第2話 鈴の音
「……ここです」
公園を出て10分ほど歩き、鈴は足を止めた。
大通りから少し離れた住宅街の一角であり、少し古い感じのするごく普通の一軒家だ。玄関横にはカーポートがあり黒のミニバンが停まっている。クルマの奥には物置があり、どうやらあそこに鍵が隠されているらしい。
「クルマあるけど、お母さんいるんじゃない?」
鈴の顔を覗き込んで、そう尋ねてみる。
「……ううん、お母さん歩いて仕事行くから」
「そうなんだ」
朝帰りでクルマに乗らない、乗れない仕事となるともしかするとお酒を飲む仕事なのかもしれない。ここからそう遠くない位置に歓楽街があるし、バーやキャバクラで働いているのかもと私は勝手に想像した
こっち、と言って鈴は私の手を引き物置の方へと歩いていく。
目の前にして思ったのだが、この物置は結構大きいものだ。高さは私よりもだいぶ大きいので180センチはありそうだし、届かなくて鈴が匙を投げるのも頷ける。半端な踏み台などを用意したところで届く高さでもないだろう。
背伸びをして鈴に示された辺りを手で探ってみると、すぐに鍵らしき金属の棒に手が触れる。取ってみればやはり鍵であり、そのまま鈴に手渡してやると玄関の方へ駆けていき、鍵を開けてまた私に渡してくる。どうやらあった場所へ戻してくれということらしい。
「お家、はいれるね」
これでこの子は自宅へ入ることができる。
温かい食事を摂って、お風呂に入って布団で眠ることが出来るのだ。
あの時、公園で私と出会わなくても別の誰かが警察などに通報して結局はどうにかなったのだろう。今回はたまたま私であったというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
本当に偶然たまたま、いうなれば運命とでも言うべきなのだろうか。
私とこの子が出会ったのは。
「うん。ありがとう」
「はい、どういたしまして」
私の仕事はここまで。七瀬鈴という女の子は無事自宅へ帰ることが出来て、誰も不幸にはなっていない。あえてあげるとすれば私が完全にバスに乗り遅れて帰宅時間が遅くなったことぐらいであり、別にその程度気にするほどでもない。
乗れなかったら、次まで待てばいいのだから。
それじゃあね、と。
私は片手を振って、来た道を帰ろうとする。
けれど。
「待って! ……ください」
鈴は私の制服の裾を掴んで、呼び止めた。
驚いて振り返り下から見上げる鈴を見て改めて思うけれど、この子は本当に小さい。対比物としてのランドセルがかなり大きく思えるほどに。いったいいくつなのだろうか。小学1年生はないにしても、2年生、3年生あたりに思える。まだ10歳にもならないほどではないだろうか。
「どうしたの?」
屈んで鈴と目線を合わせる。この子のあんなに大きな声は初めて聞いたのだ。いったいどうしたというのだろうか。まだなにか困ったことがあるのだろうか。
「……あ、あの」
鈴は何かを言いたそうに私の顔と自分の手元を交互に見て、もじもじしている。しばらくそうしていて、遂に鈴は口を開いた。
「お礼……しなきゃ」
「お礼?」
「そう。鍵取ってもらったお礼。あんまんも」
「ああ……」
別にいいよ、と喉元まで出かかり慌てて飲み込む。
この子は勇気を出して私を呼び止めたのだ。断るということはその想いを無下にするということであり、この子に対しては特にやるべきことではないように思う。
なんと言うか、この子は脆い。
ふとした衝撃で壊れてしまいそうな危うさがある。
「ご飯……、食べていって、ください」
「…………」
鈴の申し出に私は面食らってしまい言葉が出ない。
私と鈴は数十分前に初めて顔を合わせた程度の、ほぼ初対面同士だ。そんな相手を家に上げて夕飯を振る舞うなど、普通のことなのだろうか。距離感の縮め方が極端ではないだろうか。私達はお互いまだ名前しか知らない間柄なのだ。学校の友人を夕食に誘うのとは訳が違う。
「……いや、ですか」
「う、ううん! そんなことないよ! いいの? ご馳走になっても」
「うん」
「なら、お願いしようかな」
どうにも断ることも出来ず、ブレザーのポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。
午後18時半前。
あとで家に遅くなると連絡しておいたほうが良さそうだ。
「どうぞ」
言って、鈴は玄関のドアを開き、私は足を踏み入れる。
瞬間、嗅ぎ慣れない匂いがして他人の家へやってきたと実感する。玄関内側は綺麗に片付いており靴箱の上に置かれた花瓶にはキンセンカが刺さっている。鮮やかなオレンジ色が美しい花であるが、そういえば花言葉はなんだったか、失念してしまった。
「お邪魔します」
靴を脱いで、揃えて置く。隣では脱ぎ終わった鈴が私用にスリッパを用意してくれているらしく、どうぞというふうに目配せしてくる。まるで新品のようにふかふかなスリッパを履いて、私は案内されるまま鈴についていく。
通されたのはリビングであり、ここも綺麗に片付いている。
テーブルとソファーとテレビと……。
そこで、私はどうにも奥歯にものが引っかかったような違和感を覚える。
ぐるりと室内を見渡す。
視界の隅では鈴がリモコンを持ちエアコンをつけている。締め切られたカーテンの内側には観葉植物だろうか? 緑色の葉をつけた植木が置かれている。
おかしなところはこれと言ってない。本当に綺麗に片付いたリビングだ。
「そこに座ってください」
意識に鈴の声が割り込んできた。
促されるがままにソファーに座る私。鞄は足元に置いた。
「鈴ちゃんは、お母さんと二人暮しなんだっけ?」
「……そうです」
いつの間にか移動した鈴は、カウンターの向こうでコンロに火をつけている。しばらくすると、いい香りがしてきた。
「どうぞ」
出てきたのは紅茶だ。向かいに座る鈴も同じカップを持っている。テーブルにはミルクと砂糖の乘った小盆も置かれていた。
「お母さんは毎日夜お仕事なん?」
「……毎日、ではないけど、今週はずっとだって、言ってました」
「そっかぁ」
鈴は昼間学校で夜は自宅。
母は昼間自宅で夜は仕事。
なるほどこれでは親子が顔を合わす機会はごく限られてくる。
朝ぐらいしか会わないのではないだろうか。
放置子……というのではないように思う。
この子の制服はきちんと折り目が付き清潔に保たれ、髪も適度に切りそろえられ艶がある。痩せているとかいったこともないし、家の中が荒れているということもない。
本当に綺麗な家なのだ。
「お母さんは、お仕事行く前にご飯を作って置いてくれるん?」
鈴が学校へ行っている間に家事全般を行っているのだろうかと思って聞いてみたのだけど、私の問いかけに鈴は首を横に振る。
「ご飯はわたしが作ってる。掃除も、洗濯も、わたし」
「……そうなんだ」
その返答は少々予想外であった。
つまり家事をしない母親に代わって、家のことをすべてしている?
いや、家事をしないというのは誤解を生む。仕事で忙しく家事が出来ない母親に代わり鈴が家のことを任されている、というのが本当のところだろうか。そうだとすればこの子はまだ小さいのに本当にすごいではないか。家事スキルなど私より全然あるであろう。
二人暮しだから、そういった役割分担は必要なのかもしれない。
と、変に納得しかける私だが、いやいや待て。
それでもこんな小さな子が家のことを全てするというのは世間一般的ではないだろう。
掃除だって高所を拭いたりするときに怪我をするかもしれないし、料理なら刃物やガス・火を使うのだ。普通なら子供がやろうとしても親が止めるものではないか? 教育のために手伝わせる程度はするかもしれないが、完全に任せっきりで全部やらせるというのはどうにもおかしな話だ。
ちょっと変わっている、というか、異常ではないか?
しかし、そんなこと思っても口に出すわけにはいかない。
他人の家庭のことだ。変に詮索もするものではない。
「すごいね。お料理も出来て、掃除も洗濯も」
「……前はおばあちゃんと一緒に暮らしてて全部教えてくれたの」
「…………」
公園で鈴は母親と二人暮しだと言っていた。
恐らくは既に亡くなっているのだろう。きっと、普段あまり面倒を見られない母親に代わり祖母が色々と生活に必要なことを教えてきたのだ。だからこそ今はこうして一人でなんでも出来るようになったのだろう。
「いいおばあちゃんだね」
「……うん。とっても大好きだったの」
伏せ見がちに答える鈴は微かに微笑んでいる。もしかすると祖母との日々を思い出しているのかもしれなかった。
「じ、じゃあわたしご飯の用意してきます……。テレビつけてもいいので」
鈴はソファーから飛び降りるとテレビのリモコンを差し出してくる。そのままキッチンの方へ歩いていき戸棚が開く音や食器の擦れる音が鳴り出した。
鈴のことが気になってテレビなど見ようと思えないのだけど、一応ニュース番組を少音量でつけておく。でも私は画面などはほとんど見ていなくて、見ているのは鈴の背中だ。
なんというか、気になってしまう。
あの子とこの家は、どうにもチグハグだ。
まるで、他人の家に他人同士が住んでいるみたいな変な感覚になる。しかし、鈴にとってはこの家が唯一の場所で今いない母親は唯一の肉親。私はそこに入り込んだ異物。鈴からしてみれば、私は他人なのだから仕方のないことなのだけど。
その時。
『了解。あまり遅くならないように』
スマホの通知欄にメッセージが表示される。先程夕飯はいらず帰りは遅くなる、と母に送った件に対する返信だ。たぶん連絡なしに遅く帰ってご飯はいらないと言ってもあまり怒られないと思うが、数年に一度びっくりするくらい怒られる時があるので危険因子は事前に排除しておく。
母が怒ると家族全員の夕食が豆スープと黒パンという戦時中かと突っ込みたくなるようなメニューに変更されるので、なるべく回避したいのだ。
それから約1時間。
私は鈴に呼ばれキッチンカウンターにくっつけて置いてあるダイニングテーブルに着いた。
椅子は四脚あり鈴の正面の椅子を引いて座る。置かれたメニューはご飯と味噌汁、肉じゃがとほうれん草のおひたしだ。
「ど、どうぞ」
「いただきます」
促され、私は箸を持つと一番大きな皿に盛られた肉じゃがに手を出す。じゃがいもを口に入れるが、よく味が染みており非常に美味しい。ご飯茶碗をよく見てみると緑色と赤色の何かが混ぜ込んでおり、一口食べてみるとどうやら大根の葉と梅肉らしい。こちらもご飯だけでも十分なくらい美味しい。
「おいしいよ鈴ちゃん」
正面でじっと私の食事を見つめている鈴は、私の言葉に少しだけ笑顔を浮かべると自分も食事を始める。どうやら私の口に合うか気が気ではなかったようだ。
「鈴ちゃんは何年生なん?」
食事の最中。
ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「3年生です」
「3年生かあ」
つまり、誕生日にもよるがこの子はまだ8、9歳ということだ。
「その制服、附小のだよね。こっから電車で通っとるん?」
「家から駅までバスで行って、そこから電車で行ってます」
「すごいね、鈴ちゃんは」
受験して小学校へ入り、毎日制服を着てバスと電車を乗り継いで学校へ行っているのだ。
ただエスカレーター式に地元の市立に通って鼻水垂らしながら徒歩通学をしていた私とは大違いだ。私など高校へ通うようになって初めて電車通学をし始めたというのに。
「1年生の間は毎日おばあちゃんが学校まで一緒に着いてきてくれてたから……」
「そっか。いいおばあちゃんだね」
この子は祖母から本当に愛されていたらしい。そしてその愛と同等のものを鈴も祖母へ向けていた。
もしかすると附小への進学を勧めたのも祖母なのかもしれない。きっと孫の将来を慮っていい教育を受けさせようとしたのだろう。
「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさま」
二人して食事を終え、時計に目をやればもう20時を回っている。
だいぶ遅くなってしまった。
「おいしかったよ鈴ちゃん。ありがとうね」
「いえ……。よかったです」
椅子を引き、鞄を持ちつつ鈴へ礼を言う。
公園で初めてみたときの印象とは違い、この子はしっかりしている。少し気が弱いところがあるようだが喫緊の問題ではないように思う。きっと、時間が解決してくれるであろう。
「じゃあ、帰るね。もうお家の鍵忘れちゃダメだよ?」
「……はい。ありがとうございました」
靴を履き、玄関のドアノブに手を掛ける。
「ましろ……ちゃん」
声がして、私は振り返った。
目が合う。
「おばあちゃんが死んじゃって……夜ご飯ずっとひとりで食べてた……。でも今日、すっごく嬉しかった」
「…………」
下を向き、鈴はぽつりぽつりと言葉を落とす。
「美味しいって言ってもらえて、一緒にご飯食べてくれて……」
「……鈴ちゃん」
「………………また会いたい」
「ーーえ……」
「また、ましろちゃんとお話して、ご飯食べたりしたい……」
鈴の頬を伝って、フローリングに雫が落ちる。
「……私はーー、……私もだよ」
この子はーー鈴は、守られなければならない。
誰かから、守られなくてはならない。
この子の心には隙間が空いていて、そこから何かが漏れ出しているのだ。それを、塞いであげなくてはならないのだ。
私が。
「鈴ちゃん」
「……なに?」
鈴に見えるようにしてスマホをかざす。
鈴が料理を作っている間、テーブルの端に充電ケーブルが繋がったままのスマホが置いてあるのを私は知っていた。恐らくは登下校に時間がかかり、家を開けがちなため母親が連絡の為に持たせているのだろうそのスマホを使えばいつでも連絡を取り合うことが出来る。
「これ私の連絡先。鈴ちゃんのも教えてくれるかな?」
「う、うん! ちょっと待ってて」
ダッ、と駆け出しすぐに戻ってきた鈴の胸にはスマホが握られている。
「こ、こう?」
普段あまりスマホを使わないのか鈴の操作はなんだかおぼつかなくて、代わりに私が連絡先の登録をしてやる。その過程でちらっと見えてしまったのだけど、鈴のスマホには母親と祖母の連絡先しか入っていなかった。
「はい、できたよ」
「ありがとう……」
ピロン、と。
鈴にスマホを返して数秒後、私のスマホが鳴る。
開いてみると目の前の鈴からメッセージが届いていた。
『ありがとう』
画面から視線を外し鈴を見ると、すごく嬉しそうな顔でこちらを見ている。
「もう。目の前にいるのに」
「ごめんね。嬉しくて」
「そっか。ならよかった」
今度こそ、私はそれじゃあねと言って鈴の家を後にした。
少し歩いて振り返ると、二階の窓から明かりが漏れ出している。きっとあそこが鈴の部屋なのだろう。
『ちゃんとお風呂入って暖かくして早く寝るんだよ』
私のメッセージにすぐに返信が来る。
『うん』
今日のやり取りはそれでお終いだった。
しばらくして気がついたのだけど、雨は止んでいた。
代わりに雲の切れ間から大きな月が顔を覗かせていて、私はなんだか歩いて帰りたい気分になる。
バスを使えば10分。
歩いて帰ると約30分。
なんだか世界が動き出すような予感がして、私は鼻歌を刻みながら家路を急いだのであった。
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