砕片

 二日後、閉められたままのカーテンから漏れる光が確かな春の陽気を感じさせる、やや埃臭いぼろマンションの一室。バスルームにて、グリフィンはしゃがみこんでいた。

 室内は凄惨と言って差し支えないものだった。

 血痕は、床や壁、天井に至るまで走り回り、描かれた模様はまるでこれが”災害”なのだと主張しているかのようにも見える。


「むう……、身体じゅうに大量の切り傷、失血死か?」

 唸るように声をあげたのはセレネクール警視庁警視、クレイグ・カーター。

 熊のような大男で、豊富な経験と人望から一連の変死事件の実質的な指揮を執っている。

「自殺でしょうか?」

 意味のない問い。クレイグも、現場に仕切りを渡す捜査員の面々も、それには答えない。自殺の線が限りなく薄いことはこの場の誰もがわかっていた。

 空虚を自らの手で払うかのように、グリフィンはぐったりと横たわる遺体に手を触れた。

「遺体はこの部屋の持ち主、ウィリアム・マクファーレンで間違いありませんね」

 クレイグは首肯する。

「ご推察の通り、死因はおそらく失血死。一連のものと同じです。それはつまり……」

 マクファーレンの遺体の、ところどころに血が滲みた仕立ての良いシャツをめくる。中年太りした腹部を観察し、背部へ視線を移す。

「無い」

「そんなはずはないだろう。これが変死事件と同一のものなら、身体のどこかに……」

「ええ。これが別件というほうが奇跡的ですよ。でも、なんらかのイレギュラーが起こった可能性はある」

 死亡当時、被害者は一人でいつも通りの日常を送っていたこと、大量の切り傷がつけられた遺体、そして、遺体のそばに添えられた一輪の紅い花。

 ここまでの一致を示しながら”あれ”が見つからないのは不自然だ。グリフィンは一瞬のうちに、バスルームから、遺体、バスタブ、へと視線を揺り動かし”集中”する。

 ものの数秒。現場に仕切りを渡す捜査員たちの雑音も、指示を出すクレイグの大声も、グリフィンには聞こえなかった。

「なるほどね……」

 マクファーレンは死の直前に刃物を持っていた。死因となった切創群との前後関係はわからないが、左の手のひらに自分でくりぬいたような傷がある。その後刃物は彼の手を離れ投げ出された。これは、バスタブの隅にわずかに傷がついていることからわかる。

 今までの被害者はみな無防備な状況下で殺害されていた。対してマクファーレンには死の間際までの明確な意図が見える。

 ウィリアム・マクファーレンは純然たる被害者ではないのか? だから”あれ”が見つからないのか?

 そして、バスルームから消えた件の刃物は、現場に第三者がいたことの証左だ。その真意を探ることは、事件解決に直結するだろう。

「わからないな。ここまで不自然なところだらけだと、まるで超常現象の類いのようにすら……」

 流れるグリフィンの視線は、壁のタイルのひとつに止まった。

 たちの悪い前衛芸術にすら見える現場に、わずかな綻びが、見えた。

「カーター警視。薄刃のナイフのようなものはありませんか」

「どこかにあるはずだが……。お前、知らないか」

 クレイグが捜査員のひとりに声をかけると、捜査員は出動の折に持ち込まれた用具箱に駆け寄り、小ぶりな刃物を取り出した。きれいに洗浄されているところを見るに、汚染による悪影響が考えられる場合に衣服などの布を裁断するためのものだろう。

「では、お借りします」

 血しぶきに縁どられ浮かび上がった、不自然な壁タイルの溝。そこに刃物を突き立てる。何度か力を掛け空色のタイルを引き剥がすと、四ケタのダイヤル錠が施された金庫が現れた。

「へえ。もう少し、わかりやすいものが出てくると思ったんだが」

「何故、バスルームにこんなものが……。にしてもよく見つけた。相変わらず目“だけ”は一流だな」

 クレイグはからかうように言った。

「だけ、は余計ですよ。……これ、誰かに開けさせてください。私は少し、外の風を浴びてきますので」

 呼び止めるクレイグの声をよそに、グリフィンは引き剥がしたタイル片手にマンションを出た。

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