、冷静な判断力を失っていたんだわ。おそるべし、空腹よ」

「やっぱり、さっきのは最大のチャンスだったわけだ。今後は空腹時を狙えば紗百合の唇を奪えるわけだね。覚えておこうかな」

「こらこら、次はないぞ。紗百合ちゃんは今のでレベルアップしたのだ。今度はナンパ男にやられることはないぞ」

「大丈夫だよ。僕はナンパ男ではないからね。次はキス以上のことを狙ってみようかな」

 紗百合は顔を、さらに真っ赤にした。

「……ほら、さっさと、パンケーキの、店に、連れて行けっ!」

「はいはい。空腹だと気がどうにかなって、僕と最後までしちゃうかもしれないからね」

リブルは腹で笑っていた。

そんな姿を見て、紗百合も笑ってしまった。

「こら、姉をからかうな」

「はいはい。姉さん。姉さんの唇は最高だよ」

「こら。恥ずかしいからやめろっ」

「これはずっと使えるネタだな。ファーストキッスを奪えなかったのは残念だけれど、紗百合を揺するには効果的だな」

「ぇ? 私のファーストキスは、リブルではなかったわけ? そのつもりでいたけど、あなた、知っているわけね。私の初めての人」

「そりゃあ、知っているよ。君の情報は全て世界に管理されているからね」

「私の記憶では…… 思い当たらないのだけど、一体誰なの?」

紗百合は、こんな大事なことを覚えていないとなり、真剣に考え込んだ。

どうやら、アキレスの見させた夢の世界の出来事は、どうやら覚えていないようだった。

「ぃゃ、この件は思い出の範疇ということで、君の記憶の中で思い留めておいたほうがいいかなと」

「だから、私、知らないし、思い出せないし、わからないし、このモヤモヤ感を、どうすればいいわけ。教えてよっ」

「言わなければよかったな。そうすれば、君の初めての人は僕だったのにね。綺麗な思い出が残ったのに。ぃゃ、残念」

「なに意味ありげなことを言ってんの、余計に気になるじゃないの」

「じゃあ、後でちゃんと教えるよ。今は、僕の唇の余韻に浸ってほしいから」

 紗百合は、先ほどのことを思い出して、顔を染めた。

「じゃあ、約束よ。ちゃんと教えてね。じゃないと、私の人生の汚点になるから」

「はいはい。僕のキスは、君の人生の汚点になりそうだから、後でちゃんと教えるよ」

 紗百合は、どちらかというと、リブルが最初の人で、よかったのだが、その本人が、そうでないというのだから、当然気になる。

綺麗な思い出の相手は、リブルでよかったのに、こいつは人の気も知らないで、余計なことを言いやがる。

やっぱりこいつは無神経なやつだ。

とは思ったものも、隣で暖かい視線を送る長身の美男子は、紗百合の心を確実に捉えていた。

紗百合は久しぶりに、こう思った。

夢なら覚めないで……

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