第三章

第三章

蘭は、太田咲のアパートを訪れていた。

「本当にすみません。ありがとうございます。協力してくださって。僕も、あいつを何とかしないといけないと思い詰めて、本当に悩んでいました。咲さんが協力してくださって、本当によかった。」

「いえ、私で本当にいいんですか?そういうときは専門の先生にお願いしたほうが良いのではないでしょうか。」

咲は、まだ疑い深い目で蘭を見る。

実を言うと、蘭が提示している秘密の計画は、本当に実現できるはずはないのではないかと、疑っていた。というより、こんな計画、本当に必要なのか、よくわからなかった。いきなり、SNSで蘭からメッセージを入れられて、蘭を信用していいものだろうかということもわからなかったのである。

「いいえ、そんなのは、以前試しましたが、全部だめでした。ですから、本当に生きようと思わせるには、愛人関係っていうのが、一番良いのではないでしょうか。ほら、普通の恋愛より燃えるからよいのかもしれないですし。そういうわけですから、協力してほしいんです。お願いします。」

蘭に頭を下げられて、余計に困惑する。

「も、もちろん、ご主人には、僕のほうから説明はしますし、もし何か言われたらきちんと謝罪します。これは、少なくとも、あいつを生き延びさせるための、芝居なんだってわかってもらうために、」

「いいえ、蘭さんごめんなさい。SNSには私、既婚と掲載していますけれども、実際、主人は、もうこの世から旅立ってしまいました。だから、事実上、私は一人なんです。ただ、忘れられなくて、旧姓に戻らないだけのことです。」

咲は、蘭の話を聞いて、変な風に発展しないか心配になり、急いで訂正した。

「そうですか、わかりました。じゃあなおさらいいですね。とにかくあいつが何とかして立ち直ってもらうには、もう男の僕たちには、できません。女の人でないと。それでないといけないんです。だからぜひ、協力してください。お願いします。」

また頭を下げる蘭に、返答はどうしたらよいのやら、わからなくなってしまう。

「本当に良いんですか。あたしみたいな、、、。」

「はい、何でも構いません!とにかく、あいつに一芝居打ってください。ただ、無理をしてはいけない体であることは、僕も知っています。だから、お体の調子が良ければですけれども。」

事実、咲は今朝もやたら眠たくて、寝間着のままだった。

蘭がそこを心配してくれたことを今知って、何かが、心にふっと沸く。何かが、、、。

「蘭さん、私のこと。」

「そうですよ。それは知ってます。無理はしなくていいです。た、た、ただ、あいつは、ご存知の通り、大天才と言われた、今のがしてはならない大物です。だから、それを何とか自覚してもらうために、協力してくれませんか。それだけしてくれれば。」

再度蘭にそういわれて、今度は協力しようと、心情が変わった。

「わかりました。私も、役に立たないと思いますが、お手伝いします。」

と、咲は言った。改めて、契約が完了し、蘭も咲もほっとする。蘭からしてみたら、水穂を再び立ち直らせ、再び生き延びようと頭を切り替えてもらうこと。これを促すための作戦なのである。蘭の頭の中では、そればかり考えていた。

ちょうどそのころ、製鉄所では。

「あーあ、これではもうダメかなあ、、、。」

ブッチャーは、持っていた扇子で頭をかじりながら、思わずそういうことをいった。

「水穂さん。」

そう呼びかけても反応はない。眠ったままである。隣にいたジョチが、そっとしておいてやってくださいとブッチャーの肩をたたいた。

話は数時間前に遡る。

ブッチャーは、どうしても、報告したいことがあり、顔中満面の笑みを浮かべて、製鉄所に向かって走っていた。

「喜んでください!本当に本当にすごいことが起きたんです!なんと俺の店でついに売れたんですよ。ついに!」

玄関をガラッと開けて飛び込むと、掃除をしていた恵子さんにそう語り掛けた。

「何、どうしたの?ブッチャー、いったい何があったのよ!」

恵子さんは、何があったのかわからなくて、とりあえずそういってみた。ブッチャーは落ち着きを取り戻して、

「あ、はい。すみません。いや、その、ついにですね。大量注文が入ったんです。なんでもうちの教室で、発表会の衣装にしたいからと言って、ついに十枚売れたんですよ。銘仙の着物が!」

「ハイハイ、わかったわ。ブッチャー落ち着いて。一体、何の教室から?」

恵子さんの反応は予想しているものよりも、かなり冷ややかなもので、ブッチャーは少しがっかりした。

「はい、、、。バイオリン教室です。」

ははあ、なるほどと思った。バイオリン教室であれば、同和問題についてあまり言及されることはない。そこはたぶんきっと、本格的にやるのではなく、趣味的な感じでやっているバイオリン教室なのだろう。

「そうなの。まあよかったわね。それだけでもアンタにとってはすごい収穫よね。」

恵子さんはそこだけはいうことができた。

「はい、そういうわけですぐに報告に来たんですよ。そういう風にですね、銘仙の着物を欲しがるわけですから、あんまり気にしないでもいい時代になったということではないでしょうか!よかったよかった、少しずつ、規制が緩くなってきているんですね!うれしいな!」

「ブッチャー分かった。あんたがそんな風に喜んでいるのを壊すといけないから、もう、今日は家に帰って。」

恵子さんは、ブッチャーを制するように言った。

「なんですか。発送なら、もう終わりましたよ。ちゃんと十枚、宅急便の営業所へもっていきました。そのくらいちゃんとやりましたけど、ダメなんですか?」

「あんたも意外に鈍い男ね。あたしの顔見て、何があったかわからない?お姉さんのことを看病して、そういう変化を見ることはできなかったの?」

恵子さんの顔を見て、ブッチャーも、喜びの顔から、がっかりした顔になった。

「あ、わかりました。また、何かあったんですか。」

がっかりと落ち込むブッチャー。

「顔だけでも、拝見することはできませんかね。」

「本当は、いけないんでしょうけど、いいわよ。あんまり騒ぎ立てないでやってね。」

ブッチャーは、さっきの喜びもどこかに忘れて、製鉄所の中に入った。

「結局、また畳屋さんのお世話にならなきゃなりませんね。まあ、畳屋さんはもうかるのでいいのでしょうが、、、。」

「見ていた僕らはたまらんな。」

部屋の中では、杉三とジョチがそんなことを言っていた。

「しかし、ようやるわな。確かにぶっ壊されたもんを治せないというのはわかるんだけどなあ。おい、もうちょっと、人に迷惑かけていることを自覚してくれって、恵子さんは言っていたよなあ。きっと畳の張替代だってたまらないと思うぞ。」

「ごめんなさい。もう、苦しくてどうしようも、なかったんです。」

水穂は、小さい声で、杉三に謝罪した。

「あんまりな、苦しいとかつらいとか、そういう言葉は使うもんじゃないよ。それはある意味ではな、逃げるという意味にもつながってしまうよ。それはむしろ、免除してくれと甘えているようなものだ。やっぱりな、いくら病んでいるといってもな、やっぱり恵子さんたちの言い分も考えていかないとな。」

杉三は、本当は言いたくないけれど、言わねばならない話を始めた。たぶん、こういう話をどう解釈するかにより、重大な事件の起こる分かれ道になるんだろう。

「確かに、恵子さんの話も、分からないわけではないですね。このままだと税金の無駄使いとしか、捉われなくなってしまうというのは、まんざら嘘でもないですよ。治る見込みのない人に、改善することのできない人に、金を払って、何になるんだ、俺たちは、そういうやつらに食わしていくために生きているのかって、怒りを覚える人も少なからずいます。だから、介護される側も、悪くなるのは仕方ないではなくて、もうちょっと自身で何とかしようと思わないといけない時代ではありますね。ただ、それができるのは、本当に財力のある人でないとできないとは、思いますけど。まあ、変わりたくても変われないのが水穂さんだと思いますから、もう、恵子さんがああして逆上したことは仕方ないとして、ある意味人間には、そういう感情もあるんだって思う程度にしてください。」

ジョチのいうことで、ブッチャーは何が起きたのか大体わかった。

「杉ちゃんもジョチさんも、よしてください。そういう話は。俺も、姉ちゃんにしたことがありました。でも、姉ちゃんにそれを語ったら、翌日に姉ちゃん、首つり自殺を図ったりしました。確かに姉ちゃんは、他人に迷惑をかけてばかりいるのかも知れません。でも、姉ちゃんが逝ってしまうのだけは、どうしてもいやだと思ったので、言わないことにしました。今の姉ちゃんはきっと、専門的に言ったら、赤ん坊と大して変わらないのかもしれないのですが、やっぱり俺の姉ちゃんであることに、変わりはありません。そう思って、俺は一緒にいてやることにしています。」

ブッチャーは、現在一人暮らしをやめて、姉と一緒に暮らしていた。もう一人で暮らしていけるほどの財力は得られるようになっていた。相変わらず、羽二重か、ポリエステルの着物ばかりが売れて、銘仙は売れずにたまっていく一方であるが、何とか暮らしていける財力はある。やはり、人間は、精神が安定するためには、財力が必要十分条件であるらしい。それがある故に、他人の面倒を見ることができるようになるのだ。つまり、そういうこともあって、自分で暮らしていけるように自立しなければいけないという偏見が生じて、それができない障碍者とか、病気の人たちが、嫌な存在になっていく風潮が出てしまうのだろう。そして、教育者は、財力を作れない人間は、死んでしまえと生徒を脅かすのである。

「ブッチャーさん、あなた、生活が安定して、少しお姉さんを含めて、他人のことを見てあげられるようになったのは、よいことかもしれませんよ。しかし、見てやっているという文字をそこに付けてはいけません。あくまでも、相手に、助けてもらっているという劣等感は持たせないこと。これも大事なことになります。そうしないと、援助を受けている方も、委縮してしまうことになります。」

ジョチは、ブッチャーをけん制するようにいった。これもよくある誤りであるが、援助していることをすごいとか、かっこいいとか思ってはいけない。その使い分けが非常に難しいことであるが、多くの人はそれを間違えてしまう。

「まあいい。この話はもうやめておくよ。じゃあ、本題に入ろうな。なんでまた、ここまで頻繁に畳を汚してしまうんだろうか。今日は鯛の尾頭付きも牛肉も鶏肉も食ってはいないぞ。今日食わしたのは、たくあんと寒天と、あと、ミカンだったと、恵子さんが言っていたよな。」

杉三は、腕組みをして、ため息をついた。

ちょうどその時、部屋の中にピーっと北風が入ってきた。

「そういえば今日は、午前中は暖かいが、午後は風が吹くと言っていたよなあ。」

「すみません、ちょっとよろしいですか?」

ふいに、水穂がそんなことを言い出した。

「なんだよ。憚りでも行くか?」

杉三が急いでそう聞くと、

「いえ、そうじゃなくて、半纏をとりたくて。」

と、答えた。幸い半纏は、机の近くに、几帳面にたたんでおかれていた。

「ああいいよ。とってこい。寒いからな。早く着な。」

こういうときは、なるべく手は出さない。手を出した人は、良いことをしたと褒められるかもしれないが、出された人にとっては劣等感を与えることもあるし、回復への妨げになって有害である場合が多い。よし、そのままにしておこうとしておくのが一番良いのである。

しかし、今回も、布団に座り、立ち上がって半纏を取りに行く、というシナリオとなることは、誰もが予測したが、それは起こらなかった。何とかして起き上がろうと試みるが、重たい体を持ち上げられず、どうしてもできない。

「あーあ、また始まったよ。たまにあるんだよね。こうなった場合、どうしたらいいんだろうな。時々さ、どうしてもさあ、立てなくなっちゃうんだ。まあ、次は立てるようになるかもなくらいで終わりにしているんだけど。」

杉三がそういうと、ジョチがブッチャーに、もし、無理そうであったら、悪いけどとってやってください、と言って、杉三を車いすごと、部屋の外へ出した。

「何すんだよ。一体。急に外へ出したりして。」

「もうこれは大事な話なので、しっかり答えてくださいね。いつ頃からですか?彼が、ああいう風に立てなくなり始めたのは。」

「いつって知らないよ。少なくとも、お正月過ぎたあたりはよかったと思うよ。立てないと言い出したのは、うーんそうだな。小豆粥を食ったあたりのころじゃないかな。」

杉三が正直に答えると、ジョチはそういわれて一つため息をつき、

「わかりました。」

とだけ言った。杉三も、その言葉の意味が分かったようで、なるほど、とだけ言った。

「蘭には知らせないほうがいいな。」

「そうですね。あの人が、もう少しこういうことについて、度胸が据えてくれるといいのですけど、無理ですからね。やはり、若い時期を、安全すぎるところで過ごしてしまった蘭さんは、どうしてもこういうことに対応するのは、困難だと思います。」

「すまん、僕が代わりに謝っておく。」

杉三はペコっと頭を下げた。

「いずれにしても、今後は、彼も立てなくなる方が多くなってくると思います。そして立つだけではなく、ありとあらゆる日常動作が全くできなくなってしまうと思います。体重もおそらく増加することはなく、むしろ減少するでしょう。そしてついには昏睡状態になって、」

「ああ、わかったわかった。もう言わなくていいよ。」

ジョチの話を杉三は急いで止めた。

「でもわかりませんよ。これはあくまでも、予想ですからね。僕たちは、素人なので、病気のメカニズムのようなところは、沖田先生じゃないとわかりません。しかしですね、こういう事例、すなわち筋力の低下が確認された以上、免疫が再度狂暴化したという事実は、避けられないと思います。」

「そういうことか。そうなるとまた、はじめっから、やり直しか。」

杉三は仕方ないなというように言った。そういう風に単純素朴に解釈できる杉三は、ある意味うらやましいところだった。

「そうですねえ。それができたら苦労はしませんよ。でも、骨髄と言いますのはね、失敗しても、成功しても、二度とやり直すということは、できないんですよ。」

「そうかあ!」

杉三は、ジョチの言葉にでかい声でそう答えた。

「結局、僕のしたことは、無駄だったのか!」

「杉ちゃん、やけくそにはならないでください。少なくとも彼をお正月まで、持ってきたということは確かなんですから、そこだけは感謝しなければなりませんよ。」

「わかってるよ!でもこれ、蘭だったら、なんて馬鹿なことをしたんだって言って、怒るよな。」

「ええ、怒っても仕方ないですが、確実に怒るでしょう。というより、泣くでしょう。」

こういう問答は、学識のある人物でないとたぶんできないと思う。一般的な素人だったら、もっと大げさな返答をしてしまうはずだ。

「とりあえず、まだほかの人には、黙っていましょうね。」

「わかったよ。」

二人は、とりあえず、そういいあうことができた。杉三がそれに同調できるのが、ある意味超人である。


部屋の中では、

「どうしてもだめですか。」

ブッチャーは、水穂に尋ねた。

「じゃあ、俺が支えますから、頑張って起きてくれませんかね。確かに今日は寒いですからね。半纏くらい必要になりますよね。」

ブッチャーは子供の遊びの一つである、ぎっちらこをするような感じで水穂を布団の上に座らせた。座らせることには成功したものの、ひどく息切れしてしまい、疲れ切った表情を見せる。ちょうどそこへ、また冷たい風が吹いた。こうなると、恒例のように、咳き込み始めてしまうのであった。

「だ、大丈夫ですか。ほら俺が支えてますから、しっかり起きてくださいね。」

ブッチャーは、急いで彼を支えると、背をさすってやった。でも、手を離すと、後へ倒れそうになってしまうので、頭でも打ったら大変だと、なんとも危なっかしい。ブッチャーは心配で仕方なかった。

「俺、半纏とってきますから、暫くここに座っていてくれますか。無理なら、ほかの人たち、読んできますから。大丈夫ですか?できますか?」

弱弱しく、水穂がうなずいてくれたので、ブッチャーは急いで半纏をとった。

「きてみることは、できますかね。」

ブッチャーは急いで、半纏を手渡した。ところが着用しようと腕を動かすが、それだけでもう疲れきってしまうらしく、着用できないのである。

「なんですか!上着も着れないの!」

思わずいら立って、声を上げてしまうブッチャーであったが、

「ごめんなさい。申し訳ありません。」

力のないこえで、水穂はそういうのだった。

これはもう、何をするにも期待をしないほうがいいなと思いながら、ブッチャーは水穂に半纏を着せてやった。そして、布団に倒れるように横になる水穂を見て、あることを考えなければいけないと思いながら、同時に、自分もつらくてもう無理という思いを隠して、布団をかけてやった。

そうしているうちに、ジョチも杉三も戻ってきた。

「ブッチャーさん大丈夫ですか?」

ジョチがそっと聞いてくれるが、

「ええ、俺は、姉ちゃんを看病した時によく感じていた恐怖を、また感じなければならないということが悲しいです。」

ブッチャーは正直に言う。

ジョチは、若いブッチャーをこう励ました。

「そうですね。でも、人間である以上、こうなることは避けられませんよ。こうなったときにこそ負担にならないように、日ごろからかかわりは持っていなければなりませんね。」

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