イミテーションブルー
佐野友希
第1話 雨音のまぼろし
音楽の再生が終わり、音が止まる。
ヘッドホンから染み出していた粒子が動きを止め、私の世界に無音が訪れた。
被っていた布団をはぐり顔を出す。閉め切られたカーテンの向こう側から微かに白色が滲んできており、スマホの画面に表示されている時刻は午前6時過ぎ。
起きるにも寝直すにも中途半端な時間。
夜通し付けていたエアコンのせいで空気は乾燥しきっており、喉が痛い。私はエアコンを切ると、代わりに加湿器の電源を入れた。
このまま布団に潜りっぱなしだと、いつまでも欠伸が出てずっと眠気を引きずったままとなる。いっそ起きて外の空気でも吸った方が意識ははっきり覚醒するであろうし、だから私はベッドから降りるとスリッパを履いて廊下へと出る。
「……さむい」
寒い。
私の部屋は増築された離れにあるため、生活機能の集中している母屋に行くには一旦外へ出ないといけない。
と言っても完全な外ではなく車庫内を経由してなのだけど、それでもやはりこの時期は寒い。
冬用タイヤに交換し終えたばかりで車庫内には3台分のノーマルタイヤが置かれており、少し狭い。早く整理してよと言いたい気持ちもあるが、両親はこの時期忙しいし、学校から帰った後に私がやっておいてもいいかと考えていると、母屋の方から母が顔を出した。
「なんだ、もう起きたの」
「寒くて、目が醒めた」
私の顔を見ると、母は顔を引っ込めて戻っていく。
小学生のときならまだしも、自分で起きられるようになった今でも母はこうして私を起こしに来る。
もうそれが生活に組み込まれているのだから仕方のないことなのかもしれないが、朝の忙しい時分に手間をかけさせるのは心苦しい。だからいつも起きられるからいいというのだが、結局母は起こしに来てしまうのだ。
台所へ入ると戸棚を開け食パンを取り出す。オーブンで加熱している間にヨーグルトを一杯飲み、出来上がったトーストにマヨネーズを塗ってソファーに尻を埋めると、スマホの画面を開く。そのままBluetoothを有効にして室内のスピーカーに接続すると、昨晩更新したプレイリストをシャッフル再生する。
食パンの耳の部分を最初に全部食べてから最後に残った白身の部分を二つ折りにして齧り付くのが私の食べ方であり、これを誰かに話すと大抵は理解されず、もっと行けば引かれる。
私的にはこれが一番正解に近い食べ方なのだけど、どうやら世間一般ではなかったようであった。
「……痛いな」
スマホをテーブルに置くとパンを咥えたままソファーの上で足を伸ばす。
白い二本の足。しかし右膝には1センチほどの傷が二箇所あり、今でもこうして寒かったりすると曲げ伸ばしや歩行の際に痛むのだ。だいぶ時間が経っているとはいえ風呂から上がった後などは赤く腫れるし、スクワットなどは今でもうまくは出来ない。
貰っている鎮痛用の湿布を貼っても大して効果はないし、かといって病院へ行くほどでもない。
「もう、一生もんだな」
普通に走れるし正座もできる。
でも、これ以上はよくならない。
傷跡も、完全には消えない。
以前と同じ足には、もう戻らない。
「…………」
しばらく膝を手のひらで揉んでスマホに視線を移し、通知を見る。
午前7時過ぎ。
曇り後雨。
まだ雨は降り出してはいない。
けれど、窓を叩く雨垂れの音が聞こえてくるような気がした。
※ ※ ※ ※ ※
「お大事に」
会計で支払いを終え薬と領収書を受け取ると、私は病院を後にした。
結局、私は朝のうちに電話で予約を入れると学校帰りに病院へ行った。
朝からなんだか痛かったし、ちょうど今月が退院して半年になるタイミングだったしいい機会だと思ったのだ。
予想通り、触診をして医者からは順調というお墨付きと湿布を貰って終わりだったし、自分を安心させるために行ったようなものだ。それが2000円程度で済むのだからまあ、安いものではないだろうか。
「お腹空いた……」
15時過ぎに病院に着いて今はもう17時前。
今からバスに乗るまでには時間が少しあるし、私は病院の隣にあるコンビニでピザまんとほうじ茶その他諸々を買うと、近くの公園に向かう。本当は店内の喫食スペースで食べたかったが、女子中学生が一組いたためやめておいた。
少し歩いて公園に着くと、予想通り既に薄暗くなっているのと天気が悪いため人はほとんどおらず、私はまっすぐ公園を突っ切り屋根のあるベンチの方へ向かう。大きな柱を背にぐるっと丸くベンチが配置されており、腰を下ろすと鞄を置いて袋からピザまんを取り出し一口齧った。
「あふっ」
思ったより熱く、自然と声が出る。キャップを回してお茶を流し込むと、ふーっと大きく息を吐いた。
袋の中にはもう一つ、あんまんがある。私は少し冷めたあんまんが好きであり、匂いもあまりしないためバスの中で食べようかなどと思案していると、バチッとなにやら金属音が鳴り思わず肩が跳ねる。
私ではない、一体何だと左右を見ると右側の、微妙に死角となっているところから赤いランドセルが半分ほど見える。気になって少し覗き込んでみると、ランドセルを自分の横に置いて、小さな女の子が足をぶらつかせ小雨の降る薄暗い公園を眺めていた。
バチンというのはどうやらランドセルをしめたときの音らしく、向こうは私には気がついていないようだ。ブレザーの肩や髪の毛には雨粒が乘っており、暗くても女の子の頬が赤く熱を持っているのがわかった。
「…………」
声を掛けるべきか掛けないべきか。もしかすると親などの迎えを待っているのかもしれないしと、声は掛けず気配を消してじっとピザまんを食べていると、匂いで気がついたのかいつのまにかこちらを見ていた女の子と目が合う。
「……ぁ」
息が止まる。
女の子の丸く、大きな瞳。そこにはうっすらと涙が溜まっており、公園の外を走るクルマのヘッドライトの光を受けキラリと瞬く。すぐに握った拳で涙を拭うと、正面に向き直る女の子。そのままベンチから飛び降りるとランドセルを背負い歩き出す。
と、足音はすぐに止まり、どうやら私から距離を取るために少し移動しただけらしい。なんだか避けられている、というか普通に避けられているだけなのだろうけれどちょっと悲しくなる。
別に何もしないし。
誰に弁明するでもなく、私は頭の中でそんな言葉を呟く。意味などない、自分に言い聞かせるためだけの思考。
その思考の延長で私は考える。
こんな場所であの子は何をしているのだろうと。
大通りから離れた人の少ない公園。天気は雨で、気温も低い。時刻は既に17時半を回っており、制服を着たままの小学生がひとりでいるのはなんだか違和感がある。
迎えを待っているのかとも考えたがなんだかそういう雰囲気でもないし、それより何より、泣いていた。
あの女の子は泣いていたのだ。
「どうしたん?」
立ち上がった私は、真反対に移動していた女の子の斜め前にしゃがむと、視線を合わせて問いかける。
瞬間、目が合い、すぐに逸らされる。
言い淀むように視線を下げ、口は真一文字に結ばれている。膝の上でふたつ並んで握られた白く小さな手は、寒さのせいなのか小刻みに震えており、私は急に胸が締め付けられるような感覚を味わった。
唾を飲み込み、覚悟を決める。
「今日は、雨だね」
女の子の隣に腰掛け、同じ方向を見て呟く。軽い雨音が小気味良く耳を打ち、次第にまるで音楽を聞いているかのような錯覚を覚える。
そういえば、外で雨をじっくりと見たことは今までなかったように思う。いつもは窓越しに、早く止んでしまえと思いながら見ているだけなのだったのだけど、今日は、今は違う。
ただただ、雨という気象に対する嫌悪感はなくて、むしろ、目に映る世界のすべてを覆う雨という事象に、親近感のようななにかを抱いていたのだ。
「私は雨好きなんよ。空気が綺麗になったような感じがして」
これは私の独り言だ。
誰に言うでもなく、ただ口をついて出る心の内に思う想い。
「……わたしも、すき」
ともすると、雨音にでも掻き消えてしまいそうなほど小さく、しかしそれは隣に座る女の子から発せられる声だ。柔らかな、糸を指で弾いたような優しい声色であり、耳の鼓膜を軽やかに叩く。
ゆっくりと女の子の方を見ると、伏せ見がちに、不安そうにしてこちらを見るふたつの瞳と視線が合った。
「今日は、どうしたん?」
最初の問いかけをもう一度繰り返す。
確信があった。
きっと、今度は答えが返ってくるだろうという確信が、私にはあったのだ。
「…………」
女の子は少し躊躇うように視線を泳がし、そうして口を開く。
「…………お家の鍵忘れて……、帰れないの」
下を向いて自分の膝を見つめる女の子。震えているのは、寒さだけが原因ではないようだ。
「お家の人は? お母さんとか、お父さんとか」
誰かが家に居るのではと思いそう言ったのだけど、言い終わって直後に後悔する。
そうであるなら、こんな場所に留まっているはずがないではないか。
どうにもならないからこうしてひとりで公園にいるのではないか。
予想通り、女の子は首を横に振る。
「お母さんとふたりで暮らしてて、お母さんは今お仕事……。朝までかえってこないの」
だから、ここで待つの。
そう言って、女の子は下を向く。
「朝まで……」
こんなにも寒いのに、額に汗が滲むのを感じる。
この子は、まさかひとりで母親の帰ってくる朝までこの公園で過ごすつもりだったのか?
母親に連絡を取ったり、親戚・友達を頼ったり、学校の先生に相談したり、そういった選択肢を排除して、この子は公園で一晩を明かすという選択をしたというのか?
座っている女の子の姿をじっくりと見る。
髪は肩までの長さで少しくせっ毛。瞳は大きくタレ気味で、肌は白く、透き通っている。座っているからはっきりとはわからないが、立ち上がっても私の胸くらいの高さの身長しかないだろう。
吹けば飛んでいってしまいそうな、そんな、なんだか儚い印象を抱く存在の希薄な少女。
そんなこの子は、一晩をここで過ごすというのだ。
不安というより、恐ろしい。
小学生が一人で公園で一晩は危ないだろうとか、そういった心配するという意味での恐ろしいではなく、その結論に辿り着き、受け入れるこの子の思考が恐ろしいのだ。
いったい、どんな考え方をすればそういった考えに至るのか。
私には、理解できない。
「あ、危ないよ? 公園で一晩なんて。お母さんに連絡取って、鍵開けてもら、」
「だめ」
背中にゾワッと、鳥肌が立つのを覚えた。
あまりにはっきりと芯のある否定の言葉に、私は絶句する。
なぜ、なんで。
これはへんだ。おかしい。
何かが、違う。
この子は、おかしい。
「ーーそ、そっか。でもね、危ないよ? なんとか家に入ることはできん?」
「…………」
私から視線を外し、逡巡するように眼球を動かす。
何かを言おうか言わまいか、悩んでいるふうである。
そうしてしばらく迷って。
「……お母さんが使う鍵が、物置の上に置いてあるの。でも、わたしじゃ届かない……」
女の子曰く、母親は自宅の鍵を持ち歩かないらしく、玄関の近くにある物置のドアの上に鍵を隠しているらしい。それを取ることが出来れば家に入ることが出来るらしいのだ。
鍵を持ち歩かないというこの子の母親に多少の訝しむ気持ちが芽生えるが、今はそれよりも、この子が早く自宅に戻ることを優先するべきだ。
「そっか。なら、まかせて!」
「?」
きょとんと小首を傾げる女の子。意味がわからないというふうに私の顔を見据えるが、私には名案があったのだ。
要は、その隠してある鍵をどうにかして取ればいい。つまり、私が鍵を取ればいいのだ。
「私があなたの家に行って、鍵を取ってあげる。どう?」
「……それは……」
言い淀み煮え切らない女の子。
ついさっき知り合ったばかりの人間をいきなり自宅に連れて行くという事実に子供なりの抵抗感を抱いているのだろう。
確かにそれはもっともな考えであり、子供の頃からそういった危機管理がきちんと出来ているのは素直に褒めるべきことだろう。普段の生活であれば見知らぬ人間を自宅に招くのはNGである。
けれど。
「……たのんでも、いいですか……?」
どうやら、朝までここで過ごすのと今私を自宅へ案内し鍵を取ってもらうという事実を秤に掛け、この子は選択をしたらしい。
自分が寒さと飢えに苦しまずに済む選択を。
「もちろん!」
にっこりと笑顔を向ける私。
「……ありがとう」
その日初めて、私はその子の笑顔を見た。
酷く美しい、白百合のような、そんな笑顔。
瞬きを忘れ、呼吸さえも忘れて、数秒後ようやっと我に返った私は急いで取り繕うようにして脇に置いたレジ袋からあんまんを取り出す。
「こ、これ、食べる? まだあったかいと思うし、お腹空いてない?」
女の子の顔の前に白いあんまんを差し出す。微かに湯気が上がっており、中はまだ温かいはずである。いつからこの場所にいたのかはわからないが、外は寒いし、給食を食べたであろう時刻から既に5時間以上が経過している。おそらくは空腹のはずである。
「……でも、あの」
遠慮している、というよりは知らない人間から食べ物をもらうことに対する抵抗だろう。当然といえば当然である。けれど、ここで引き下がるわけには行かない。
「私さっきピザまん食べてね。もう一個はお腹入んないの。早く食べんと冷めちゃうし半分でいいから食べん?」
そう言って目の前であんまんをふたつに割ってやる。大きい方を女の子に差し出し、もう片方を私は頬張る。
「……わ、わかりました。いただきます」
両手で受け取り、しばらく手元のあんまんと私を交互に見て、それからおずおずと口に運ぶ。
一口齧り、もう一口。
あっという間に女の子はあんまんを平らげてしまう。
「あんこ、ついとるよ」
一緒にレジ袋に入っていたウェットティッシュを出すと、女の子の口元についたあんこを拭う。
「ちょっと待ってね」
脇に置いた鞄の中から水筒を取り出すと、熱々のお茶をコップに注いで渡してあげた。
「熱いから、ゆっくりね」
「あ、ありがとうございます……」
やはり甘いものを食べると熱いお茶が飲みたくなるものだ。一緒に買っていたペットボトルのお茶はもうだいぶ冷めてしまっているし、そもそもペットボトルの回し飲みはどうかと思う。
「お腹になった?」
「はい。お腹空いてたので、おいしかったです」
「そっか。ならよかった」
飲み終わったコップを受け取ると、私は改めて女の子の顔を見て口を開いた。
「案内してもらう前に、名前言っとくね。私、
「わ、わたしは、
「鈴ちゃんね。よろしく」
「は、はい……。……ましろ……さん」
「さんはいらないよ。ましろでいいよ」
「え、じ、じゃあ、ましろちゃん、で……」
「うん、それでいいよ」
行こう、と。
私は立ち上がり鈴に手を差し出す。
その手を鈴は握り、二人して私のさす折り畳み傘に入り、夜に変わりつつある街へと消えていった。
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