第七章
第七章
数日後。
「へえ、太田義春の追悼句集ですか。そういえば、僕も彼の著作は、読んだことがあったけど、本当に純粋一筋って感じの作家でしたね。」
「ええ、私はよくわからないですけど、読んでくださる方はそう言ってくれます。まあ、出版されたのは、本当に数冊しかありませんでしたが、印象に残るのであれば、それでいいと思っていました。でも、それがもう一つ増えるなんて。」
ジョチにそういわれて、咲は少し照れくさそうに言った。
「へえ、本なんてまるで縁はないが、どういう内容を書いていたのかだけは、興味あるな。」
と、腕を組みながら杉三が言う。
「まあ、ジャンルとしては純文学ですね。いわゆるファンタジーというものは書きませんでした。それよりも、リアリズムに徹底して、弱い人たちが、権力者からうまくすり抜けながら、生きていく様子を書いてました。僕が印象に残っているのが、障碍者が生活のために違法薬物を売りさばいた場面でした。あのシーンは、衝撃的ですね。」
「そうなんですよ。あれ、学校の先生をされている方からは、人種差別だといって、かなり問題になったんですよ。」
咲は、ジョチの発言に思い出し笑いをするが、横になってその話を聞いていた水穂は、たぶん、弱い人たちであれば、やらざるを得ないと思った。
「いや、いいんじゃないですか。彼の本のおかげで、障害のある人たちが、いかに経済的に困窮しているのか、知ることができましたよ、僕は。売れた本が、よい本とは限りません。それは、一人ひとり違っていいはずです。」
「ありがとうございます。曾我さん。確かに、ベストセラーということにはなりませんでしたが、そういう風に思ってくれる人がいて、よかったと思うことにします。」
「でも、本音では、もっと良い生活したかったんじゃないんですか?」
咲の発言に、水穂が口を挟む。
「そうね、一緒にいたころは、そうは思わなかったけど、今はそう思っていたかもしれないと思うことにしています。」
「そうですよね。問題提起ばかりしていてはね。」
水穂の前では、本音を隠すことはできないなと咲は思った。なぜか、主人と共通するところがあると思ったのだ。
「まあな。問題を穿り出すだけではなく、生きている幸せも書かないと、この世では生きていけないよ。誰でも。」
杉三がそう発言したので、一瞬、全員複雑な気持ちになった。ここにいる一人は、人間が作り出した制度のせいで、生きている幸せというものは得られないでいる。
「そうですねえ。せめて、最期には、そうなってもらいたいものですね。」
「あたしの主人も、問題を出すことは成功したけど、それを得る前に逝ったって感じかしら。」
水穂は、答える代わりにせき込んだ。
ジョチが、彼の体をあおむけから横向きにさせて、そっとその背をなでてやった。
「でね、今日、試し刷りの本ができたんですよ。皆さんにお見せしようと思って持ってきたんですけど。」
咲は、鞄の中から、一冊の本を取り出した。
「あ、これですか。ずいぶん可愛い表紙ですね。ピンクの表紙なんて、追悼句集にしては珍しい。」
確かに、追悼と言えば、黒とか紫を用いるのが一般的である。ピンクというのは確かに珍しかった。
「ええ。そうかもしれないんですけど、生前主人が、一番純粋な心を表す色がピンクなんだとよく言ってました。言われたその時はよく意味がわかりませんでしたけど、生徒さんたちがピンクが好きな子がとても多かったので、そういうことなんだなと考え直して、ピンクにしました。」
「男のくせにピンクかあ。なんだか、男らしくないな。」
咲の説明に杉三がからかいを入れた。
「ちょっと中身を拝見しても構いませんかね?」
ジョチがそういうと、咲はええどうぞ、と応じた。そこでジョチは押し入れから以前買ってきたビーズのクッションを取り出して、水穂の背にあてがってやった。水穂はこれで、人為的に起き上がっている格好になった。
「どうぞ。読んでみますか。」
本が水穂の手に渡される。水穂はページをパラパラとめくって読んでみた。
「可愛い句集じゃないですか。ところどころにお花の写真が掲載されてて。この句は生徒さんたちが詠まれたものなんですか?」
「ええ、そうなんです。添え文が主人のものです。第一部は、生徒さんたちの句の中から印象に残ったものを選んで、掲載させていただいて、二部は、主人の句を掲載しています。」
「そうですか。なんだか読ませていいただきますと、生徒さんたちが提起している諸問題に、ご主人が答えを出してくれているような気がします。これまで、この人は、諸問題を数々提起していたのですが、この俳句集でやっと彼なりに答えを出してくれたんじゃないかな。」
「すごいですね。水穂さんは、やっぱり天才と称されただけあって、読みも深いんですね。」
咲は、そう読んでくれる水穂に、なぜか感心してしまったのだった。
「いいえ、そんなことありませんよ。俳句って、本当に短い言葉で全部を表現しなくちゃいけないから、ある意味音楽よりもすごいんじゃないですか。なかなか、短くまとめるって、難しいことですし。」
「まあ、書く側もそうなんですけど、短い言葉しかない以上、そこから連想して情景を想像しなければなりませんので、俳句というものは、やはり読む側にも書く側にも難しい文学だと思います。」
「そう、ジョチさんのいう通りだぜ。ただ、表示されているだけでは何もわからんもん。だから、それを読むために知識がいる。感情で読めちゃうってのはやっぱりすごいの。最も僕は誰かに読んでもらわないと読めないが。」
杉三が、水穂を激励するように言った。
「まあ、そうですね。杉ちゃんみたいな文字に頼らないで感情表現できる人は、結構表現させるとすごいものを書いたりすることもあるので、バカにしてはならないんですけどね。」
ジョチの発言がもし正しければ、障害者問題なんてすぐに解決できるんだろうな、と咲は思った。そうなったら、こういう本の位置づけも又変わってくる事だろう。
「それでは、これからどうするんです?正式に出版に向けて、忙しくなるでしょうに。もし、この本が書店に出されて、売り出されるとなれば、また状況も変わってきますよ。」
「ええ、そうですね、理事長。そのことでお話があるんですが。」
ジョチがまたそういうと、咲はこんなことを言い出した。
「私は、ぜんぜん知らなかったんですけどね。主人の著作を再度出版しなおそうという動きが、すでに一部の人の間で盛んにおこなわれているんだそうです。発端は、あの事件だったらしくて。あの事件の後、職場の中で変にバカにされたりして、より一層悪化させてしまった人が本当に増えてしまったそうです。それで、過去にいた、そういう人たち味方になった人というんでしょうか。その人たちにもう一回活躍してもらおうという動きが盛んらしいんですよ。」
「ああなるほどね。あの事件の犯人の主張は、多かれ少なかれ誰でも感じていることだと思いますし、それを具体的にしてしまったのが、あの事件ではないかと僕も思いました。そうなると、より、障害のある人たちが肩身の狭い思いをしていくのは明白です。そういうところをストレートに描いたのも、太田義春だったと思いますので、彼が選ばれたのもある意味わかりますよ。」
「それでですね、大変申し訳ないんですけれども、私も、生前の主人について、その暮らしぶりを書いてもらえないかと、檜山喜恵さんが言うんです。先日蘭さんと来てくれて、そんなことを言ってました。だ、だからすみません。私も原稿を書かなければなりませんので、焼き肉屋さんでの仕事は、毎日は通えないかと、、、。」
咲は申し訳なさそうに言った。一度雇ってもらったところに、勤務変更を申し入れるのは、誰だって相当勇気が要る。
「ああ、そうですか。別にかまいませんよ。うちの焼き肉屋で働いてもらうにあたって、勤務時間や勤務体制に縛られて体調でも崩されたら困りますからね。たぶん、敬一が話したと思うんですけど、勤務時間は、こちらで用意しないで、基本給だけだして、あとは本人の設定に任せるということもできますから。問題はそれの意味を理解しないでいる人が多いことですけど。」
と、言うことはつまり、斬新なシステムを持っていることがわかる。このシステムは、一般的にいったらちょっとおかしなシステムであると思われるが、こういう事情のある人にとっては素晴らしいのかもしれない。
「ただですね。人が慢性的に足りないことは確かですから、なるべくなら来てもらいたいのが、こちらの本音ですけどね。」
ジョチがそういうと、笑い話になってしまった。水穂だけ、笑うのではなく咳き込んでいた。
「おいおい、本は汚さないでくれよ。頼んだぜ。」
杉三にそういわれて、水穂は持っていた本を咲に返した。
「もう横になったほうがいいですね。疲れちゃったんでしょう。杉ちゃん、悪いのですが、体を支えてやってくれますかね。」
「おう、わかったぞ。」
杉三が、その通りに水穂の体をそっとつかんでやると、ジョチは彼の背を支えていたクッションをそっと外した。そのあとで、二人そろって静かにそっと、横にならせてやった。
「寒いですからね。布団、しっかりかけて寝るようにしてくださいね。」
そういってジョチはかけ布団をかけてやった。
「はい。」
水穂は静かにため息をつく。恵子さんのよくやる乱暴なやり方とは偉い違いだった。それを口にしようと思ったけれどもせき込んで、口にできなかった。それでも、杉三たちが何も言わないでくれるのが、唯一、ささやかな喜びかもしれなかった。意外なことかもしれないが、何か声をかけられると、結構つらい思いをすることもあるのである。
暫く、何も発言せずにそのままでいた。その間に、ジョチと咲は本を出版することについての注意事項などをしゃべっている。インターネットでなんでもできてしまう現在、本はもしかしたら、インターネットのできない社会的弱者だけのものになってしまうという危惧がある。もしかしたら、昔からあるものが、あたらしい物の使えない社会的弱者の象徴になってしまい、しまいには本もそうなってしまう、そうなってはいけない、本は本として残ってもらうように、印象に残るものを書いてください、なんて話を繰り広げていた。杉三だけ、一人水穂のそばにいた。静かにしていると、次第に眠くなってきて、うとうとしてきた。
きっとそのうち、自分のもとからみんな離れていくんだろうな。きっとこうしてそばにいてくれる人など、誰がいるんだろう、なんて、そんなことを考えていた。不思議なことに、寂しいとは思わないつもりだったが、なぜか変な気持ちがわいてきてしまうのだった。理由なんてそんなことは知らない。ただ、寂しいなと思ってしまうのである。
「水穂さん、お体どうですか?」
ふいに、そう聞かれてハッと目が覚める。
「え、ああ、ごめんなさい。うとうとしていて。」
とりあえず、そう答えを出した。
「ごめんなさい。起こしてしまったかしら。」
「そんなこと、ありません。単に疲れてしまっただけですから。誰かが話してくれているのを聞くのが結構心地よくて。」
「まあ、そうなのね。それならよかったわ。何か、体に変わったことありませんでしたか?」
「ええ、昨日沖田先生がこちらに見えましてね。診察していかれましたよ。最近は、かなり体力も落ちたねとは言われましたね。今みたいにすぐに疲れてしまうのも、具体例の一つでしょう。そういうわけでもあり、目下、暫くの間は体を安静にして横になっていることが必要になるそうです。」
本人の答えではなく、代わりにジョチが答えを出した。こういわれてしまうとずいぶん事務的だ。そういうことは、なんだかそんな言い方をされてしまうと、ものとして扱われているみたいで、何となく嫌だな、という印象を与えた。
もう仕方ないことかもしれないけれど、これからこうなってしまうんだろうな。そんな風に水穂は自身の生活を予測した。
一方、このやり取りで、咲も何か印象を持った。なぜか、夫の義春も、自分はこの世の中で要らない存在になっていくんだろうな、といっていたことがよくあった。今はね、お金を作って、家族をやしなって、安定した生活ができないと、生きてはいけないというか、生きていると言ってはいけないんだよ。ただ、いるだけの人間は、税金の無駄遣いしかみなされないんだよ、なんて晩年の義春はよく言っていたものだった。絶対にそういうことはないと、咲は言い続けたが、義春の主張はなくなるまで変わることはなかった。今の水穂さんは夫のそういうところにそっくりだ。過去に天才と言われていた時期もあったのかもしれないが、今はものとして扱われているようになっている。
何かして、やりたいな。
咲はそんな気持ちになった。
「水穂さん、何かしてみたいこととかそういうことはないですか?」
そっと聞いてみる。
彼は、その問いかけに戸惑った顔をした。
寂しいと感じていると、いざ、支援者が現れた場合、疑ってしまうのが、人間というものである。水穂も例外ではなかった。
「そうですね、体のことを考えると、横になっていなければなりませんので。」
「ねえ曾我さん、何かできることってないかしら。そのままでもいいから、何か生産的なことって、本当にないの?」
ここで何があるんだろう?と言われてしまうと、答えがない。まず、寝たままでいることが不可欠なのであって、動いてしまうことは禁句とされるからだ。
だからこそ、いらない人間とされてしまうのだが、、、。
それではまずいとされてしまうのが、人権ということになるが、表面的に言ったら、水穂は食べるだけで消費するだけの人間であり、それを生産する道具は作り出すことができない。
そこが、生産を優先してしまう現代社会と対決することになって、問題化してしまい、殺人事件やテロ事件のきっかけになってしまうのである。
「事実上で言ったらないでしょう。ですから、こういう人は、共産主義とか、特別なものに助けてもらわないと生きていかれないんですよ。」
「曾我さんって、本当に何でも言うのね。私の夫も書物の中で、そういうことを書いていたのかな。」
ここで、二人の話はまた止まった。とにかく、水穂も一人では何もできないし、何かを提供してやることは、もはやできないことを、もう一度上げておく。
「なあ、待ってくれ。確かにできない事は山ほどあるが、この人は文字もかけるし、達筆な文字でも知られている。あるいは多言語家でもある。そこを使って何とかできないだろうか?」
杉三が、ふいにそんな発言をした。
「しかし杉ちゃん、文字というものはいわば誰でも、かけるものですしね。誰でも持っていて当たり前のことですが、、、。」
「そうか、当たり前のことは商売にはできないのか。」
杉三はがっかりとして言った。
「まあ、確かに当たり前のことを商売として成り立たせるには、ハイチみたいな後発開発途上国と呼ばれているとか、そういう場所に行かないと、成り立ちませんね。ほとんどのことが、機械でできてしまいますからね。」
「うーんそうかあ。なんとかして、水穂さんにも役割を持ってもらわないといかんな。でもさあ、人間だもん、機械じゃないだろ?間違えることだってないわけじゃないしな。」
杉三は、そんなことを言い出した。
「そうですね。確かにそれは言えているかもしれませんね。一昔前なら、隣の人が声をかければ解決するようなことが、テレビのニュースで、大問題になっていることも少なくありません。それにしても、本当に単純素朴な間違いが、テレビのニュースで取り上げられて、なんてばかばかしい時代になったのかと、笑ってしまうことはしょっちゅうあります。」
「だったらね、間違いを直させるのなら、できるんじゃないの?一人で仕事をさせるのは、水穂さんにはできないが、他人の仕事を直させることはどうだろう。さっきも言った通り、間違いしないやつなんて、どこにもいないんだからよ。」
うーんなるほど。それは確かにそうだ。そのくらいなら、水穂の体力でもできそうなことだ。それなら話は早い、とジョチも決断する。
「そうですね。じゃあこうしましょう。咲さんが持ち込んだ原稿を、水穂さんが確認して誤字などを訂正し、再び咲さんに書き直してもらう。非常に単純な作業ですが、水穂さんにはこれだけでも、かなり大きな役割にもなるでしょう。咲さんは、原稿を書き終わったら、定期的にこっちへもってきてください。そういうわけで、ワープロでの原稿は避けた方がいいですね。」
「ええ、わかりました。幸い、原稿用紙はすぐに手に入りますし、私もワードというものがあまり得意ではないので、手書きのほうが書きやすいです。じゃあ、私も、頑張って原稿を書きますから、訂正よろしくお願いしますね。」
咲は水穂に声をかけたが、水穂はぼんやりとしたままだった。
「水穂さん、もう、そんなにぼんやりとしてはなりませんよ。あなたも、これから咲さんの原稿を校正してもらうという作業をしてもらわなければならないんですよ。」
ジョチに言われて初めてそれを任されたことに水穂は気が付いた。
「あ、ご、ごめんなさい。ぼんやりしてしまって。」
思わずそういうと、
「よろしくお願いしますね。水穂さん。」
咲がにこやかにそういうのだった。
「よかった。これで何とか持ち直してくれればいいのですけどね。とにかく、前向きになってくださいませよ。それにしても、杉ちゃんという人は、変なところに着目するものですな。本当に、どこか変わっていますよ。」
ジョチは、ひとつため息をついて、軽く笑った。
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