第二章

第二章

それから、二日ほど経った、ある日のことであった。その日は、久しぶりに暖かくて、日が照っていた。ただ、さすがに、雪が溶けるというほどの暖かさではないけれど、それではとばかりに、ウオーキングの愛好者たちが、急いで公園を歩き始めるようになった。

「おい、今日も歩きに行くか。」

少しばかり暖かくなった製鉄所では、杉三がでかい声でそう言いながら、水穂を揺さぶり起こした。

「ほらよう、今日は暖かいよ。ほら、立って。歩こうや。ちょっと、公園まで行ってこような。ほらあ、しっかりや。」

そうやって、ねたままでいる水穂を何とか立たせようと試みる。実はこれ、ジョチの出した命令で、少しでも気候が良ければ、必ず立って歩かせるようにように言われていて、これを実行するのは杉三が担当することになっていた。蘭は、熱心に立候補したが、またしても外れだった。

「ほらあ、起きて。大丈夫だよ。もし何かあったらな、ジョチさんも来てくれるからな。ほら、起きれるか。もうちょっとだ。頑張ってな。」

杉三は、一生懸命彼を動かそうと、いい子いい子をするような感じでおだて、よっこらしょ、と座らせた。裏で画策があることを知らせないように、人を動かすのは、杉三の得意技だ。蘭であれば、これはへたくそすぎる。

「よし、今日はいい天気だぜ。ほら、早く着替えてな。いつも通りの紬の着物で行こうな。銘仙ではいけないぞ。しっかりな。」

声はかけるが、手は出してはいけない、と言われていたため、杉三はそれも厳格に守っていた。水穂が、ゆっくりながらも、箪笥を開けて着物を出して、再び立ち上がって着替えるところまで、杉三は

しっかりと「見守り」ながらも声をかける。

「そうだなあ、今日はよ、あったかくて、ひがよく照ってる日だからよ。紺とか黒はやめたほうがいいよ。緑か、水色とか、そういうもんはないかな?」

「もう、これでいい?あんまり明るすぎると、季節的に合わないような気がして。」

軽く笑って、水穂は紫の着物を取り出した。こういう風に自身で動こうと考えてくれれば、狙いは完璧だ。

「紫ねえ。まあちょっと紺に近いが、今日はいいとしよう。それでいいから、しっかり着替えろ。」

「ありがとう。」

よろよろと立ち上がって、着替えを開始するが、杉三はここでも手を出さない。基本的に着物というものは、礼装も普段着も着方はかわらない。何処へ行くにも同じ着方で行けるということで、体の弱い人間には、結構使える存在だった。

そうして、何とかして着物を着換えて、几帳面に袴もつけ、着物と一緒にしまってあった、紫色の羽織を着ると、二人そろって、製鉄所を出ていく。ここでやっと、第一関門は突破したことになる。ここで疲れたという顔を見せないことも、大切なことである。杉三は、そういうところを一切見せなかったので、やっぱりそこのあたりは天才的だ。普通の人なら、一つか二つ、文句をいうのが当たり前の場面だ。

二人は、製鉄所を出て暫く道路を歩き、途中自動販売機でジュースを買うなどして、目的地の公園に向かう。この公園は広く、ちょっとした観光名所になっていて、時折写真撮影を求められる時もある。何とかしてこの公園を一周することも、しっかり命じられいる。時折ベンチで休憩したり、公園のカフェスペースに入ったりしながら、何とかして公園一周を達成しなければならない。

その日も、公園一周を試みたが、冬であったので、特に花が咲いているわけでもなく、紅葉しているわけでもない。なので、適当に世間話でもしながら、歩いていくしかないのだった。そういうときも杉三がうまくおだてながら、公園の中を歩いていくのである。

この時は、桜の木の下で、大島桜とソメイヨシノ、山桜との違いなどを適当に話しながら、歩いていた。だんだんに水穂は疲れてきて、どこかで座りたいと口にするようになると、よし、あのベンチまで頑張ろうな、なんて言いながら、杉三は歩き続けさせた。この歩き続けさせるのが、いわば第二関門と言える。そして、無事に帰ってこさせるのが、第三関門だと言えるかもしれない。

「つまりだな、大島桜には白が多いし、花も山桜にそっくりだが、独特な香りがあって、それが識別することになるのさ。来年、花が咲いたら、こっちへ来て確かめような。」

杉三が、一本の桜の木を指さしてそう説明した。しかし水穂はもう相槌は打たなかった。

「どうしたんだよ。」

この時も、できるだけ、静かにいうことがコツだ。

「杉ちゃん。もう疲れたよ。」

一言、それが返ってきた。そうなると、杉三も、もうちょっと頑張ろうとは言わない。倒れてでもしたら大変なことだ。仕方ない。そういうときは、どこかで休ませてやる。その見分け方も非常に難しいのだが、

「はいよ。じゃあ、向こうのカフェスペースで休もうぜ。」

ちょうど目の前にカフェスペースがあった。もし、休みたいと言い出したら、こういう場所があるときかを確認して決定するとうまくいく。

「よし、行こう。」

二人は、カフェスペースの中に入った。すでにカフェスペースの店長にも、ジョチから連絡が入っており、もし、何かあったら杉三だけでは介抱しきれないので、そこを手伝ってやるようにと言われていた。店長は、それを快く承諾していたので、水穂が店に入ると、何となく彼を観察するようにしていた。二人は店の中を移動して、一番奥の席に座った。ここが二人に与えられた、指定席のようになっていた。

水穂は、もう疲れ切ってしまったらしく、テーブルの上に臥せるような格好になった。その間に杉三が、いつも飲んでいる日本茶を二つ注文するのである。どっちにしろ、平日の午後ということもあり隣の席に誰かが座ってくることも少なく、結構長時間休むことができた。時に、店長さんも二人の話題に入ってきて、のんきにしゃべることが恒例になっていた。


ところが。

「はあ。もう疲れるわねえ。この辺りは、ここにしかこういうカフェのような場所がなくて、もう、困っていたところなんですのよ。全く、駅前に何もないんですもの。」

隣の席に、ゴロゴロとキャリーバッグを引っ張った、一人の和服姿の夫人がやってきて、どかどかと座った。大変立派な色無地の着物に身を包み、富士市内の人ではなかった。一体誰なんだと思ったが、たぶん、富士市に観光にでも来たんだろうと、杉三は言った。

「えーと、ご注文は何ですかな?」

店長がそういうと、

「このお店にはコーヒーとかそういう物はありませんの?」

夫人は、気取った口調でそう言った。

「ありません。うちは、日本茶を中心に提供しております。おすすめとしては、そうですね、富士のやぶきた茶でございます。」

店長さんが、そう答えると、夫人はバカにしたような感じで店の中を見渡した。

「それでは、それをいただいてみましょうか。富士のやぶきた茶。」

「わかりました。」

と、店長さんは、最敬礼して、厨房へ戻っていった。

「変わった人だな。日本茶なんて、いつも飲んでるから、バカにしているんじゃないか?日本が世界に誇れるお茶として、外国のお客さんは喜んで飲んでいくのによ。」

杉三がぼそっとつぶやく。

「まあ、気位の高い人ほど、日本文化よりも西洋文化のほうがよくなるのかもしれないね。」

水穂も、弱弱しいながらもそう返答した。

「服装は着物なのにおかしいなあ。」

「ちょっとあなたたち!」

ふいにその人が、杉三たちに聞いた。

「なんですか。僕らは、大して学問も知識もないよ!」

でかい声で杉三が言い返すと、

「ほかにお客様もいないから、聞くだけですよ。男のくせに衣紋を抜いて着るようでは、どうせ碌な男じゃありませんよ。どうせ、ソープみたいなそういうところに通い詰めてる色男のようなものでしょう。そういう人に、私が手を出すことはしませんもの。」

と、その人は言った。確かに、男性が衣紋を抜いて着物を着るということは、よほどのことがない限り、ない。もっとも、水穂はそのつもりはなく、単にやせぎすなため、衣紋を抜いているように見えるだけである。

「まあ、そういうこっちゃね。僕も、そういう偏見の強いやつに手を出すことはしたくないな。僕らは、訳ありで、こっちに来ているんだからな。それをわかってもらえそうになければ、交流を持つなんて、まっぴらごめんだよ。」

杉三はそう言い返した。

「ええ、私だって、できればそういうことはしたくありませんよ。でも、今回は、そうもいかないのです。実は、人を探しております。その人を探すためにはどうしても、地元に住んでいる方から話を聞かなければなりません。ですが、今の時間、店にほかのお客さんは一人もいませんもの。ですから、あなたたちに聞いているというわけです。」

「はあ、バカに理屈っぽいな。僕はそういうやつは苦手だ。理由なんてどうでもいいからよ。早く要件を言ってくれ。一体何の用でこっちに来た?」

「それでは申しましょう。私は、東京から来ました浜島と申します。正式には、浜島千花子。娘の咲がこちらに来ていると聞きましたので、探しにまいりました。どうもこの公園近くに住んでいると聞きましたが、お二方、浜島咲が、どこに住んでいるか、ご存知ありませんか?」

そう聞かれたため、杉三と水穂は顔を見合わせた。

「つ、つまり、あの時の、太田さんというのは、偽名だったんだろうか?」

杉三が、思わずそういうと、

「ええ、確かにそうですよ。あの子は一時的にその姓を名乗っていたことはありました。でも、相手がとてもあの子の相手としてふさわしくないと思ったから、私が取りやめにさせましたの。まあ、女だからまだいいかと思って音楽の道に進ませたのが間違いだったんですわ。それ故に、太田という、全くあてにならない男を出してきて、、、。」

と、言い放つ夫人は、つまり咲の母親であることは間違いないが、それにしては、馬鹿に小ぎれいで、ぜんぜん違う雰囲気を感じさせた。

「な、なるほどね。お母さんだったのか。咲さんなら、確か、先日あったよね。僕と、水穂さん、つまりこの人と一緒にしゃべったよ、薬局でね。」

杉三があっさりとそういうと、

「一体どこにいるの!」

と、血相を変えてそう言い出すので、杉三もびっくりしてしまった。

「だから、えーと、あの、この公園近くにある、焼き肉屋に勤めているはずだよ。ちょっとさ、落ち着いてゆっくり話そうぜ。」

「そうね。お隣に座ってもいいかしら。」

夫人は、そう言って、無理やり杉三の隣の椅子に座った。

「まず、詳しくお話いたしましょう。今さっきは、取り乱してしまいました。娘のことをしっかり聞くためにも、ちゃんとお話します。先ほどは、失礼な発言をしてしまって、本当にごめんなさい。」

夫人、つまり、浜島千花子は、店長からもらったお茶を一気に飲み干した。

「おう、初めから頼むよ。終わりまでしっかり聞かせてもらうぜ。」

先ほどの話と態度を変えず、杉三は腕組をして、彼女の話を聞き始めた。水穂も、伏せていた体を座りなおして、彼女の話を聞いた。

「もう一度、自己紹介しますと、私は、浜島千花子と言います。住所は、東京都、奥多摩町です。職業は、奥多摩にて、弁当屋をしています。」

「へえ、奥多摩?ずいぶん田舎ですねえ。咲さんはそこの出身だったんか。」

「ええ、そこ、奥多摩駅の近くでうちは代々弁当屋をしてきました。最近は、秘境駅巡りも流行っていて、休日には、よく弁当を買いに来るお客さんが多くいますが、ほとんどが、東京なのに、誰も人が来ないという過疎地域でして。」

確かに、奥多摩といえば、東京とは思えないほどの過疎地域である。本当に、ここは都心からいけるのだろうかと、疑いたくなるほどである。

「あの子は、あまりそういう地域が好きではなかったようなんです。だから、小さいころから、こんな田舎じゃなくて、もっと都会的な設備があるところに行きたいんだって、さんざん言っておりました。中学校から吹奏楽をやって、それからフルートに打ち込み始めました。そこから猛練習を繰り返して、音楽学校にも行きましたけど。」

まあ確かに、田舎の若い女性なら、一度や二度は、思ってしまう感情であった。それを親がどう解釈するかで、その子の生きざまが決まるといわれる。

「それは、それでいいと思ったんです。確かに学校にも行きましたよ。音楽でやっていくのは難しいというのも確かですから、できるだけレベルの高い学校にも行きました。でも、大学には入りましたけれども、すぐに体調を崩して。まあその時は、精神安定剤とかそういうものを使って、何とか卒業できましたけれども、学校の勉強をしていくのに精いっぱいで、何も就職活動というものが並行してできませんでしたから、どこにも就職できなくて、、、。また、それではいけないから、奥多摩へ何とか戻そうとしましたけれども、あの子ったら、絶対に帰ってこようとしないんです。ある時、私が、当時あの子が住んでいると言っていた、調布のアパートを訪ねました。でも、そこはもぬけの殻でした。」

「そうなんだね。つまり彼女は、東京を出ていったのか。」

と、杉三は相槌を打った。

「ええ。そして、翌年に、私のもとへはがきが届きました。消印は、相模湖駅付近でしたが、正確な住所は書かれていなくて、娘がどこに住んでいるかはわかりませんでした。ただ、名前が浜島咲から太田咲に変わっていて、送られてきた写真に、一緒に若い男性が写っていました。その人は、名前いを、太田義春と言いました。」

なるほど、つまり、太田義春という人と結婚したということだろう。そして、相模湖駅の近くに移り住んだということだ。

「太田義春?なんだか聞いたことのある名前ですね。」

「僕も、何となく母ちゃんに聞かされた名前だったと思う。」

水穂と杉三は顔を見合わせた。

「も、もしかして、あの文筆家の太田義春ですか?割と、寡作なことで知られていて、夭折したといわれていた、、、。」

「ええ、もちろんです。私は、すぐにいけないと思って、相模原に行こうと思いました。ちょうど彼の作品、「幻想」が世に出た時期でもありましたから。」

確かに、「幻想」は、太田義春の代表作だ。確か、ノイローゼ状態だった男が、不思議な女性との出会いにより、再生したという話で、ちょうど精神疾患がクローズアップされてきたころだった時代でもあり、かなり売れ行きを極めたという本だった。

そのあとも、太田義春は、主に精神疾患をテーマにした本をよく書き続けていたが、確か、三年くらい前に、死去している。彼が亡くなったときは、テレビでも報じられたことがあった。

「だから、その太田義春が住んでいた場所が報道されたときに、私はチャンスだと思って、すぐにその映像のもととなった地域に行きましたよ。神奈川県の相模原市だったんですが。予想した通り、相模湖駅の近くでした。でも、やっぱりそこにはいませんでした。義春が死んだ後に、住んでいたアパートも引き払って、出て行ったらしいのです。おりしも、ちょうどそのころに、非常に大きな事件が起きたばかりの頃でしたので、とても心配になって、咲を探しに探しましたけど、どこにもいませんでした。近所に住んでいた方のわずかばかりの話から、まったく縁もゆかりもなかった、この町に行ったということを、聞きだすことはできたので、やっと弁当屋の暇を見つけて、こちらにやってきました。」

浜島千花子は、ここまでを一気に語った。

「なるほどなあ。娘さんを探しにこっちへやってきたわけね。まあ、僕たちは、娘さんの場所を何となくだけど、知っているが、ちょっと、賛同はできないな。お母さんに会わせたら、咲さんはもっとつらくなってしまうような気がする。なんか、それは、僕たちは、やってはいけないというか、悪いことをしているような気がするよね。」

杉三は、しんみりとそんなことを言った。

「そうですね。僕も、これに関しては、そう思いますよ。親が娘さんのすべてを知ってしまうことは、あまりいいことではないような気がします。お母さんに知られないところで幸せをつかむことも、ある意味では必要なのかもしれないし。」

水穂もそういうが、言い終わって、再びせき込みだした。大丈夫か、と、杉三が声をかけるが、返答は咳き込んでできなかった。

「大丈夫ですか?もう、休まれたほうがいいのでは?」

千花子も、心配になっている。と、いうことは、このおばさんは、変に気取った人ではなく、単に娘を心配してやってきたお母さんだと、確信することができた。

「あ、すまんすまん。本当は公園一周させるのが目的だったんだが、それでは無理なようだから、しょうがない。もう製鉄所に帰ろうか。」

杉三がそんなことを言って、もう帰るように促した。

「どうもすみません。でも、娘の居所がわかったので、教えてくださったのですから、お礼に、お茶代はお支払いします。」

千花子にしても、どうしてもお礼がしたくなるのは言うまでもなかった。

「あ、でも、申し訳ないから、それは遠慮しておくよ。」

杉三はそう言ったが、

「そうさせてください。」

と千花子は言う。ということは相当困っていたんだろうなと、杉三も水穂も感じとった。

「じゃあ、お願いしようかな。あんまり、長居をすると、本格的な奴がやってくるかもしれないからな、すんません。お願いします。」

杉三は、伝票を千花子に渡した。そして少し咳の数が減少した水穂を、席から立たせ、そそくさと、

店を出て行った。

「なんか、お母さんにも娘さんにも、今日のことは教えたくなかったな。」

杉三が謎めいた発言をするが、水穂は、そうだねと言おうとして、咳で返答を返したのであった。

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