塵埃

 路地は冷たい風が鳴るばかりで、一切の人気を感じない。

 メイネスに来るのは数年ぶりだが、シエルはメイネスの都市組織上重大な役割を持つエリアだ。このままに進めばたどり着けるだろう。

 退屈な道中に早くも飽きてきたのか、欠伸混じりのルパートが口を開く。

「ヒマでしょうがないトランクの中で聞いてたんですけど。シエルってとこに行くんでしょ? この辺にそんな地名ありましたっけ。あ、別に俺、地理に詳しいわけではないですが」

「大火の後、交通も断たれ支援も望めないメイネスでは、残された食料や物資を巡る凄惨な争いが起きた。まるで人類の歴史を再現するかのような低レベルな争いがな。ここには、その頃に再構築された地名や場所が多い。シエルもそのひとつだ」

「へえ。なるほど、そうなんですねぇ」

 グリフィンの歴史講座に興味があるのかないのか、ルパートはのんびりとした口調で答えた。

 入り組んだ路地をすいすいと抜け、ビルと塀に挟まれた行き止まりに当たる。脇に小さな印がつけられたビルの扉を軽く押すと、何かが中で引っ掛かっているようで開きそうになかった。

「あれ、開かないんです?」

 原因が何かを探るため、押したり引いたりと扉へのアプローチを変える。どうやら建付けやノブの問題ではなく、重量のある何かが邪魔しているようだった。

 二階にはバルコニーがあるが、はしご代わりになりそうなものは近くにない。上からの進入も難しそうだった。

「ああ。回り道するしかないかな……」

 それを聞いたルパートはあからさまな落胆を顔に出す。

「えー、せっかくここまで来たのに引き返すんですか? 足で稼いでる警察の皆さんにはわからないかもしれないけど、歩くのって基本つまんないですよ」

「我々も楽しんでやってるわけじゃないさ。……少し遠回りにはなるが、それでもすぐだ。我慢してくれ」

 グリフィンはメイネスの地理を頭に浮かべ、ルートを再編する。シエルの入り口は一つではない。少々面倒ではあるが、ここから次に近い“北口”を通って行くのが最善だろう。

 グリフィンが来た道を戻ろうと身を翻したちょうどそのとき、ルパートは力強く音を立て踏み出すと塀を蹴り、三角飛びの要領で跳躍した。

「おい何を……」

 上昇の頂点でバルコニーの手すりを掴み両腕の力でよじ登った彼は、グリフィンを見下ろして言った。

「そのドア開けたらいいんでしょ? 見てきますよ」

 ルパートは返答も待たずにビルの中へ消える。

 少しして、彼の足音が階下へ降りてくると、壁越しに声が聞こえた。

「おーい! 聞こえますー? すぐ開けますからね。はい、はいっと」

 金属製の何かが床を擦る音がした。

 それから、きしむ扉を開けて困惑顔のルパートが現れる。

「ね、これ。絶対わざとですよ。……このロッカー、たぶんあそこにあったやつでしょ? 何かの拍子に倒れたとしても、入り口を塞ぐはずないって」

 扉を開いたルパートが指さしたのは、オフィスの名残として放置された一角のロッカー。三つロッカーが並んだその横に、もう一つの存在を示唆する埃のないきれいな床があった。

「この道はメイネスに精通しているものしか知らない道だ。外の世界とこことを繋ぐ正門のような場所。勝手を知ってる人間がわざわざ塞ぐようなこと……」

「たまたまでたどり着けるルートじゃないですもんね。すごい複雑な道だったし」

「ああ。……ただでさえメイネスの連中がセレネクールまで出張ってきたんだ、ここで何が起こっていても不思議じゃない。気を抜くなよ」

 グリフィンはしゃがみこみ、扉を塞いでいた横倒しのロッカーを見る。上面に溜まった埃に人の手形の跡がある。指先にははっきりと指紋が浮かび上がっていた。

「指紋か……」

 呟きを聞いたルパートが驚いたように手を叩く。

「え、犯人特定? 人間顕微鏡ですか? すごい」

「指紋が名前を名乗ってくれればな。今わかったのはこいつがロッカーをバリケード代わりに使ったときには素手だったということだけ。何もわからないのと同じだな」

 他に痕跡がないかと辺りを見回すが、大したものは見当たらない。今までの道と同様に、通過点としての表情以外は見られなかった。

「うーん。まあ、移動中は素手、街に着いたら手袋。なんて人はいなさそうだし、シエルで見かける手袋付けてる人は容疑者リストから外していいんじゃないですかね?」

「それを人は、“何もわからないのと同じ”と言うんだ」

「あー、なるほど」

 気の抜けた相槌が廃ビルを反響した。


 廃ビルを抜けたあたりから、だんだんと室内から室内への移動が増えた。意図せぬ流入者を避けるためだ。一切の物資が略奪された食料品店から、がらんとした領事館へ入る。正門はとうの昔に封鎖されているので、側面の窓から入った。

「立派な建物ですねぇ。あ、中の家具もけっこう残ってる!」

 トックトン産の良質な木材でつくられた美しい調度はまだ使えるものが多く、中にはほとんど傷が付いていないものもあった。

「防火がしっかりしてたからな。当時は避難場所にも指定されていて、ここに集まった近隣住民たちでコミュニティを形成し、物資も充分に蓄えて、……そこで起こったのが血を血で洗う争いだ。大勢死んだよ」

 それを聞いたルパートは眉をひそめると、両手を仰々しく広げる。

「そっかぁ。生き残るために頑張ってた人たちが……。うええ、聞かなきゃよかった」

「すまないその……、雑談の範疇かと思って」

「ああうん、そうかも。ごめんなさい、こっちもちょっと覚悟が足りなかったですね」

 気まずい空気が流れる。ルパートはフォローを入れてくれたが、たしかに一般市民にするには配慮のない話だったかもしれない。

「まあその……、ここではありふれた話だ。数日いることになるんだから、慣れておいた方がいいだろ。……すまない、完全に言い訳だが」

 領事館の裏口に続くルートはひとつしかない。グリフィンは先導し、給仕用の廊下へ出る扉を開ける。

「いえいえ、俺も俺ですから……、うわっ!」

 背後から木材の裂ける音がする。

グリフィンはが慌てて振り向くと、裂けた床板の大きな穴を残してルパートの姿は消えていた。

「おいどうした! 無事か?」

 通路の端の床が劣化していたようで、そこを踏み抜いてしまったのだろう。高さのある床下の空間に彼はいた。

「ふう……。大丈夫、めちゃいい靴履いてきたんです。こんなこともあろうかとね!」

 尻もちをつきながらも、余裕を保った表情でルパートは答える。

「……用意がいいな」

 グリフィンは崩れ落ちた床の下のルパートに手を差し伸べる。彼を引っ張り上げたのと同時に、二階のどこかから足音とガラスの割れる音が聞こえた。

「ねえ今の」

「ああ」

「野犬とか、そういうカンジですかね」

「棲み付いた野生動物でも不逞の輩でも面倒だ。確かめに行く。そばを離れるな」

 通路を逆戻りし、階段のある広間へ続く扉を開く。物音がどの部屋から鳴ったものか判別がつかなかったため、片端から確認していくしかなさそうだ。

 二階へ上がってすぐ、客室。人の気配はなかった。窓から外を見るが、乾いた土の地面に破片は見つからない。割れたガラスは窓ではないか、領事館の横側の窓なのだろう。

「次だ」

「え、そんな一瞬でいいんです?」

「割れたガラス、何かの足音。精緻な観察は必要ないさ、明らかな痕跡を見とめるだけでいい」

 見落としのないように、右隣から一部屋ずつ時計回りに一周することにした。

 客室、何もなし。

 洗面所、何もなし。

 展示室、何もなし。右手に別の部屋へ繋がるドアがあった。開けると資料保管室のようで、奥にひとつある窓を見ても、人の出入りした形跡はなかった。

 角を折れてまた展示室。ショーケースはガラス張りで、伝統的な技術でつくられた工芸品がいくつも飾られているが、変わった様子はない。

 次の扉。

「ここは……、まあいい、次だ」

「いやいや、めちゃめちゃ怪しいじゃないですか!」

 扉の枠には、板を打ち付けて封鎖された跡があった。へし折られた板の残骸がここで起きた出来事の断片を物語る。

 中が当時のままなら、何かが潜むには到底適さない場所だが……。

「隠れてろ」

 ルパートを扉の横に控えさせたグリフィンは、音が鳴らないようにノブを回す。ゆっくりと扉を押すと、他の部屋とは性質の違う埃が目に染みた。きれいな言葉で表すなら、それは“歴史”だ。グリフィンはまっすぐ部屋の奥を見つめると、数えることも馬鹿らしくなるような数の白骨を避け、室内に二歩踏み出す。

 床が軋んだ。この部屋に処理の手が入らなかった一番の理由だ。人一人が注意深く歩くのがやっとなほどに、放置され続けたこの部屋の劣化は進んでいた。

「おとなしく出てくれば、悪いようにはしない」

 沈みかけた陽の光が、割れた窓ガラスに反射する。破片に付着している土が、闖入者の存在を明示していた。窓枠から梯子が先端だけ覗いている。窓から侵入した何者かがまだ部屋に潜んでいるのは明白だった。

「グリフィンさん後ろ!」

 扉の裏に隠れていたローブの男が飛び出し、グリフィンに襲い掛かろうとする。扉を開く際にその隙間から姿を確認していたため、ここまでは予定調和だ。

「どうも」

 内ポケットから取り出した金属棒を強く振る。遠心力を利用し長さを伸ばしたそれを相手の足下に押し付けると、男は体制を崩しうつ伏せに倒れ込んだ。

「おとなしく出てきてくれたみたいで助かるよ」

 衝撃で床が抜ける覚悟もしていたが、それは杞憂に終わった。すかさず倒れた男の手足を押さえる。

「うわあ、プロの仕事だ。どうするんです、この人?」

 扉の陰から顔を出したルパートが言う。

「どこの人間かもわからないしな……。柱にでも括りつけて、シエルから応援を呼ぼうと思う」

 両手を後ろで縛る。縄をもう一本取り出したところで、男の胸部のあたりから黒い液体が染み出しているのに気が付いた。

 グリフィンは立ち上がり男の脇腹を蹴飛ばした。転がって天井を向いた男の顔が笑っているのが見える。

「収容所の飯を口にしてもまだ、笑みを絶やさずにいられるかは疑問だな」

 男の表情は変わらない。

 首元につけたペンダントの、ガラスの容器が割れていた。裸の胸を赤黒い液体が伝っている。傷口からの自然な出血だけではこの量には足らない。なんらかの意図で容器に入れられていたのだろう。

 血液とは別に、分離した黒い液体が流れているのも見えた。

「その血を何に捧げているのかは知らんが……」

 両足首を縛ろうとしたその時、右から湿った熱と何人もの怨嗟の囁き声を感じた。声は次第に大きくなり、漂う空気も熱量を増す。向こうでルパートが息を呑んだのがわかる。

「死ぬがいい!」

 ローブの男が叫んだ。咄嗟に男に肘打ちをしつつ右を向いたところで、質量を持った大きな何かに突き飛ばされ、グリフィンは宙を舞った。背中から壁に衝突し全身を痛みが駆け巡る。朦朧とする意識を、なんとか保つので精一杯だった。

 グリフィンを襲った漠然と"悪意"にも似たそれは、壁や床を血で覆いながらゆっくりと部屋の外へ出ていく。過ぐそれが扉枠を破壊し、部屋全体が悲鳴を上げた。大きな音を鳴らしながら床が抜け、グリフィンは階下へと滑り落ちる。

 痛みに耐え態勢を整えようとするが、遅れて落下してきた瓦礫に押しつぶされグリフィンは意識を失った。

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