最終話 白と鈴


 音楽の再生が終わり、音が止まる。

 ヘッドホンから染み出していた粒子が動きを止め、私の世界に無音が訪れた。

 被っていた布団をはぐり顔を出す。閉め切られたカーテンの向こう側から微かに白色が滲んできており、スマホの画面に表示されている時刻は午前6時過ぎ。

 起きるにも寝直すにも中途半端な時間。

 私は布団の中で丸まったままスマホの画面をつけると、ニュースアプリを起動させぼーっとスクロールを続ける。

 ニュース、スポーツ、エンタメといろいろなジャンルを見て回るがこれと言って特に気になるようなニュースはなくて、すぐにアプリを閉じると友達から送られてきていたメッセージに目を通し返信をする。


「起きよ……」


 しばらくそうしていると、頭が冴えてきた。

 相変わらず瞼は重いけれど、いつまでも寝ているわけにはいかない。

 今日は、私にとって少しだけ特別な日なのだ。

 最後にうーんと大きく伸びをすると、布団をはぐって床に降り立つ。

 シャツとパンツのままスリッパを履き廊下に出ると、流石にまだ寒い。車庫の中にはクルマが3台停められており、まだ家族全員家にいるようだ。奥の棚にはスタッドレスタイヤが台数分置かれており、例年であれば4月に入っても道路が凍結する日があったが、今年の冬は凍結はおろかまともに雪が降らなかった。タイヤも先週の休みにさっさと戻してしまったし今年は雪かきで筋肉痛にならずに済んだなどと考えていると母屋の方から母が顔を出した。


「なんだ、もう起きたの」

「ちょっと、目が覚めた」


 私の顔を見ると、母は顔を引っ込めて戻っていく。

 相変わらず、自分で起きられると言っても母は起こしに来る。

 もう、それが生活に組み込まれたルーチンであり、変えるつもりもないのかもしれない。

 台所へ入ると戸棚を開け食パンを取り出す。オーブンで加熱している間に豆乳を一杯飲み、出来上がったトーストにマヨネーズを塗ってソファーに尻を埋めると、スマホの画面を開く。そのままBluetoothを有効にして室内のスピーカーに接続すると、昨晩更新したプレイリストをシャッフル再生する。


「……いい感じかな」


 スマホをテーブルに置くとパンを咥えたままソファーの上で足を伸ばす。

 白い二本の足。しかし右膝には1センチほどの傷が二箇所あり、今でも曲げ伸ばしや歩行の際に痛むことがあるけれど、その頻度は確実に減っておりきっと1月から始めたスポーツリハビリテーションの効果が出てきたのだろう。

 12月に一度膝を痛めた際、掛かりつけの病院でMRIを撮ってみればやはり薄っすらと白い影が映っており炎症が起きているということだった。腫れも若干あったものの、抜くほどには水は溜まっておらず湿布を貰い1週間はサポーターをつけて生活するように言われた程度であり、その時医師に聞いたのだ。

 スポーツ復帰出来るようにリハビリを行いたいと。

 医師は快く専門の病院を紹介してくれ、それからは週2回のペースでリハビリに通い筋トレや歩行・走行訓練を繰り返し今では1日1〜2本なら全力で走っても大丈夫なようになっていた。


「いくか」


 足を解し終え立ち上がると、自室へ戻る。

 ハンガーに掛けられていた制服を取り着込んでいく。リュックを背負い、怪我をして以降持たなかったシューズの入ったサブバッグを手にし玄関に向かう。

 外へ足を踏み出せばまだ朝ということもあり寒いものの、登っている太陽からは若干の熱気を孕んだ陽光が飛んできていた。

 今日の天気は晴れ。

 川沿いの桜並木の横を歩きつつ学校へ向かう間、私は去年の12月のことを思い返していた。




     ※     ※     ※




「待って、ましろちゃん」


 鈴が声を上げる。私の言葉を遮り、その目はじっと私を見つめている。肌を刺すような冷たく乾いた風が頬を撫でつけ、全身を寒気が走り抜けた。


「……待ってね、ましろちゃん」


 再度同じ言葉をつぶやくと、鈴は視線を下げる。まるで自分を落ち着かせるように深く息を吸い込み、そして吐く。

 なんだろうか。

 次に鈴の口から発せられる言葉を想像すると、私の脳裏に浮かぶ感情は『不安』である。

 私がどうしたものかと内心焦っていると鈴は再び口を開く。


「ましろちゃん、あのね」

「……うん」


 小さな白い手を握って胸に置き、大きく息を吸い、そして鈴は言った。


「わたしも、好き」

「…………」

「ましろちゃんのこと、好き」


 視界から、風景が消え失せた。

 私の意識に有るのは隣に座って真っ直ぐに見つめてくる鈴の姿のみであり、それ以外には何もない。先程まであったはずの街灯も、自販機も、遊具も、今の私には見えなかった。

 音すら、聞こえるのは自分の心臓の鼓動と、鈴の細い息遣い。

 狭い。

 とても狭い世界の中に、いるのは私と鈴だけ。

 とても近くにいて、少し手を伸ばせば髪を触れられる。頬に指を沿わせられる。背中に腕を回し、抱きしめることが出来る。なのに、私の体はどうしてか意思に反して動いてくれない。

 触れたいのに、触れられない。

 伝えたいのに、伝えられない。

 それは一種の衝撃と呼べるものであり、そう、私は鈴からの『好き』に強い衝撃を受けたのだ。


「ーー私からはまだ言えてなかったから」


 鈴が続ける。

 確かに、鈴からその言葉を貰ったことはなかった。というか、貰えるとは思っていなかった。だって、私が鈴に伝えた『好き』はその場の勢いで言った面が非常に大きいし、そもそも友達としての好きではなくて、恋愛の対象としての好きであり、それは本来許されないものだ。

 だけれど、今鈴が私に言ってくれた『好き』は、私のと同じ意味合いを持つ『好き』なのだと思う。

 友情ではなく愛情。

 キスをしても許される『好き』。

 特別な、『好き』。


「……ましろちゃん?」


 鈴が不安そうに私の顔を覗き込んでくる。

 鈴も、この言葉を伝えるのに相当に悩んだはずだ。

 そして、私からの返答を待っている。

 不安で、怖くて、目を逸らして背を向けたい。きっと鈴は今そんな気持ちになっている。けれども鈴はまっすぐ私を見て、待っているのだ。

 答えなくてはならない。

 伝えなくてはならない。

 私の想いを、この子へ。


「ーー私もね鈴ちゃん」


 いや、なにを考えているのだ。

 これは先程まで私が言おうとしていたことではないか。鈴に先を越されたとは言え、最初からこの言葉を伝えるためにこの場所へ来たのだ。

 最初からずっと、これからもずっと。

 変わらない、私の想い。


「好きだよ。鈴ちゃんのこと」


 この気持ちは。


「愛してる」


 愛と呼ぶべきものなのだから。


「……ぅ、……」


 鈴は一瞬驚いたような顔をすると、すぐに口元を歪め目には涙が溢れ出す。

 声は上げないもののその小さな肩を小刻みに上下させ、苦しげに嗚咽を繰り返す鈴を見て、私は初めて体を動かすことができた。

 両腕を伸ばし、鈴の背中へ回す。そのまま自分の方へ抱き寄せ、包み込む。


「ぅ、わたしね、へんなのかなって思ってた。まじろぢゃんのこと、考えると、わかんなく、なっで。好きなんだけど、普通の好きじゃなくて、おばあちゃんが好きとか、クラゲが好きとか、そういう好きじゃなぐで」


 私の顎の下から泣きながら話す鈴。

 適当な言葉が出てこず、抱きしめて背中を擦ってやることしかできない。


「でも、好きなの……。まじろぢゃんのこと、」

「私も鈴ちゃんのこと好きなの。そんな何度も会ったわけじゃない。一緒にいた時間はすごく短いけど、それでも好きなんだよ」

「……ぃ、いいのかな、こんな『好き』……。普通なのかな、」


 …………。

 普通ではない。

 この『好き』は普通ではないのだろう。

 しかし、今私と鈴の間で確かめあった『好き』はこの二人の間では自然なことだ。すごく違和感はなくて、腑に落ちる。だからこれは普通なのだ。

 私は普通に鈴のことを好きになって、鈴も私を好きになった。

 お互いがただただ、好きになっただけ。

 なってしまったのだから、仕方ない。


「大丈夫だよ。絶対、大丈夫だよ」


 そうしてしばらくの間泣きじゃくる鈴を抱きしめ、ようやく落ち着く頃にはこの公園へ着いて20分が経とうとしていた。


「ごめんね、ましろちゃん。泣いちゃって」

「いいよ。いっぱい考えてくれたんでしょう? ずっと考えてくれたんでしょう? 私、嬉しいよ」

「そ、そっか。よかった」


 鈴はそう言って、やっと笑顔を見せてくれる。


「寒いでしょ、暖かいお茶買ってくるから待ってて」

「ありがとう」


 公園に着いた時に買ったお茶はすっかり冷たくなってしまっている。12月の寒空の元、風邪でもひいたら大変だ。

 自販機でペットボトルのお茶を買い、鈴の座るベンチへ戻る。そんな様子を鈴はぽーっと眺めており、ベンチの前に立った時鈴が言葉を漏らした。


「やっぱりわたし、ましろちゃんは走るの好きなんだと思う」

「……鈴ちゃん?」

「バスから降りて走って私にスマホ届けてくれた時、ましろちゃんすごく苦しそうだったけど、すごく楽しそうだった」

「…………」

「すごく速くて、格好良くて、わたし、走るましろちゃんもいいと思う」


 嫌いではない。

 走るのは、嫌いではないのだ。

 実際、あの時もバランスを崩すまでは久々に風を切れて、すごく気持ちよかった。


『先輩は走れます』


 いつだったか、東苺香あずままいかの言った言葉が思い出される。

 わざわざ私の元へやってきて、伝えてくれた言葉。

 同じ部活の後輩と言うだけの関係なのに、あそこまで言ってくれる人間はそうはいないであろう。相手のことを考えなければ、あんな言葉は出てこない。


「……走れるかな」


 この足で。

 もう一度。

 怪我をする前みたいに、走ることが出来るだろうか。


「ましろちゃんは走れるよ」


 東と同じ言葉を、鈴は言ってくれる。

 でもまだ、不安の方が大きい。

 心細くて、先が見えなくて、それは口をついて言葉となって出てしまう。


「苦しくなったら、話聞いてくれる?」

「うん」


「悲しくなったら、慰めてくれる?」

「うん」


「悩んだら、相談に乗ってくれる?」

「うん」


「辛いときは、」

「一緒にいるよ」


 鈴はおもむろに靴を脱ぎベンチの上に立つと、抱きしめてくれた。

 いい香りがして、とても暖かい。

 溢れてくる。

 いろんな想いが溢れてきて、涙が溢れてきて。

 今度は私が泣く番であった。





     ※     ※     ※




「おはよ、白」


 教室へ着いてしばらくすると、純那じゅんなが教室のドアを開け私の方へ向かってきた。

 彼女は自分の机に鞄を置くと、私の方へやってきて、右太腿を撫で回す。


「だいぶ筋肉戻ったね」

「部活やってた頃に比べたらまだ全然だけど」


 術後の2週間で右足の筋肉はあっという間に落ちてしまい、それ以降まともにトレーニングしていなかったためずっと左右で筋肉量に大きな隔たりがあった。1月からスポーツリハビリテーションを始め最近になってようやく左右のバランスが均等になってきて、走りのフォームもずっとマシになってきたのだ。


「そういや、今日からだっけ、部活」

「うん、そう」


 今日から部活へ復帰する。

 もう新学年を迎え3年生となった私にはあまり時間は残されていないが、出来るだけのことはやるつもりだ。

 鈴のため、そしてなにより自分のために。

 放課後。

 部室棟へ向かう途中で東苺香とばったり会った。

 これと言って会話はなかったけれど、自然と2人並んで歩き続け、部室へ入り着替える。 

 シューズを履きグラウンドへ出て体をほぐし、トラックへ向かう途中、東が口を開いた。


「私、去年よりも速くなってますから」


 好戦的な瞳で私をすっと見据える東はどこか嬉しそうに笑っている。

 しかしこの3ヶ月間、私も必死だった。

 簡単に負けてやることはできないし、つもりもない。


「走ろう、東さん」


 東はこくんと頷き、レーンに並んでスターティングブロックに足を置く。

 暖かな陽光の射す4月。

 桜の花弁に混じって号砲が鳴り響いた。





                       イミテーションブルー

                                 ―完―

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