第6話
その夕は会議に出席した全員と、倉庫のゼネラルマネジャー、受注係を指揮下に置くビジネス・アドミニストレーションのマネジャー、そして経理部のマネジャーを加えて立食形式の懇親会がホテルの宴会場で開かれた。田崎の希望で社長秘書のナンシーも加わっていた。いつもと異なるのは、社長から前期の報奨金に付いては言及がなかったことであった。
談笑中のナンシーとロレインに歩み寄った田崎が、「ナンシー、先日はロレインがお世話になった。ありがとう」
「どういたしまして。きょうの会議の内容は直ぐにオフィス内に広まって、受注係の女性社員が私の机に来たわ。これで受注の事務処理がスッキリすると喜んでいたわよ。これまでは電話やメモ書きだけでインプットすることが多く、修正やキャンセルにずいぶんと時間を取られていたようだわ」
「それはよかった。なにか気にかかることがあったら、このロレインに連絡して欲しい。一歩一歩働き易い会社にしよう」とロレインを振り返りながらナンシーに告げる。ナンシーの性格を知る田崎が、田崎の願望を社内に広めるに違いないと期待して放ったメッセージであった。
懇親会が半ばを過ぎた頃に営業担当副社長が歩み寄り、田崎を宴会場の隅に誘った。
「マサト、業務改善策のことでお話することがあります」と切り出した。田崎が想定した通りだ。
「あなたが察しの通り、中西部でこれまでに架空の注文をインプットしたのは事実です。昨年までは私も知らなかったが、今年の販売目標が実現不可能で他に手段がない、とセールスマネジャーから懇願されましてね。悪いこととは知りながら、いずれ市場が改善すればそれを埋める販売が期待できると、安易に目を瞑ってしまった。もしセールスマネジャーの処分を考えているのなら、この私も同罪だ。処分を受けることにやぶさかではない。ただ、ひとつ含んでもらいたいことがある」近くにだれもいないことを確かめた副社長が、「先日、ロレインが出張して本社内の関係者を聴取しましたね。入社間もない社員が社内の業務の流れを学ぶためだとナンシーから説明がありましたが、後日に照会の内容を関係者から聞き出すと、どれもが新入社員の問いにしては高度過ぎる。背後にあなたの思惑があることは明らかで、セールスマネジャーも、架空取引があなたの目に留まったからではと訝って相談にきました。きょうの午後の会議で披露された改善策はそれを裏付ける内容で、セールスマネジャーも覚悟をしています」
ひと息付いた副社長が、「処分はやむを得ないことでしょうが、公表に当っては、黒人女によって事情が明るみにされたという印象を与えることだけは避けて欲しい。そのようなことが明るみになれば、世間から爪弾きを受けることになります。日本人のあなたには理解できないことかもしれないが、それが現実なのですよ」
「架空取引だけでなく報奨金を騙し取ったことで、今後の成り行きによってはこの件は警察沙汰になるかもしれません。それでも、人種偏見から出た世間の反応があなた方の心配事なのですか?」
田崎が副社長の目を覗き込む。視線を外した副社長は苦渋に満ちた表情で、そうだと頷いていた。
田崎は会食後に坂田常務を伴って事務所に引き返した。本社の社長に国際電話を入れて会議の進捗状況を報告がてら、翌日に話し合われる販売計画について社長の承認を得るためであった。
日本はすでに火曜日の昼前だ。会議室のスピーカー・フォーンを利用する。
「田崎さん、そちらの会議の様子はどうですか? 今年の全社の業績はいつものことながら北米次第で、先ほど終えた役員会でも期待すると話し合ったばかりですよ。欧州から帰途の坂田常務は会議に間に合いましたかね?」社長の声が会議室に流れる。
「社長、ここに坂田常務もいらっしゃいます。常務にも本日の会議に立ち会って頂きましたが、実はご報告しなければならないことがあります」と、架空売上の発見を手短に告げた。
「田崎さん、これは粉飾ですか? 米国法人は連結されていますので、米国の粉飾は親会社の粉飾にもつながります。もし粉飾決算となれば上場廃止に追い込まれることにもなりかねない」
声がうわずり始め、苦虫を噛みつぶしたような顔で受話器を握る社長のようすが手に取るようだ。
「田崎さん、あなたに入社をお願いしたのも、積極的なM&Aによって業容を拡大する戦略だからです。そのM&Aを始めようとしている矢先に、粉飾決算がマスコミで騒がれるようなことにでもなれば、M&Aどころか、わが社にとっては命取りになりますよ。架空売上はいつ頃からのことですか?」
「これまでの調査では一昨年に一件、昨年度に二件、そして今年度は第一四半期と第二四半期にそれぞれ一件あります。ただ、第一四半期の架空売上は第二四半期に入力した返品で相殺され、第二四半期の架空売上も同じように第三四半期はじめの返品処理で相殺されています。今月はじめに入力された大量注文は明日にでもキャンセルさせますので、今年度に限っては架空売上は回避できます」
「それはよかった。あなたの前任者だった今の欧州社長は架空売上を見過ごしたまま決算をしたことになるね。過去の決算はどうすべきかね?」
ひと先ず安堵した社長の声が伝わる。
「監査法人と協議する必要がありますが、決算書の修正は避けられないと思われます。額は幸い小額ですので、外部から指摘される前に修正してしまえばご心配には及ばないと思われますが」
「田崎さん、早速その手はずを取ってください」
「社長、お電話したのは架空売上の存在をご報告することと、架空売上を生んだ根源である過大な販売目標の修正をご承認頂きたいからです」といって前年度十パーセントアップの年初の計画を前年並みに引き下げる田崎案を告げた。
「田崎さん、商社マンだったあなたもご承知の通り、販売ノルマは少々チャレンジングでなければ潜在的に可能な販売も未達成に終わることになります。前年並みでは成長が見られません。坂田常務、あなたのお考えはいかがですか?」
「社長、ご意見はもっともです。しかし、米国景気が前年比マイナスで推移していることから、前年並みであれば他社のシェアーを食ったことになります。本日の会議での報告からも販売目標の下方修正は妥当と思われます。販売達成率と報奨金がリンクしていますので、過大な目標を掲げたままでは米国ではこのような不正が起きるのでしょうね。今回はニューヨーク事務所の女性職員が見付けてくれましたが、手の込んだ巧妙な手を編み出すことも考えられ、再び粉飾に走るようになると、社長が先ほどご指摘されたように親会社に多大な影響を及ぼすことになりかねません。その目を摘み取るためにも田崎さんに報奨金制度の見直しをお願いすることにします」
「分かった。田崎案で明日の会議を進めてください。功績のあったそのニューヨーク事務所の社員には褒美を出すように現法社長に私から指示して置きましょう」
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