第六章

第六章

製鉄所から戻ってきた咲は、風呂に入って、自分の着ていた服の汚れを確認した。確かに、肩の部分に、赤い液体が少し付着していた。恵子さんが隠すようにと言っていたのはこれのことか。これなら、強力な洗剤で洗えばすぐに取れるだろう。なんて思いながら、咲は洗面台に湯をためて、服を洗った。予想通り、汚れは洗剤ですぐに取れた。ちょっとほっとして咲は服を洗濯機に入れてそのまま入浴し、パジャマに着替えて部屋に戻った。もうくたくただった。


一方、蘭の家では、蘭が、水穂に会いたくても会えない苛立ちをこらえながら、一人で食事をとっていた。その日も、アリスは、若いお母さんのために、講座を開講するため公民館に出かけていて、まだ帰ってこなかった。蘭は、そのほうがうらやましいと思った。忙しいほうが、毎日も充実するし、余分なことも考えなくていい。

ふいに、どこからかスマートフォンが鳴った。画面を見ると、東京の日野市に住んでいて、たまに富士市にやってくる、檜山喜恵おじさんからだった。

「あ、もしもし、喜恵おじさん。なんですか?僕は何も変わりはありませんけど?」

「おう、蘭。まあ怒るな怒るな。あのなあ、ちょっとお前に聞きたいんだが、太田咲さんという女の人を知っているか?」

喜恵おじさんは、電話の奥でそういっている。

「知っていますよ。彼女がどうしたんですか?ていうか、なんで喜恵おじさんが、彼女に用があるんですか?」

蘭は、ムキになってそう言いかけるが、喜恵おじさんの言葉には妙な響きを感じてしまった。

「そうか。知っているんだったらな。すぐに彼女の住所と連絡先を教えてくれるか?すぐに連絡をして、訪問したいんだよ。」

いきなりそんなことを言ってくる喜恵おじさんに、蘭は少しいら立って、

「何ですかおじさん。いきなり女性の連絡先を教えるなんて、できませんよ。」

といったが、おじさんは、電話口でからからと笑った。

「馬鹿だなあお前。彼女は太田義春の奥さんじゃないか。ちょっと、彼女にお願いしたいことがあるんだよ。」

「何ですか。僕は認めませんよ。おじさんが女の人に、無断で連絡するなんて。」

「ははは。お前も警戒しすぎだなあ。おじさんが今まで女の人に手を出したことなんてあるか?そんなことしないよ。全く、お前のお母さんの晴ちゃんも、おじさんのことを相当悪く言ってたみたいだなあ。やれやれ。」

まあ確かに、蘭の母晴が、喜恵おじさんはダメな人と、さんざん言いふらしていたことは間違いないが、これはきっと、晴がもの書きという安定しない職業をことごとく嫌っていたためだろう。

「よし、初めから話すぞ、蘭。あのなあ、三年前に亡くなった、太田義春。つまり、太田咲の夫だ。相模原市で、三年前に敗血症でなくなったんだけど。」

おじさんの前書きはいつも長い。これも晴から聞かされている。

「でな、その太田義春が、相模原で咲と暮らしていた時に、自宅で近所の子供たちに俳句教室をしていたんだ。今年三回忌ということもあり、俳句教室の生徒さんたちが、太田義春の句と、生徒さんたちの句を記載した、追悼句集を出版したいと、僕の所へ申し入れてきたんだよ。その許可をもらいに、奥さんである、太田咲に連絡を取りたいんだよ。どうだ、蘭。お願いしてもいいかなあ?」

なんだ、そういうことか。蘭は力が抜けると同時にほっとした。

「ほら、やっぱりさ、勝手に出版しちゃうと、著作権の問題もあるだろ?だから身内である奥さんの許可が必要なわけ。もう出版したい句などはすでに集めてあると生徒さんたちは言っている。なので、すぐお願いに行きたいから、明日当たり、富士へ行ってもいいかなあ?」

全く。やることなすこと、気が早いんだら。そうぱっぱぱっぱとすぐに行動してしまうのも、喜恵おじさんならではである。

「あ、泊るところは、タブレットで手配するから、お前は心配しなくていいよ。」

「わかりました。じゃあ、明日来てください。新幹線が到着したら迎えに行きます。」

「おう、頼むよ蘭。そうしたらすぐに太田咲の住んでいるところへ案内してくれ。タクシーでもバスでもなんでもいいから。」

「わかりました。最寄りバス停がないので、タクシーを手配します。」

「おう、ありがとう。それからな、余分なことは考えるなよ。例の美男子さんのことを気にしているようだが、相手にはいい迷惑であるってこともあるんだからなあ。」

最後の一文だけ余分だったが、喜恵おじさんは、そう言って、電話を切った。


翌日。

「蘭、電話よ。喜恵おじさんから。なんでも始発の新幹線に乗ってきたから、あと十五分くらいで新富士に着くって。迎えに来てほしいって。」

蘭が朝食を食べていると、アリスがそんなことを言ってきた。蘭は、もう来たのか!と驚いてしまった。

「早く行きなさいよ。日野は田舎だから、電車の本数が少なくて、早く出てきちゃったんですって。そうしたら、早く着きすぎちゃったって。」

ああそうか、日野駅は、都内で一番の田舎駅で、確か中央線の特別快速も止まらない小さな駅であった。そうなれば、電車の本数も少ないだろうし、はやく出てしまうのもしかたないことだ。

「ほら早く行きなさいよ。タクシー会社へ電話しなさい。」

蘭は持っていたパンを急いで口の中へ押し込み、コーヒーで流し込むと、急いでスマートフォンをとった。

来てくれたタクシーで、急いで新富士駅へ向かうと、喜恵おじさんはすでにタクシー乗り場で待っていた。タクシーを止めてもらって、おじさんに声をかけ、車に乗ってもらう。

「いやあ、新幹線の中で原稿を書いてしまったので、目がしょぼしょぼして仕方ないな、やっぱり年だね。」

あくまでも陽気な顔をして、喜恵おじさんは、メガネのレンズを拭いた。

「では、すぐ奥さんの住んでいるとこへ、連れて行ってくれ。何処に住んでいるのかな?もしかしたらかなりの辺境かな?」

おじさんはそう蘭に聞いた。

「ここから30分くらいです。辺境というわけではないのですが、いずれにしろ東京住みのおじさんにとっては、富士なんて何処へ行っても田舎なんじゃなんですか?」

蘭はおじさんに向かってそう答えを返す。

「お客さん、この道を右へ曲がればいいのね。」

間延びした運転手の声に、蘭はハッとして、

「は、はい!右へ曲がって、暫く道なりに進んで、製紙会社の突き当りを左に曲がったところにあるマンションです。」

とでかい声で言った。

その通りにタクシーは進んで、咲のマンションの前に到着する。運転手に手伝ってもらって蘭はタクシーを降りた。その間に喜恵おじさんは、タクシーにお金を払って、帰りも乗せてくれるようにお願いした。

運転手が戻っていくと、蘭たちは、咲の部屋の玄関先にいった。ずいぶん、高級そうなマンションじゃないか、と喜恵おじさんは言ったが、このくらいなら富士では家賃が安いから住めるんですよ、と蘭は冷ややかに答えた。

「じゃあ、いらっしゃるかどうか。」

蘭は、インターフォンを押した。はあいと声がしたため、いてくれてよかったと思った。

「あの、伊能ですが、今日はちょっと、大事なお客さんを連れてまいりまして。」

がちゃんと音を立てて、玄関のドアが開き、太田咲が出てきた。

「あの、すみません。この方、僕のおじさんにあたりまして、今は文筆家をしております、」

「檜山喜恵と申します。」

蘭がそう紹介すると、喜恵おじさんはすぐに名前を名乗った。咲は少し警戒しているようであったが、

「と、とにかくどうぞ。」

二人を中へ入れてくれた。

「まあ、お茶も何もないのでジュースになってしまいますけど、どうぞ。」

そういって、二人をテーブルに座らせた。

「なかなかきれいなお宅ですな。この辺りは、立派なマンションが多いようですね。うらやましいなあ。」

蘭は、だから、それは単に、家賃が安いだけのことです、と訂正しようとしたが、一応お世辞は言った方がいいのかなと思い、それは口にしなかった。

「あの、お二方は、今日は、どうしてここへ来られたのでしょうか?」

と、咲が聞いた。喜恵おじさんは、待ってましたとにこやかに笑ってこう切り出した。

「ええ、実はですね。三年前に亡くなられた、あなたのご主人についてのことなんです。」

「主人?あ、あ、あの、太田義春のことでしょうか?」

喜恵おじさんの発言に咲は思わずとまどった。

「ええ、そうです。確か、三年前に、敗血症のため急逝されましたな。僕も、彼の夭折には驚いてしまいました。まず、お悔やみ申します。」

「はい、ありがとうございます。もともと、亡くなる三日前から体調を崩していましたが、まさかそのままなくなるとは、私も予想してなくて、その時はすごくパニック状態でした。結婚する前から、ものすごく体の弱い人で、すごく頻繁に熱を出して寝込んでいましたが、まさか、こんな形で終わってしまうとは、思いませんでした。」

喜恵おじさんがそういうと、咲はそう話した。それは確かにそうだった。人が亡くなるというのは衝撃的だし、急逝となれば一層のことである。

「そうですよね。しかし、日ごろから、体調を崩しがちだったのなら、あの相模原の田舎ではなくて、もう少し便のいいところに住んでいてもよかったはずなのに?」

喜恵おじさんは一般的なことを聞いた。蘭もそのほうがいいのにと思った。

「ええ、結婚した時、そうした方がいいのではないかと思って、都心部に住むことも考えたんですが、そうなると、騒音がうるさかったり、空気が悪くて体調を崩してしまうこともありますので、比較的静かな、相模原に住むことにしたんです。高尾駅から次の相模湖駅近くに。」

「ははあ、なるほど。何分田舎のつましい生活だったようですが?」

「ええ、確かに彼も弱い人であり、会社に勤めるということができなかったものですから、経済的には豊ではありませんでしたよ。でも、彼は大変優しい人で、いろいろ気遣ってくれましたし、料理や洗濯もしてくれました。レジャーへ出かけることはできませんでしたが、暇なときは相模湖の湖畔を散策したりとか、貸しボートで相模湖を横断したりとかして、遊びに出かけて。それで充分でした。あ、もちろん、彼は体力的に無理でしたから、ボートを漕いでいたのは、いつも私でしたけど。」

そういって、夫、つまり太田義春との思い出を、楽しそうに語る咲だった。これがもしかしたら、改姓しない理由なのかもしれなかった。でも、蘭は、刺客として彼女を送ることは、続けたいと思った。

「まあ、そうして楽しい生活だったんですけど、あの事件が起きた後は、彼もすっかり体調を崩してしまって、私も、都内に出稼ぎに行ったりして、少しばかり大変な生活にはなりました。でも、今までのことがあったから、離婚しようというきは毛頭なくて、ずっと一緒に暮らすんだと思いました。」

あの事件か。住んでいたところから判断すると、例の大量殺人だろう。一見、無関係だと思われる人にも、こうして被害を出すんだなあと、蘭は憤りが生じた。

「もともと、体の弱かったせいか、あの事件の被害にあった障害のある人や、精神障害のある人たちには、愛着があったようなんです。だから時々、相模原に引っ越した時から、障碍者施設で、読み聞かせのボランティアをしていました。朗読も本当に上手で、施設の利用者さんからもとても人気があったようです。中には、手紙のやり取りをしていた、子供さんまでいたんですよ。」

そういうところこそ、蘭が水穂に、目を向けてもらいたいと思っている分野でもあった。しかし、手を出せるかは、やはり、もともと差別民でなかったということが大きいのだろうか。水穂にも、そういう人たちを癒してやれる力があることに気づいてもらいたいところだった。

「そうですか。僕もね、太田さんはそういうところが得意だって、出版社の人から聞いたことがありました。僕もね、太田さんと同じところで、本を出させてもらっていたので、よく聞いていたんですよ。奥さんがここに住んでいることは、たまたまこの蘭が教えてくれまして、今日やってきたわけですが。蘭はね、僕の甥にあたるんです。」

喜恵おじさんは、長い前置きを語らせた後、やっと本題に入り始めた。これはおじさんの得意技だ。前置きを話させて、相手の警戒心を緩めるのである。

「それでですね。彼は、生前、相模原市内で、子どもたちや障害のある人たちを中心に、俳句の指導をしていませんでしたか?」

「ええ、やっていました。外へ働くのはできないけれど、せめて家の中で何かやりたいと言い出して。私も、道具として、筆や紙などを買いに、八王子の百貨店に行ったことがありました。」

おじさんの問いかけに、咲は明るく答えた。

「それでですね。ちょうど今年、太田さんが亡くなって、三年になることもあり、これまでの俳句教室の軌跡として、太田先生と、生徒さんたちの俳句をまとめて追悼句集を出版したいと、僕のところに申し入れをしてきましてね。今となっては、太田さんの唯一の身内は奥さんですから、許可していただけないでしょうか?もちろん、商業出版ですから、費用は必要最小限です。乗り気になってくれている印刷屋さんもございます。何か、障壁があるわけではないのなら、お願いできませんか?」

やっと本題を切り出したおじさんに、咲はとても戸惑った顔をした。

「あの、それは本当に、主人の生徒さんたちがお願いして聞いたのでしょうか?」

「ええ、そうですよ。生徒さんは、確か、十人いましたよね?皆さん、意思を表現しにくい方々のようですが、保護者の方だったり、旦那様、奥様などが、大勢で見えられました。僕は東京の日野市に住んでいるのですが、ちょうど中央線で相模湖駅から日野駅まで来てくれたようで、相模湖駅は電車の本数が少ないけど、日野駅は意外に近いし、小さな駅でわかりやすいから、意外に来やすいね、なんてことを話ながら、来てくださいましたよ。」

「ほ、本当に、あの人たちが活動し始めたのでしょうか?」

「咲さん、どうしてそんなに疑うんですか?良い話ではないですか。ご主人の本がもう一冊増えるんですよ?もし売れれば印税も入りますし、生活も少しは楽になるのではないでしょうか?」

何回もその反応をする咲に、蘭は思わず言った。蘭にしてみれば、せっかくの良い話を、へりくだりすぎて断っているように見えた。なんだか変な人のように思える。

「主人が生前に言っていたんです。自分がしていることは、社会的に言ったら、何もよいことではないから、絶対にこの教室を、公表しないでくれって。だから私、主人が亡くなったとき、すぐに教室を解散させました。生徒さんたちも、そうしてくださることこそ、偏見がないということだとわかってくださって、潔く、承諾してくれました。」

ああ、なるほど、と、喜恵おじさんは言っていたが、蘭は納得することはできなかった。

「そういうことを言って、内密に行っていた俳句教室でしたから、生徒さんの気が変わったのでしょうか?私はそれがわかりません。ですので、どうしても、生徒さんたちが、お願いに来たというのを、信じることができません。」

「そうですねえ。確かに、出版業界には詐欺まがいの人もいるんですが、今回のことは、ちゃんと僕の家にやってきたことは確かなので間違いはないですよ。ほら、先ほどの電車の話が来訪した動かぬ証拠ですよ。」

確かに相模湖駅から東京方面へ向かう電車は極めて少なく、一時間に一本か二本しか走っていないことは蘭も知っていた。でも、言ってみれば、太田義春は、障害のある人たちに、俳句を教えていたのだから、一種の支援活動であり、なぜ、そんなに卑下する必要があるのだろうか?

「確かに、太田さんの著作に描かれているキャラクターたちは、果敢に現実に立ち向かうのではなくて、周りの好意と思ってやってくれていることに、妨げられたり、傷ついたりすることが多いですね。太田さんは、そういうところをストレートに描いた人物です。そういうことを書いていたのだから、俳句教室をして支援をするということは、太田さんにとって恥ずかしいことだったかもしれませんねだけど、考えてみたまえ。僕のところに出版を申し入れてきたのは、間違いなく、教室に参加していた、生徒さんたちだったんですよ。」

「きっと、障碍者支援団体が、資金集めとかするために、生徒さんたちをそそのかしたのではないですか?」

「いいえ、自らの意思で、出版したいと思い立ったそうです。」

「でも、あの人たちは、過去にも今にも、これからも、つらい人生を生きていく人たちですし、簡単に考えを変えていくことはあるでしょうか?」

「あるんですよ。きっかけは、あの事件だったそうです。太田さんが亡くなるきっかけにもなってしまった、あの事件。」

喜恵おじさんは静かに言った。

「あの事件を受けて、生徒さんの中には、ものすごい偏見の目で見られる方も少なくなかったようで、自分たちを本当に楽しませてくれた、太田義春先生に感謝して、本を出したいと思うようになったそうです。」

咲の目に涙が浮かんできた。

「確かに、生徒さんたちは、みんな障害のある人たちばかりでした。あの事件のあと、一人の生徒さんが、偏見に耐えきれなくて、自殺を図ってしまいました。幸い一命はとりとめましたが、主人は、その人を助けてやれなかったんだと、ものすごく悔やんで、次第に体調を崩すようになってしまって。」

「そうでしょう。ですから、生徒さんたちは、先生の後を受け継いで、動かなければいけないと思ったそうですよ。だからまず、自分たちを支援してくれた、太田先生の業績を讃える活動をしたいと思ったそうです。どうですか、奥さん。彼らの世の中への思い、許可してやってくれませんか?」

喜恵おじさんは、もう一度頭を下げた。

咲はしばらく考えて、涙を流したりしたが、そのうち何か決断したようで、

「わかりました。出版してやってください。そうしてやって下さい。」

といった。

これを聞いて蘭は、人が死んでからでないと、世の中というものは動いてくれないのだろうか、と思った。

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