第五章

第五章

咲が製鉄所を出ていったのと同時に、今西由紀子が、製鉄所の入り口に到着した。あれ?咲さんがなんで恵子さんのジャージを?と思ったが、直感的にこれは何かがあったなと勘づいてしまった。由紀子はすぐに顔色を変えて、製鉄所の中に入った。入る口実なんて、まったく覚えていない。ただ恵子さんが、入らせてくれたから、許可してもらうことはできたことを喜んでいた。

由紀子が四畳半へ入ろうと廊下を歩いていくと、あ、あ、あ、とあえぐような声と、ドカッと布団に倒れ込む音がする。これが何回か繰り返されていた。それと同時にふすまから隙間風がピーっと鳴って入ってくる音が、交互に聞こえてくる。

「水穂さん。」

静かにふすまを開けたのと、布団に倒れ込んだのと、ほぼ一緒だった。

たぶん、何かを取ろうとして、布団に座ることを試みたのが、失敗したんだろうとわかった。でも、その何を取ろうとかそういう理由なんて、由紀子にはどうでもよかった。そんなことを聞き出す暇はなく、由紀子はやってしまいたいことがあった。

「あたしに掴まって。」

由紀子はそっと布団のわきに座って、両手を差し出した。

「で、でも、、、。」

本来なんでも自分でやるようにと言われているので、手を出すのに躊躇する水穂。でも、由紀子は、そんな取り決めなどどうでもよかった。それよりも、自分の一番やりたいことをやってしまいたい。実行するには、今しかないとおもった。

「ほら。」

そっと、彼の上半身を両手でつかんで、布団の上に無理やり座らせた。そして、彼の背中に腕を回し、彼の肩に顔をうずめる。

「何をするんですか。」

驚いた水穂は、そういうが、由紀子は顔を離さなかった。

「動かないで。一度やってみたかったのよ。今それがやっとかなったの。やっとあなたを抱きしめることが、できたんじゃないの。」

「そんなこと言われても。」

戸惑った反応をする水穂に、由紀子は顔を涙で濡らした。

「こうでもしなきゃ、わかってくれないじゃないの。あなた、あたしの思いなんか。伝えることはできないじゃないの。」

「由紀子さん。」

そういわれるが、由紀子はさらに強く彼を抱きしめた。

「由紀子さん。」

水穂は、由紀子に腕を解いてほしいようなそぶりを見せ始めたので、由紀子は自分のことを嫌っているのではないかと、勘違いして、不安になってしまう。

「由紀子さん。」

もう一回言われて、さらに彼を強く抱きしめた。

「嫌よ。あなたが、わかったと言ってくれるまで、あたしは離さないから。」

そういうと、

「吐き気が。」

そう返答が返ってきた。それでも由紀子は離れないでぴったりとくっついていた。

「由紀子さん、ど、どいてください。さもないと。」

「嫌!」

由紀子がそう叫んで、今一度彼を抱きしめたのと、水穂がせき込みだしたのと、ほぼ同時だった。いつもなら、赤い、生臭い液体がかかってくるんだと予測できた。由紀子はそれも受けるつもりでいた。だから、自分の体にそれが付着しても恥ずかしいなんてあるもんですか!と身構えていたのだが。

今回は咳き込み続けるだけで、何も出てこなかった。

「ど、ど、どうしたの、、、?」

咳き込むのと同時に、苦しそうにあえぐ声も聞こえてきた。顔を見ると、口の中に何か詰まっていて、それを吐き出したくても吐き出せないということを示している。

「薬、薬とってください。薬、、、。」

やっとそれだけ発言できたようであるが、

「嫌!」

由紀子はさらに強い声で言った。同時に力尽きてしまったのか、水穂が布団の上にドスンと倒れ込んだ。倒れてもまだ、苦しそうにせき込み続けた。肝心の吐瀉物は出てこない。由紀子はそのまま彼の体の上にかぶさった。

「薬、取って。」

もう一度そういうが、今度も由紀子はそれをせず、体に覆いかぶさって、そのままでいた。

「嫌よ。あなたは、それをしたら眠ってしまうじゃないの!そうしたら、あたしの問いかけに答えを出してくれなくなる。だから、そうなる前に、答えを出して。嫌ならずっとこうしていて。」

なおもせき込み続ける水穂に、由紀子は次のように言った。

「本当は、あたしがあなたを看てあげられたらよかったわ。こんなに、暗くて寒くて、隙間風のひどいところじゃなくて、もっと暖かくて、一日中陽が照っているところに住みたいわ。そうね、できれば、海の見えるところよ。あなたは、一日中何もしなくていい。海を眺めて眠っていてくれればいいの。あたしが、やることなすことは何でもしてあげる。たくあん一切れだけでもいいから、あなたが喜んで食べてくれれば、あたしはそれで十分よ。もし、家の前に岩がゴロゴロしていたら、それを掘り起こして、花の種を蒔くわ。暖かくなって、芽が出て花が咲いたら、花束を作って、花瓶に挿して、窓辺において、あなたがいつでも眺めていられるような、そういう場所を作りたい。こんなに古くて、寂しげに鹿威しが毎日毎日なっているような、さびれた場所なんか、とても休めるところじゃないもの。水穂さん、聞いてるの?」

いつの間にか、咳の音は消えて、あえぐ声も消えていた。

「水穂さん、咳が止まって、、、。あたしが、あたしが、問いかけていることわかってくれて、、、。」

「何をやっているんですか!ばかばかしい発言している暇があったら、そこをどきなさい!」

顔を眺めていると、頭上からげんこつが飛んできた。いたっと言って、思わず顔を上げると、そこにいたのは懍だった。どうしてここにと思ったが、そういえば、今日、長期出張を終えて東京から帰ってくると、恵子さんが言っていたのを思い出す。

「あ、、、青柳先生!」

「古くてさびれているような場所で申しわけありませんでしたね。今から、水穂さんの吐瀉物を、気道から取り除く作業をします。邪魔ですから、そこをどきなさい。」

懍の顔は厳しかった。

「先生、ご依頼通り持ってきましたよ。痰取り機。十年以上前に発売されていた代物なので、役に立つかどうかわかりませんが、とりあえず持ってきました。」

箱を持ってジョチが四畳半にやってきた。すぐに、彼は手早く箱を開けて、コーヒーメーカーと吸入器を掛け合わせたような機械を取り出した。

「由紀子さん、今から吐瀉物を取りますので、体から離れてもらわないと、肝心の作業ができません。ちょっと離れてもらえませんか。」

ジョチにそういわれて、由紀子は水穂の体から、ここで初めて自分の体を離した。青柳先生も、ジョチも自分のしたことを汚いことと評価しなかったのが幸運だったと思った。

「じゃあ、いきますよ、水穂さん。少しばかり、苦しいかとは思いますが、終わったら楽になると思いますので、我慢してくださいね。」

と言って、ジョチは水穂の口に無理やりチューブを押し込んで、痰取り機のスイッチを押した。ウイーンというモーター音と同時に、吐瀉物がチューブを上がっていく。

これは、赤というより赤黒い色で、明らかに血液の成分がおかしくなったことを示した。

「だめですね。先生。もうこれでは明らかに血液が変色しています。」

ジョチの言葉に、懍も静かに頷いた。たぶんというか、免疫の再狂暴化は、これまでの事例で確実になった。

由紀子は、何があったかわからず、呆然としていた。

その間に、吐瀉物はすべて取り出せたようで、痰取り機のモーター音は静かに止まった。

「吐瀉物は、保管して沖田先生に拝見してもらうほうが良いですね。」

「ええ、そうですね。そうしたら、彼が後、どれくらいなのかも、沖田先生に予測してもらいましょうね。」

「先生、痰取り機、そちらへ暫くお貸ししましょうか?このように、本人の力では、排出できなくなる、ということが頻繁にあると思いますから。」

「いえ、必要あらば、こちらで準備します。曾我さんも、もしもの時のために持っていたほうがよいではないかと思いますので。」

「そうかもしれませんが、僕は比較的軽快していますし、仕事もできますので、必要ありませんから、お貸しできますよ。」

ジョチはそう言ったが、

「いえ、曾我さん。あなたも、法的には必要な立場にあったのですから、持っておいてください。」

懍は笑って、彼の助けを断った。

「しかし、問題はここからですね。水穂さんが、もはやこうなってしまったからには、これ以上、回復ということはまずなく、悪化の一途をたどることは間違いありません。人材の確保というものも必要になりますし、彼自身も、衰退していくにあたって、精神的に落ち込んだり、不安定になることもあり得ますから、そういうことをうまく処理してくれる人物も必要になるでしょう。」

懍は教育者らしく、問題点をつかむのがうまく、ジョチも又実業家というだけあって、答えを出すのが早かった。

「ええ、幸い、精神科医の、免状を得ている影浦さんという方も近くにおられるようですので、そこは比較的早く解決できると思います。人材につきましては、僕が最近買収した会社から、連れてきましょうか?」

「買収、ですか?」

「ええ、先日、高校を中退した若者が起こした、小規模な会社を買収したのですが、なんとも、引きこもりとなってしまった若者を、便利屋として困窮している家庭に送り込んで、手伝いをさせるという会社なのだそうです。もちろんされる側も助かるだろうし、する側も社会生活を学べるといって、評判の会社ですよ。」

こういう、会社を買収したとかそういう話は、由紀子は好きになれなかったが、今思うと、曾我さんのしていることは、やっぱりすごいことだなとおもった。よく、曾我さんが、今の若い人たちは、その柔軟な感性を発揮して、新しい会社を興す能力はあるが、日本の伝統思想、つまり若者を快く思わない人たちによってつぶされてしまい、実現できなくなってしまうと嘆いていたことがあった。彼らの斬新な発想を、発想だけで終わらせず、会社として実現させてやるためには、会社を買収することで曾我家の一員としてしまい、彼らのビジネスを守ることが一番大切だと言っていたが、実はすごいことであったと思う。

「そうですか。わかりました。必要になったらお願いすると思います。それよりも、恵子さんや須藤さん、その他もろもろの方々に、彼の状態をはっきりと伝える必要がありますね。そこをはっきりとまとめてしまいましょう。」

「了解です。この話は彼女には聞かせないほうがいいでしょう。縁側に出ましょうか、先生。」

ジョチは懍を縁側に出し、自身も外へ出てふすまを閉めた。二人の偉い人たちは、小さな声で非常に専門的な話を始めたが、由紀子はどうしてもそれを聞きたく、ふすまに耳をつけてそれを聞いていた。

「まず、彼の患っている、疾病の名称をはっきりさせておかなければなりませんね。沖田先生は、彼はなんという疾病を患ったと言っているのでしょう?」

「ええ、沖田先生の診断によりますと、混合性結合組織病というものだそうです。それもかなり重度の。」

「なるほど。いわゆるMCDTで、通っている疾病ですか。」

ジョチの返答に懍はそう返した。

「ええ、そうなりますが、伝える際には、略語ばかり使ってしまうのは避けるべきだと思います。医者であれば、平気で略してもいいのでしょうが、頭文字だけ取っただけでは、かえって伝わりません。」

「そうですね。やたら略してしまうのも、考えものですね。」

懍は確かにと、ひとつため息をついた。

「話をもとに戻しましょう。いわゆる膠原病、自己免疫性疾患の一つですね。僕も、原住民に講義するために、少しだけ医学も学んだのですが、まず、あの疾病の原因は自身の血液中にある免疫細胞の狂暴化によるものと、確定しています。本来、免疫細胞は、有害物質と戦ってそれを破壊することによって、体を守る働きをしていますが、それが、何らかの理由で狂暴化し、自身の健康な臓器を破壊するのが自己免疫性疾患ですね。凶暴化した免疫細胞の種類により、全身性エリテマトーデス、全身性硬化症、多発筋炎、皮膚筋炎の四つの疾患に別れ、それぞれ単独で発症することが多いとされているのですが、ごくまれに、この四つの疾患が全部現れてしまうことがある。これですね。」

「ええ、さすが先生、よく存じていらっしゃいますね。」

そう聞こえてきたが、素人の由紀子には、この時点で具体的にどうなってしまったのか、わからなくなってしまった。

「この四つを並べても理解されにくいのですが、自己免疫性疾患の中で、大変酷い型であることは間違いありません。何しろ、古典的膠原病、4つの膠原病の症状が現れるわけですから、当然のごとく重症になりますし、致死率も極めて高い。」

と、聞いて、由紀子はさらに衝撃が走った。

「そうですね。彼もいつからそれを発症したのかは不詳ですが、いずれにしても最初は肺の破壊からはじまったことは間違いありません。咳き込んだり血を出すのがその典型例です。今回はおそらくですが、気道が硬化し始めていて、吐瀉物が出せなかったのでしょう。僕は、彼を観察して、極端な食欲のなさというのも、もしかしたら五臓六腑の硬化だと疑っていました。」

「たぶん、そうだと思いますよ。そして、これからさらに進んでくれば、死に至る疾患を自己免疫によって次々に起こしていくことは疑い在りません。四つの膠原病の要素が現れるわけですから。多発筋炎の症状として、心筋が弱体化すれば、心不全を起こして死に至るでしょうし、曾我さんがおっしゃってくれたように、消化器が硬化すれば、食べ物をとれなくなって、餓死ということもあります。

あるいは、全身の筋肉が萎縮して、指一本動かせなくなり、衰弱死ということもある。そういうわけで、この疾患を放置しておくと、在りとあらゆるところがやられて、死亡する可能性がいろいろ出てくるということです。」

「先生、それだけではないですよ。今日のように、吐瀉物が硬化した気道に詰まって、窒息死という可能性もある。ですから、重大疾患をもたらすことだけが死因となるわけではありませんよ。」

懍とジョチがそういいあっているのが聞こえてくるが、その通りのことが本当におきたらどうしようと、由紀子は不安になって涙を流した。

「できれば、今日のような逝き方は避けた方がいいでしょう。非常に多大な無念を残してしまいますし、本人にとっても周りにとっても、それはどうしても避けた方がよいです。」

「そうですねえ、曾我さん。人間と言いますものは、計画通りにはいかないで、後悔するほうが圧倒的に多いですね。悔いを残さないで逝ける人など、何処にもおりません。」

「ええ、そうですが、彼にはそうはさせたくありませんね。なぜなら彼はその身分差別のために、しっかりした医療も受けられなかったのです。」

曾我さんが、そういう感情を見せてくれたようで、ちょっと安心した由紀子だった。

「そうですが、人間である以上、最後に一つか二つは必ず悔いは残します。そうでなければ、新しい文明は訪れません。あなたも、実業家なんですから、私情を持ち込んではなりませんよ。」

青柳先生は、どうしてそういうことを言うのだろう。人間は、年齢を重ねると、機械と化してしまうのだろうか?由紀子は少し憤慨して、そういう人間にはなりたくないと思った。

「すみません。僕も反省します。話が脱線してしまいましたが、もう一回彼をどう看病していくかを考えましょう。たぶんここから先は、一般的な人、つまり恵子さんたちでは対処しきれなくなるでしょう。もちろん、進行次第ではありますけど。」

「ええ、それは当然のことです。消化器が硬化して食事かとれなくなれば、点滴による人工栄養に切り替えますし、気道が硬化してしまえば、気管切開をして、人工呼吸ということも考えられます。」

「そうですね。先生、そのような道具の調達は、僕たちで賄いましょうか。たぶん大変な費用が掛かるのではないかと思います。」

またしても青柳先生は、残酷な発言をした。それに、曾我さんも今度は取り乱さなかった。取り乱してくれたほうが安心感があるなんて、人間はなんて贅沢な動物なのだろうか。

「わかりました。その点についてはお任せします。やはり年寄りは、機械がらみになりますと、苦手意識がありますからね。そこは、どうしてもかないませんので。」

青柳先生はやっぱり、機械ではなく人間だった。

「あとは、そうですね。まだ先の話ですが、葬儀の日程も取り決めておく必要もありますね。これは本人の希望もありますので、ゆくゆく聞いていくことになりますが。」

「ええ。もしかしたらですが、本人が意思を伝えられなくなる可能性もありますから、生前葬という形もありますね。」

懍がそういっているのが聞こえてきて、思わず由紀子は、

「お願い、それだけはやめて!」

と叫んでしまった。

「何ですか。今の話を聞いていたんですか?」

いきなりふすまが開いて、懍がそういう。

「当り前じゃないですか!私は、耳が遠いわけではありませんから!」

完全に馬鹿にされたと思って由紀子は怒鳴った。

「由紀子さん、これは必ずやってくる話なので、もうあきらめてください。誰にも手を出せないことは、こうして訪れるものなのです。もう一度言いますが、」

「申し訳ありません!もうあたしも諦めますから、許してください。あたしは、もう何も言いません!」

ジョチの発言に由紀子は言いかけたが、

「いいえ、今の発言は信ぴょう性がありません。言葉は、時折本来の感情とは反対のことを言うことがあります。」

と、懍に言われて黙った。

「先生、人材派遣会社の連絡先をお伝えしたいのですが、何か書くものを貸していただけないでしょうか?」

「あ、わかりました。ここでは少々酷な部分もありますから、場所を変えたほうがよろしいかと思います。」

ジョチの発言に、懍はそう応じ、偉い人たちは、廊下から食堂のほうへ行ってしまった。

あとには、水穂と由紀子だけが残った。

この間にも、水穂は何も反応しないで、静かに眠っていた。というより、疲れ果てて意識がなくなっていたというほうが適切である。

「水穂さん。」

もう一回呼びかけてみるが、反応はなかった。

わっと泣いて由紀子は彼の体にかぶさったが、それでも反応はなかった。

結局、その日は、彼の答えを確認することはできなかった。

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