暗晦
地下道はひんやりと肌寒い。階段を下りていくごとに地上の陽気と隔絶されていくのがわかった。中は真っ暗で、背後からの日光が届いてはいるものの、先には僅かな光もないように思えた。摺るように慎重に進めた足が何かにこつんと当たる。
箱だった。壁に沿う形の大きな木の箱で、端に手提げのカンテラが入っている。取っ手を掴み持ち上げると、中で液体の動く音が聞こえた。上部のつまみをひねると部品の擦れ合う音がして、煌々と輝く炎が暗闇を照らした。
奥へ奥へ通路は続いている。最大限の警戒を払いつつ足を進めた矢先、背後から金属の擦れる音が聞こえた。
先ほどまで唯一の光源だった日光が途絶えた。入り口の扉が閉じたのだろう。アルバートが手ずから閉めたのか、もとよりそういう仕掛けだったのかはわからないが、実質的に前進以外の選択肢が消えたのは間違いない。
「嵌められた、ってことはさすがに、ないと思うがね……」
呟きは冷たい石の壁に虚しく響いた。
通路は思った以上に単純な構造だった。何度か角を曲がりはしたが分岐はなく、完全な一本道だった。時折、その先の空間を暗示するような劣化の少ない石煉瓦が散見されたのが気になったが、もともと別の用途で使われていた通路を改修したと考えれば不思議はなかった。
通路の終わりでは仄明るい固定灯がグリフィンを迎えた。すぐそばに地上に繋がる階段が見える。左手の壁にはフックが六つ伸びた鋼板が設置されていて、その内の五つにはすでにカンテラが掛かっていた。グリフィンが残ったひとつのフックにカンテラを掛けると、その重みでフックは沈み、鋼板が壁ごと奥側に回転した。横方向に一回転、逆側の壁がこちらへ現れたところで回転は一旦止まり、向こう側でがたがたと何かが音を立てた。もうしばらくして鋼板が返ってくると、フックに掛かっていたカンテラはすべて消えていた。
装置が駆動した際に漂ってきた海を想起させる微香は、この機構が動力にクーロン藻油を使用したリュクレース社開発の装置であることの証左だった。簡単な仕組みのものなら一般家庭にも普及しつつある技術だが、フックに掛けられたカンテラを回収し箱に戻す工程には高度な工業的技術が必要とされ、ダンバー家の先端技術への寛容さと経済力が垣間見える。
ちょうど一人分の幅しかない階段は想像よりも長く、これが敷地に走っていると考えると少々いびつな構造に感じた。壁の材質が石から木に変わり、空気がだんだんと暖かくなってくると、壁の向こうのあちらこちらから生活感のある雑音が聞こえだした。
どうやら地下の通路は回りまわってダンバー邸へ戻ってきたらしい。階段を上がった先に待っていた部屋は雑多に置かれた机と椅子で散らかっていて、受ける印象こそ微妙に異なるものの、建築様式は先ほど見たものと同じだった。
捜査本部には四人の捜査員が詰めていた。左手、部屋の奥側のソファとテーブルが置かれた談話スペースに二人が向かい合って腰掛けている。険しげな顔の壮年と眼鏡を掛けた若い男だ。右手前のデスクには一人、突っ伏して寝ている男がいた。
そして、部屋の中央、厚板の丈夫なテーブルに敷き詰められた街中の地図を眺めながら腕を組む、本部長ロイ・ダンバーの姿があった。
彼は捜査本部に踏み込んだグリフィンに気付くと、こちらをじっと見た。
「検視局のグリフィン・コールフィールドです。……カーター警視に、捜査情報を共有するようにと言われて来ました」
それを聞いたロイは片側の口端をわずかに歪める。
「それは、……本当か?」
からかうような声色が、余計にグリフィンの心を冷やした。ロイ・ダンバーは善人ではあるが万事に聡く、油断ならない人物だ。先に手の内を晒し、懸念を払拭しようとしたグリフィンにとってこの追及は織り込み済みの反応だったが、それでも心の内を直接覗きこまれているかのような不安があった。
「いずれにせよ、のちにそうなります」
今なおその双眸はグリフィンに向けられたままだ。片時も逸らすことなく向けられた視線に、半ば睨む形で応えた。
「く……。ああ、そうだな。コールフィールド、この事件に関して、考えていることを述べたまえ。なるべく面白いことをな」
「メイネス地区……」
「……ほう?」
その地名を出した途端に、ロイの眼光は鋭さを増す。固く組んだ腕を解くと、テーブルに肘をもたれて楽な姿勢をとった。ようやくまともに彼の関心を引けたような気がして、グリフィンはひそかに胸を撫でおろした。
メイネス地区は十数年前までは
「これは今朝の話ですが、直近の被害者、ウィリアム・マクファーレンのマンションで隠し金庫が見つかりました。バスルームのタイルを切り抜いて、壁の中に埋め込まれたものです」
「続けてくれ」
「隠し金庫は現場の鑑識班が開錠を試みているところです。問題は、そのタイルの裏に描かれていた記号です」
グリフィンは懐から手帖を取り出した。適当な頁を開くと、そこにすらすらとペンを走らせる。
「これは?」
グリフィンが書いたのは、密集する右上を向いた斜線とその左上に位置する下向きの矢印だった。
「メイネス地区が“廃都”と呼ばれる以前から活動していたカプリーシズと呼ばれる集団が使っていたものと酷似しています。……意味するのは“カモ”、あるいは“裏切り者”」
「その二つはずいぶんとかけ離れているように思えるが」
ロイは難し気に顎に手を当てる。
「彼らはとても用心深い集団でした。暗号に複数の意味を設定しておくことでそれが知られた後も、容易には解読できない仕組みにしていたんです」
「なるほど……」
ロイは山のように書類の積まれたデスクの一つを漁ると、中から一枚の折りたたまれた紙を取り出しテーブルの上に広げる。縮尺のやや大きい、メイネス全体の地図だ。
「なかなかに興味深い情報だ。そのメイネスのギャングが、いったいどこから、どのようにして、
地図上を縦横無尽に指が走った。ロイの声音は静かながらも、まるで百万の聴衆に訴えかけるかのような溌剌さで、グリフィンは思わず生唾を飲みこんだ。
「……一部はイエスで、残りはノーです。その集団——カプリーシズが関与しているのはまず間違いありません。が、あまりにも手口が特殊すぎて、彼らだけで行えるものではないように感じます。それに彼らは、冷酷ではあっても粗暴ではない。意味のない殺しをするような奴らではないんです」
ロイは目を瞑り、深く考え込んだ。少し経ってから切り出す。
「お前の話をまるきり信じれば、そいつらの近辺を洗うだけで事件が解決しそうなものだな。我々が手がかりに飢えているのは確かだが、お前の曖昧な発言ひとつではメイネスくんだりまでわざわざ出向くことはできない。せめてもう少し論拠が欲しいな」
「私に明日から四日間ほどの休暇とメイネスへの捜査の許可を頂ければ、カプリーシズの持つ情報は過去のデータの分析よりもずっと有益だと証明して見せます。捜査隊を編成するのは、私が情報と証拠を持ち帰ってからで構いません」
グリフィンが頭の中で構築したシナリオには、決して欠けてはならないパーツが欠けていた。埋まっているのは状況証拠や経験からくる憶測で、それだけでは大掛かりな支援を仰ぐ根拠とするのは難しい。
「ああ……。いいだろう。連中の尻尾を掴んでそれで事件が解決するというのなら、数日の間検視が一人消えることなど何の苦にもならん。こちらで送迎の馬車は用意する。メイネスの一人歩きは危険だが、お前なら問題ないだろう。久々の里帰り、楽しみたまえ」
皮肉げな笑みでロイはこちらに向き直り言う。どことなく、ひとつ憑き物がとれたような表情に見えた。
「……お任せください。必ず成果を上げて帰ります。このまま全員過労で死ぬのは御免ですから」
グリフィンは荷が下りて軽くなった肩をすくめる。セレネクール警視庁は徹底した成果主義で知られ、本部長直々に遠征の許可が下りた以上は、グリフィンがすべきはメイネスでの捜査で結果を示すだけとなった。
「明日の朝、好きな時間にここへ来てくれ。御者を待機させておく」
「またあの暗いトンネルを通ってですか? ぞっとしませんね」
「くく……」ロイは不敵に喉を鳴らした。「実にくだらない話だが、あの気味の悪い通路を通る必要があるのは最初の一回だけだ。この部屋は私の私室と繋がっていてね、登録の済んだ者はそっちから入れるようになっている」
「登録?」
無意味に思えた道中のどこでそのようなことが行われていたというのだろう。グリフィンは訝しんだ。
「あの古臭い通路を進む過程で、足形を取ってある。それを扉の前で使うことになるんだ。古きと新しき、技術の融合だよ」
おそらく、出入口の階段やカンテラを掛けるプレートの付近など、通路を進む上で必ず足を置く場所に感圧式のセンサーか何かが仕掛けられていたのだろう。アルバートの言った「一人のほうが都合が良い」とはこういう道理だったのか。
「いつの間に……。それで、朝早くから扉の前でタップでも踏めばいいんですかね?」
「道化役は間に合っている。つまみだされたくなければやめておきたまえ……。すぐそばの壁に、絵が飾ってあってね、それが左にスライドするようになっている。お前に人並みの記憶力と洞察力が備わっているなら、すべきことはわかるはずだ。あとはそのまま扉を開ければいい。お望みなら朝食を用意して待っているよ」
「……そこまでして、情報の機密性を保っているわけですね。てっきり、がさつな管理だからこそ、あの探偵気取りがそこかしこに現れているのかと!」
ロイの配意を無慈悲にもするりとかわしたグリフィンは、両手を広げて訴える。エリック・ダンバーがどのような方法でセキュリティを突破しているのか、此度の訪問の折にどうしても解明しておきたかった。
「捜査本部には常に複数の人員を置くようにしている。にも拘わらずあいつが先々に現れるのは、気に入らんがお手上げだ。近いうちにお前の手を借りるかもしれないが、今はメイネスの捜査に注力したまえ」
苦々しげに身内の放縦を嘆くロイ。後ろ向きの発言は、部外者に近いグリフィンにだからこそ漏らせたものだろう。ダンバー邸の構造上、彼が直接捜査本部に立ち入るのは無理がありそうだ。内部の捜査員の助力で密かに情報を受け取っている可能性は捨てきれないが、彼の煽情的な登場のほとんどはあまりにも迅速で、言伝のリークから行動を起こしていると考えると不可思議なところがあった。
また別の特殊な方法を用いていると推測するのが自然だが、現状はロイの言う通りメイネスの捜査で結果を出すことを考えるべきだろう。雑念は時に身を滅ぼすことになるし、この遠征はうまくいけば事件を解決する決定打となるかもしれない。
「ええ。ご子息に関しては、また今度ね……。お役に立てれば幸いですけど。……今夜は久々にぐっすり眠れそうですよ。これですべてが丸く収まればいいんですが」
「健闘を祈るよ」
入口近くのデスクで突っ伏していた男が大きく伸びをする様に視線をやりながら、ロイは慇懃な敬礼をもってグリフィンを見送った。
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