第9話 アネモネの花言葉
帰り道、私は一人とぼとぼと歓楽街を通って自宅へ向かっていた。陽はとうに落ち、居酒屋の並ぶ通りは人々がたくさん行き交っている。横断歩道の手前にまでタクシーが後部座席のドアを開放して客を待っており、暇そうに携帯をつついているのが見えた。
今日の出来事やこれまでの事が頭の中でリプレイされ、まとまらない思考で意識は散漫となる。自分でもいったい何を考えているのか、よくわからないのだ。
「
その時。
不意に後ろから声を掛けられた。
少しだけ掠れた、聞き慣れた男性の声。振り向けばそこにはカマーベストとスラックスを着込み胸元には黒のネクタイを締めた男性が立っており、手には買い物袋が提げられている。
「……井上さん」
この通りにある喫茶店兼バー「PLEIADES」のオーナー。現在は20時でありバーとして絶賛営業中のはずなのだが。
「買い出しですか?」
ナイロン性の手提げバックは色が入っており中身は見えない。ただ、大きく膨れているためたくさん買い込んでいるようだ。
「そう。急にバイトの子2人もお休みになっちゃって。今お客あんまりいないから私がね」
「そうですか」
言ってから、自分でも酷く素っ気ない返答であったと考えてしまった。仕事柄人と話す機会が多い井上さんも私の返事になにか思うところがあったようで、「どうしたの?」と顔を覗き込んでくる。
「……ちょっと色々あって」
嘘ではない。今日は確かに色々あった。ありすぎた。
しかし、今は他人と話したい気分ではない。早く家へ戻って、シャワーを浴びて、音楽を聴きながら眠りたかった。
「…………」
井上さんは私の顔をじっと見て、それから下半身に視線を移す。
「足、痛いんでしょ? ちょっと寄っていきなさいな」
「ちょ、え、」
有無を言わさず井上さんは私が持っていたカバンをひったくると、隣に立ち付き添うようにして歩き出す。そのまま二人して煌めく歓楽街に消えていった。
※ ※ ※
「はい、ファジーネーブルアルコール抜き」
目の前のテーブルにゴトリとグラスが置かれる。
店についた私は一番奥に置かれた4人掛けの大きなソファーに靴を脱いで足を伸ばしている。2本の足を比べてみるとほんの少しだけ膝周りの太さが違う。水でも溜まっているのだろうか。
井上さんはそんな私の様子を向かいのソファーに尻を埋めて見ていた。
言っていたとおり現在店に私以外の客は一人しかおらず、その一人もカウンターで酔い潰れて爆睡している。こんな客入りでやっていけるのだろうかとこちらが心配になるほどだ。
「アキちゃーん、ちょっと白ちゃん休んでいくから。そのあとクルマで送ってくるからね」
「はーい」
厨房の中から若い女性の声が返事をする。
このお店は近くの大学に通う女の子達がバイトとして働いている。アキさんも大学生で、何度か話したこともある人だ。優しくて話が上手で料理ができて胸が大きい。女である私から見てもとても素敵な人だ。
「寒くない? 温度上げようか?」
「いえ、大丈夫です」
気を利かせて聞いてくる井上さんだが、むしろちょっと暑い。置かれたグラスに口をつけると桃とオレンジの爽やかな甘みと酸味が喉を抜けていった。
視線を少し移動させればテーブルの真ん中に置かれた青色の花が入ったハーバリウムが見えて、すごく綺麗だ。
「お腹空いてない? なにか食べる?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
丁重にお断りするが井上さんはどうにも納得いかないようで、
「……うーん。アキちゃん、カリカリベーコンお願い!」
「はーい」
断っても結局用意してくれてしまうのだ。私の好きなものをしっかりと覚えている。
「さっきお母さんに電話しといたから。ちょっとお店で休ませてクルマで送るって」
「すいません。ありがとうございます」
井上さんと母は高校の同級生らしく、昔からこのお店には母と一緒に何度も来ているし高校になってからは自分一人でもたまに来ている。と言っても来たことがあるのは昼間喫茶店として営業している時が殆どで夜、バーになっている時に来ることはなかなかない。
店内を見回してみると昼間の雰囲気とは全然違っていて、照明とかBGMとかが違うからかもしれない。
「今日は、遊びに行ってたの?」
「……はい」
井上さんがグラスを傾けつつ聞いてくる。中身は水らしい。
「その足、急に走ったの?」
「そうです」
「大丈夫?」
「はい……」
自分の膝を見る。
外から見ただけでは普段と何が変わったのかとかはほとんどわからないけれど、全然違う。やはり急に走ったのがダメだった。手術をした後に行うリハビリは日常生活に支障のない程度に回復させてさっさと退院させるのが目的であり、全力で走ることが出来るようになるにはまた別のリハビリが必要だ。それこそ、スポーツリハビリテーションを行っている病院で専門のトレーナーと共に根気よくリハビリしていくしかない。
退院して満足してしまっているような私の膝が、本気の走りに耐えられる訳はなかったのだ。
井上さんも私の歩き方がおかしかったからこうしてお店で休ませてくれているのだろう。
「そっか。もうちょっとゆっくりしていっていいからね」
井上さんはにっこりと笑い、ちょうどその時アキさんがお皿を持ってこちらへやってきた。
「白ちゃん、おまちどうさま。熱いから気をつけてね」
長いピンクアッシュの髪を後ろで結ってポニーテールにしたアキさんは、とても可愛らしい。自分と3つくらいしか違わないのに、大人の女性という感じがする。
「この前貸してもらった漫画、もうすぐ読み終わるからそしたらまたメッセ送るね」
「は、はい。いつでも大丈夫ですよ」
それじゃごゆっくり、と。
小さく手を振って、アキさんは厨房へと引っ込んでいく。
向かいでは井上さんがベーコンを齧っており、いい香りが漂ってきていた。ちなみに、飲み物もカリカリベーコンも奢りらしい。
「今日は、何かあった?」
「…………」
「遊びに行ってたんでしょう?」
「……友達と、水族館に行ったんです」
頭の中で、今日一日のことが思い返される。
鈴から初めて誘ってくれて、一緒にバスに揺られた。魚たちの泳ぐ水槽をいくつも見て回り、クラゲに夢中になっていた彼女の横顔が特に印象的だった。鈴の作ってくれたサンドイッチを食べて、アイスクリームを食べて、ストラップを買った。
一緒に海を眺めて、またバスに乗って、鈴の忘れ物を届けるために走って……。
「……私、その子のことがたぶん、好きなんです」
鈴と一緒にいて鈴に見つめられると、自分が抑えきれなくなる。胸につっかえができて、うまく呼吸ができなくなる。苦しくないのに、苦しくなる。
「でも、ダメなんです」
相手は小学生の女の子。私は、高校生の女子。
「好きになったら、ダメなんです……」
涙は流れない。
ただ、絶望とでも言うべき感情が心の中で育っていく。
「どうして、ダメなの?」
「……それは」
言えない。
こんな『好き』は恋ですらなく、人に言えるものでもない。思春期に訪れた一時的な気の迷いであり、大人になって思い返せば恥ずかしさに悶えるような、そんな通過的ななにか。
正解か不正解かで言えば明らかに後者。
「ダメなんですよ」
と。
ほとんど自虐的に、吐き捨てるように言う私だけど、向かいに座る井上さんはちょっとだけ怒ったような顔をする。
「相手の子は白ちゃんのこと嫌いなの?」
「……嫌いでは……ないと思います」
たぶん、だけど。嫌いではないと信じたい。
「白ちゃんはその子のこと嫌いなの?」
「き、嫌いじゃない! ……です」
「じゃあ、なんでダメなの?」
「……それは」
言い淀み口籠る。明確な反論が出てこず、言葉に詰まってしまう。
「相手が男だろうが女だろうが、周りがなんと言おうが思おうが、白ちゃんはその子のことを好きなんでしょ?。好きになっちゃったんだから、仕方ないでしょう」
「そんな……」
なってしまったから仕方ない、なんて。
そんな簡単な問題なのだろうか。そんな一言で済ませられるようなことなのだろうか。……いや、問題であるからこそ私はこうも悩んでいるのだ。
もっと相手のこととか、周囲のこととか、色々何度も何度も考えて……。
でも。
「……好きなんだよね」
誰に言うでもなく、自分に問い、再確認をする。
好きだ、好きだ。私は鈴のことが好きなのだ。
間違いようはなく、その感情は正しい。
この想いは『好き』であった。
「……ありがとうございます」
私の中で、何かが切り替わった。きっと、誰かからこうして言われることを無意識に望んでいたのかもしれない。肯定されることを待っていたのかもしれない。
私は熱々のカリカリベーコンを口に含み胃に押し込むと、それからグラスの中身を一気に飲み干す。
仕方ないのだ。
好きになってしまったら、もうどうしようもない。
止まってはならない。
止まることはできない。
進むとこまで進んで、ダメならダメでまたそのときは考えるのだ。
「井上さん、私これから行かないといけないところがあるので。ありがとうございました」
「送っていかなくて大丈夫?」
「はい」
靴を履き直し、床に立つ。
先程よりは安定して歩くことが出来るようで、そのまま店の入り口まで行くとアキさんが顔を覗かせる。
「頑張ってね、白ちゃん」
「……はい!」
ドアを開けると軽やかにベルが鳴り、12月の冷たい風が全身にまとわりついてくる。
向かう先は決まっており、鈴に会いに行くのだ。
私は一歩踏み出すと、夜闇の彼方へ溶け込んでいった。
※ ※ ※
向かう道中、スマホを取り出すと鈴の連絡先を呼び出しコールボタンをタップする。
鈴はすぐに出てくれた。
『もしもし、ましろちゃん?』
「もしもし、ちょっと今大丈夫?」
『……うん』
鈴の家から歩いて3分ほどの場所に小さな公園がある。私は鈴にそこへ来てくれないかと話し、鈴は承諾してくれた。彼女を待つ間、自販機で暖かなお茶を買って、私は考える。
あの後、鈴の部屋で目を覚ましたときのことを思い返していたのだ。
瞼を開けると、既に日は落ち、鈴の部屋は暗くなっていた。スマホの画面を点けてみれば19時半を回っており、1時間以上も眠ってしまっていたのだ。隣では鈴がまだ寝息を立てており、起こさないようにベッドから降りると服を整え、帰る支度をする。
結局鈴は起きないまま私はあの家を後にしたのだけど、帰る旨を伝えるメッセージは送っており、既読もついている。だから電話すれば出てくれるだろうと思って電話をしたのだ。
私の性分として、済ませられることは済ませられるうちにやっておきたい。
想いを伝えるのも、今日の内がいいのではと考えたのだ。
変わるとは思いたくない。ただ、この好きが出来るだけ確かな内に。
その時。
公園の入り口の方から砂利を轢く音が聞こえてきた。振り向いてみれば小さな黒い影がこちらへ向かってきており、街灯の下照らし出されるのは間違いようもなく七瀬鈴だ。
「こっちだよ、鈴ちゃん」
少し声を張って、手招きをする。
私の元へ歩み寄ってきた鈴は、少し躊躇うようにして私の隣に腰を下ろす。視線は合わせてくれず、膝の上で握った自分の手をじっと見つめていた。
「ーー鈴ちゃん」
顔を上げる。
目が合う。
「私ね、鈴ちゃんのことがーー」
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