第5話 悪夢の終わり
胸を射抜いた矢の感覚も、呼吸ができない苦しさも、激痛からも、自分を構成している肉体からも解放されて、何もかもの存在からも縛られることなく、光からも闇からも、自分を縛る存在はなくなった。
無に帰るとはこういう……
……ことなのか。
私は死んだのだ……
体が軽いを通り越して、もう、身体が無いわ……
紗百合は、思考することも、いつの間にか忘れてしまい、ただ単に、全てが粉々の塵になっていくのを感じた。
色も音も匂いも熱も光も、全ての感覚のない、無に落ちていった。
紗百合は目を覚ました。
白い天井と仕切られたカーテンを見て、学校の保健室と思ったが、左手には点滴の針と、それをつなぐチューブがスタンドに吊され、ビニールパックから滴る液体が見えた。
……病院?
紗百合はどうして自分が病院で寝ていたのか、わからなかった。
貧血で倒れたことはあったが、点滴まで打ったことはない。
体を起こそうとした。
胸に激痛が走り、あまりにもの痛みに息すらできず、再び頭を枕に沈め息を整えた。
そういえば、右腕も少し力を入れただけ痛みが走るし、左肩にも違和感を覚えた。
いったい何があったのか。いつからここで寝ていたのだろう。
記憶をたどり寄せてみるが、部活が終わって家に帰ってから、その後は覚えがない。
今日は何日だ?
カレンダーはあったが、それを見ても何も解決にならない。
ふと、壁に時計が付いていた。短い針は4を指し、長い針は11近くを指していた。
その下に、日付と曜日が表示されていた。
今は午後4時ころか…… 18日金曜日? ってことは、火曜日から三日間ここで寝ていたというわけか。
どういうことだ?
階段から落ちて、どこか骨でも痛めたのか?
しばらく紗百合は考えたが、体の様子を見ても、そんな処置はされていない。胸に走った激痛の辺りには何やら貼ってあり、この場所には何かがあったと思われた。
「……そうだ。明晰夢チェック。これはもしかしたら夢かもしれない。このシュチュエーションはその可能性が高い。何かの予知夢かもしれないな」
紗百合は、とりあえず体は動かせないから、近くにある何かをガン見することにした。
まずは、近くのスタンドにぶら下がっている点滴の袋。
よく見ると細かい文字が書いてある。メーカーや品番、主成分などの内包物の説明など、紗百合には訳のわからないことが、いろいろと、書かれている。
「うん。リアルだ。実在するかは知らないけれど、多分本物。でも、夢かどうかなんてわからない……」
夢の中でも、明晰夢状態になると全てが鮮明になることがある。
商品のラベルの細かい文字や、自分の知らない成分など読むことができるのだ。
普通の夢だとこうはならない。文字はあって、ないようなもので、大抵は読むことができないことが多い。
しかし。知っている成分や、単語だけだと、読めたりするものだ。
やはりここは、病院らしく、殺風景な部屋には、特に何も置かれていないから、それ以外の確認もできそうにはなかった。
紗百合はとりあえず、自分の体を改めて確認した。
動かすと痛む右腕は、肘から手首にかけて包帯が巻かれていた。
左腕は、肩が痛み、やはり動かすことはできない。
一番痛む胸の痛みは、胸の中心部辺りから痛みが走り、これまでに経験したことのない激痛だった。
ろっ骨でも、折れたのだろうか?
となると、やはり階段から落ちたのか、はたまた、車にでもひかれたか、と思ってしまう。
胸を強打したにしては、不自然な場所だが……
他にも、右足ふくらはぎにも少し違和感があったが、こちらは痛みは伴わなかった。
紗百合は頭の隅に、何か引かかるものがあったのだが、それが何かは分からなかった。
それは、先ほどまで見ていた夢を、思い出せないような感覚だった。
夢を見ていたような。見ていないような。多分見ていたような気がする。
ベッドの上でいろいろ考えていると、足音が近づき、不意に間仕切りのカーテンがサッと開けられた。
看護士さん、ではなかった。
年は同じくらいの女子高生で、白基調の制服からして、隣町の私立女子校のものにみえた。
腰近くまで伸びたストレートの黒髮に、その真逆な白い肌と、整った顔立ち、それから、スラリと伸びた身長は、雑誌などに出てくるモデルさんのようで、とても綺麗な人だった。
だだ、紗百合を見下すその視線は、ひどく冷たい感じがした。
「あら、目覚めたようね。ねぼすけさん。いい夢でも見ていたのかしら? それとも、夢の中で殺されて、永遠の眠りの中で私が起こしてしまったのかしら? そうだったらごめんなさい。あなたの永遠の眠りを妨げてしまったことになるわね」
冷笑を浮かべながら冷たい視線で紗百合を見据え、冷たい口調と凍るような視線に身震いしたが、不思議と悪い気分ではなかった。
「あ、あの、どこかでお会いしたことって、ありました?」
紗百合は身体を横にしたまま尋ねた。
「寝たままわたくしに話しかけるなんて、いい御身分ね。さぞ日頃から踏ん反り返って、生活を送っているのでしょうね。でも、よくてよ。寛大なわたくしは、そのような小さなことは気にしないから安心して。紗百合さん。先ほどの質問は厳密にはノーよ。でも、私はあなたから手厚い挨拶を頂いているわ。つまり、私はあなたを知っている。あなたは、どうなのかしらね? 紗百合さん?」
この人は一体、何なのだ……
「……ごめんなさい。私、あなたのことは、覚えていないの。どちらでお会いしましたか?」
「そう言うと思っていたわ。わたくしは、橘 京花よ。きょうとの京に、はなの花で、京花。キョウカって、狂った華と書いて狂華だと思ったでしょ? あなた、そう思ったでしょ? 違うから。ちゃんと頭に入れておいて。私のことは京花でいいわ。今後お見知り置きを」
一方的に話す京花に、ぼう然とするが、とりあえず悪い人とだとは思はなかった。
「あ、うん。よろしくね、京花……ちゃん」
「こちらこそよろしく。紗百合とは、きっといいお友達になれそうな気がするわ。でも、本当に覚えていないのね。少し残念だわ。いいえ、かなり残念だわ。だって、あなたから頂いたシュークリーム、とても刺激的だったから。今度ちゃんとお礼をするから楽しみにしてね」
「はあ、シュークリーム、ですか……」
紗百合は最近、大量のシュークリームを見たような気がした。
「他の人たちなんて、マカロンやロールケーキを頂いていたわね。みんな凄く喜んでいたわ。紗百合は、お菓子が大好きなのね。いいお店も知ってそうね。今度みんなで、お茶しに行きましょう」
「え? ええ。……ごめんなさい、私、やっぱり全然覚えていないの。でも、マカロンとパンケーキは、食べたような気がするの。本当においしかったっていう、記憶はあるんだけどな」
「あら、羨ましいわね。私はシュークリームだけだったのに、他の人たちには振る舞っていたなんて。紗百合はきっと、見た目で人を選ぶ傾向があるようね。私のことも、しっかり見てほしいわ」
京花の目が細くなり、口元がつり上がる。
この人、少し怖いけれど、私には何だか親しい感じがする。
「ごめんなさいね。きっと、そのときの私はパニクっていたんだと思う。たぶん…… 京花ちゃんのことを、ちゃんと知っていれば、きっと他の人と同じように、振る舞えたと思う。全然覚えていないんだけどね…… ごめんね」
「いいのよ。紗百合が気にすることではなくてよ。わたくしも、少し意地悪したかっただけなのよ。こんな怪我人を責めたりなんかできないわ。早く治して一緒にお茶しましょう」
京花は、顔を近づけて優しく言い、最後の方は耳元で囁くように言った。そして、紗百合の膨らんだ胸を撫でた。
「……ぁんっ!」
紗百合は思わず小さな悲鳴をあげた。
胸の膨らみを触られた魅惑の刺激と、胸の傷の激痛が同時に襲ったからだ。
なおも京花は、胸の膨らみを撫でまわした。
「こんなに腫れてしまって、紗百合がかわいそう。私に何かできることがあったら言ってね。私たちは友達なのだからっ」
京花の愛撫に、感じてしまい、それに伴って痛みもやってくる。紗百合は動けないまま身悶えた。
「…… もう…… 大丈夫だから、心配…… しないで…… お構いなく……」
「いいのよ。遠慮はいらないわ…… 痛むなら私がさすってあげるから」
京花は、膨らみの硬くなっている一部を、指先で弄んだ。
「ここは痛くないのかしら?」
京花は顔を近づけて、紗百合の表情の変化を楽しんだ。
「……もう、ぁっ! んん…… もう、大丈夫だから…… 京花ちゃんの気持ちだけで…… ぁっ…… ぅれ…… しいから……」
紗百合は息を荒らげ、京花に懇願した。
「そう? 遠慮はいらなくてよ。でも、紗百合がそう言うなら、しょうがないわね。ゆっくり休んで、早く元気になってね」
京花は紗百合の胸で遊ぶのをやめ、紗百合の額にキスをした。
突然のことに、紗百合は顔を赤らめ、京花と視線を合わすことが出来なかった。
「……う、うん。ありがとう。京花ちゃん…… は、もしかして、毎日私のお見舞いに来てくれていたの?」
京花は冷たくフッフッと微笑した。
「あなたが…… 紗百合が目を覚ましてくれて安心したわ。他にも、あなたのことを心配している人達がいるのよ。今日はこれで失礼するわ」
京花は、来たときと同様に、さっとカーテンを開けて去ってしまった。
いったい、何だったのだ、あの人は。京花と言っていたけれど、全く心当たりがなかった。
でも、シュークリーム、マカロン、パンケーキの単語に、妙に引っかかるものを感じた。
最近食べて、おいしかった記憶もある。
ただ、どこで食べたかは、ついに思い出すことはできなかった。
明晰夢の訓練をして、もしもできたら、お菓子を召喚して、思いっ切り食べてやるのだ、という強い願望は覚えている。
もしかしたら、寝ている間に明晰夢を見ていて、夢の中でスイーツに囲まれていたのかもしれない。
特に食べたことがないのに、パンケーキの歯ごたえと舌触りと、口に広がる甘みは、忘れられなかった。
確かに、食べた感覚だけは記憶に残っていたのだ。
改めて、自分が食いしん坊だということも、再認識してしまった。
少したって、看護士さんが入ってきた。
点滴を取り換える時間だったようだ。
「水渓さん、目が覚めたんですね。良かった。みんなとても心配されていましたよ。気分はどうですか? 私がわかりますか? これが見えますか?」
看護士さんは、紗百合の症状を知っていてか、いろいろとゼスチャーを交え、反射反応を試した。
「あ、はい。大丈夫です。わかります。……でも、胸が凄く痛いです」
紗百合は上体を起そうと、お腹の筋肉に力を入れた。
さっきは痛みで気が遠くなるほどの激痛がしていたのだが、今は軽く痛む程度まで軽減していた。
あれ? あまり痛くない。京花さんのお触りが効いたのかな? と冗談みたいなことを思った。
「そう、無理はしないでね。原因不明の内出血で大変だったんだから。運ばれてきたときは血まみれだったのよ」
「え? 血まみれ? どういうことです?」
「水渓さんも覚えていないのね。自宅のベッドで大量の血を吐いて、倒れていたそうよ。帰ってきた妹さんがみつけて、ここに運ばれてきたの。胸と、右腕と、左肩に何かに刺されたような跡があって、その周辺は真っ青だったわよ。何かの感染症ではないかって。でもね、もう大丈夫。順調に回復に向かっているから」
「そう、だったの…… 私も、全然覚えてなくって、気付いたらここにいたって感じで……」
紗百合は上半身を起こそうとした。
胸の傷は痛んだが、少し前のときとは比べものにならないくらい、穏やかになっていた。
恐る恐る、腹筋に力を入れると、さすがに痛むが、それでも我慢して、なんとか上半身を起こすことはできたのだ。
改めて自分の身体を見る。パジャマの中はタンクトップで、その奥は傷の辺りを、薬をつけた綿テープが止めてあった。
確かに周辺はまだ少し青い。
右腕は肘から下は包帯で巻いてあり、今でも、張りを感じるが、先ほどに比べれば、痛みはなくなっていた。
左肩も同様で、なんとか左腕を上げることはできた。
「痛みますか?」
「ええ、少し痛むけど、目が覚めたときに比べたら、はるかに楽になった感じかしら」
「きっと、毎日お友達が来て、ずっとお祈りをしていたから、それが効いたのかもね」
「お友達? お祈りですか? 白い制服の女の子ですか?」
先程までここにいた、京花のことを思い出す。
「そう。聖マリア何とか女学院の制服だったわね。凄く綺麗な人だったわよ」
見た目は綺麗だけれどね。中身はどうなのやら……
「そう…… ですか。他にも誰か、きていました?」
「そうね。あとは、御家族の方ぐらいかしら。多分入院しているなんて、誰も知らないかもしれないわね。感染症の恐れもあったから……」
そうですか。と、紗百合は京花の不思議な感じを思い出した。どう考えても普通ではなかった。
どうして私がここで入院していることを知っているのだ?
今回の件で、何かを知っているはずだ。この症状は尋常ではない。
明日も来るだろうか。今度はこちらからいろいろ聞き出さないと……
と、体のあちこちからくる、痛みと違和感は、紗百合を憂鬱にさせた。
「……ぁ、お姉ちゃんっ!」
セーラー服を着た少女が、上半身を起こした紗百合に抱きついた。
二つ下の妹の紗良だった。現在中学三年生の、今は大事な時期だった。
ぐがぁっ!
激痛が走り、悲鳴をあげたかったが、辛うじてそれはこらえた。
胸の中で泣いている妹に、これ以上心配をかけるわけにはいかなかった。
「お姉ちゃん、死んじゃうのかと思った。もう目を開けてくれないかと思った……」
「バカね。あなたをおいて、先に逝くわけないでしょ? ごめん…… 心配をかけたわね」
紗百合は優しく紗良の頭を抱いて髪を撫でた。
「もう泣かないで。と言っても無理か……」
先ほどの看護師さんの話では、第一発見者は、死んではないけれど、妹の紗良だった。
吐血で制服とベットは血まみれで、さらに肩と腕と胸からも出血していた。つまりはベットの上は血まみれで、蒼白な姉を見て、とても生きている状態には見えなかっただろう。
妹の気持ちは察する。
でも、どうしてこうなったのか、自覚がない自分に、腹ただしさを覚えた。
妹にこんな思いをさせた自分が情けない。
明日、京花に会ったらとことん聞き出してやろう。
そうだ、京花は毎日来ていると言っていた。
「ねえ、紗良。京花って子、来てた?」
ようやく落ち着いてきたのか、紗百合の胸から顔を離し、グスグスと涙を流しながら紗良は答えた。
「うん、来てたよ。凄い綺麗な人だよね。お姉ちゃんの友達なんだ。凄いね。私には、とても良くしてくれたよ」
「……そ、そう。京花……は、何か言ってたかな?」
「お姉ちゃんに貰ったシュークリームは格別だったって、言ってたかな。パンケーキも、今度は一緒に食べにいきたいなって、話していたよ」
やはり覚えていない…… 私がシュークリームをあげた。くれた。それともプレゼントした。どれなのだろう。
味と食感は何となく覚えているのに、……これって単に私が食いしん坊なだけなのかな。
「どうしたのお姉ちゃん? まだ、調子が悪いんじゃない? もう、横になった方がいいよ」
倒れてから、3日が経過していた。血まみれで意識不明となれば、普通は意識が戻っただけで、はい、退院というわけにはいかない。
ここは、おとなしく回復の経過と、この後にある、あれこれとある検査の結果を診るしかなかった。
「そうね。三日間眠りっぱなしって、やっぱりありえない。早いところ原因を解明して、普段の生活に戻らないとね。あなたに迷惑がかかっちゃうし」
「そういうことだよ、お姉ちゃん。今はちゃんと休んで、しっかり治してね。おばあちゃんも帰りを待っているから」
紗百合は、家にいるおばあちゃんのことを思い出した。
そうだ、早く私が元気にならなと、おばあちゃんの負担にもなってしまう。
日頃から家事を手伝っていた紗百合に、いつも笑顔でにこやかな表情を返してくれた。
きっと今も心配で、気が気でないだろうなと思った。
早く帰って安心させなくては。
ふと、頭によぎった。
…………お母さん……
小さい頃、こんなふうに病院のベッドで寝ていた母のことを思い出した。
しかし、再び起きて紗百合に優しい笑顔を見せることはなかった。
ねえ、いつ起きるの?
お母さんは長い夢を見ていてね、しばらくは起きないんだよ。
夢を見てるの? きっと楽しい夢だから、起きたくないんだよね……
そうだよ。だから、無理に起こしちゃ駄目だよ。夢の邪魔をしてはいけない。さゆりだって夢を見ているときに、起こされたら嫌だろう?
うん、わかった。夢の邪魔はしないよ。
よし、いい子だ。おかあさんも、きっとさゆりのことを、いい子だと思っているよ。じゃあ、帰ろうか……
そして、次に母と会ったのは、お通夜のときだった……
「お姉ちゃん、泣いているの? どうしちゃったの?」
いつの間にか、涙があふれていた。頬を伝ってパジャマを濡らしていた。
「あ。うん。私は死んでいないんだなって……」
紗百合は妹の前では、母のことは触れないようにしていた。なんとなく、そうするのがいいような気がしていた。
「何言ってんの、お姉ちゃん。お姉ちゃんは、ちゃんと生きてるよ。死んだりなんかしないんだからっ!」
もしかしたら、妹の紗良も、母の死を、突然死のことを知っているのかもしれない。
だから、こんなにも不安になっていたのかもしれない。
いつの日か、向かい合って、その話をするときは来るだろうが、今はそのときではないと思った。
いまは、傷の回復に専念しよう。まずはそれからだ。
「紗良にはもう、心配させないから」
「当然だよ。約束だよっ!」
「わかったわかった。もう大丈夫だから……」
そういったものも、いささか紗百合は自信をもてなかった。
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