第5話
「南北戦争は黒人のための奴隷解放が目的だったと教科書には記載されているけど、あれは白人が創り上げた歴史だわね」夜景を見ながらロレインが呟くように語る。
「日本の歴史教科書でも南北戦争は奴隷解放のための戦争だったと教えている」
「だれのための奴隷解放だったのか。その点を曖昧にしたまま歴史が書かれてしまったのよ」
「それはどういうことかね?」
「リンカーンの奴隷解放宣言の原文を一読すれば、教科書が間違いなのは歴然としているのに、だれも読まない。それは多くの黒人も同じことなの」
ロレインがいわんとしたことは、南北戦争が黒人のためだったという誤まった歴史認識が独り歩きして、そのため黒人への偏見がその後も米国社会から消えることがなかったことにある。
「南北戦争中の奴隷解放宣言は、大統領としてではなく北軍の最高司令官としてのリンカーンが発布した軍令だったことが忘れられてしまっているのよ。宣言を読めば軍令だったことは明らかで、リンカーンの狙いは、長引く戦争に終止符を打つために、南軍の支配下にある地域に住む奴隷を解放し、それで南部社会に混乱をもたらすことを目的にしていたのよ。だから、北軍がすでに支配していたミシシッピー河河口の要衝だったニューオリンズ市内の奴隷は解放の対象から外されていたわ」
「南北戦争は南北双方に五十万人を超える戦死者を生んだ米国最大の戦役だったね。日米戦争による米軍の戦死者は十万人にも満たない」
「白人が黒人の奴隷解放のために多くの戦死者を生んだとすれば、なぜ一世紀後の一九六〇年代にキング師が暗殺されるような公民権運動を待たねばならなかったのかが説明できないことになるわ」
それは田崎も長年にわたって不可解に思っていたことであった。
「南北戦争は、奴隷制度によって土地に縛られた労働力で成り立つプランテーション経済の南部と、自由に雇用できる労働力によって工業化を進める北部との南北間の経済戦争に他ならないのよ」
経済学を専攻した田崎には目から鱗の鋭い指摘に思われた。
「北部の嫌がらせによって追い詰められた南部が蜂起して起きた南北戦争は、土地に縛られず自由に手に入る労働力を必要としていた北部の白人経済のためだった。黒人のための奴隷解放宣言というのは、白人社会が創りだした美化された歴史に過ぎないわ。それに、リンカーンは奴隷制度が人道上の道義に反することだと認識はしていたものの、黒人は白人とは共存できない劣った人種と考えていて、現に解放奴隷を中米に設けた植民地に送り込む構想を書き残している」
オフィスでは見ない毅然としたロレインを田崎は新鮮な気持ちで見つめていた。
月曜日の朝八時に本社近くのモテルの会議室で第三四半期の営業会議が始まった。
議長役の田崎が会議の議事内容を告げる。その日の午前中は米国法人の社長から本社を含めたグループ企業の最近の経営情報が、次いで日本から出張中の営業担当役員の坂田常務からグループ全体の販売状況が報告される。その後はランチまで各地域のセールスマネジャーが第三四半期の販売予想を報告することになっていた。
昼食後は、最初に電算室の責任者からミッド・レインジのIBM製ホスト・コンピューターからパソコンを結んで処理をするLANシステムへの移行に関して説明があり、その後にロレインが受注・出荷など営業に直接関連する事務手続きの改善策を紹介する予定が組まれていた。
翌日の火曜日は、各地域から第四四半期と今年度の年間販売見通しについての報告があって、昼食前に会議は閉会することになっている。
坂田常務からは、年初から九月末までの日本国内と東南アジアの販売は年初の計画を達成しそうだが、欧州が不振のためにグループ全体の計画達成は米国の実績次第であり、一層の拡販を期待すると挨拶があった。
東部、南東部、南部、西部のセールスマネジャーから販売予想が報告された。景気後退の影響を受け、これらの地域全体では前年並みを維持するのが精一杯で一割増しの計画は達成できないとの報告であった。
その後に立ち上がった中西部のセールスマネジャーは、前週にまとまった受注があったので、月末までに出荷できれば、他地域の不振を補って一割増しの今期の
計画は達成可能である、と自信に満ちた面持ちで報告を終えた。全社の年初から九月末までの販売予想は中西部の健闘のおかげでほぼ計画通りと集計され、坂田常務も満足気に隣に座る営業担当副社長に笑いかけている。
午後の部が始まった。電算室長のプレゼンが終わり、十分間の休憩をはさんでロレインの事務処理改善策の番がやってきた。冒頭に田崎がロレインを紹介し、本社を訪れて実態を視察した結果であると付言し、理解を得るために疑問がある際には途中でも手を挙げてよいと告げた。
ロレインが、受注係は客先からの発注書なしにはインプットをしない、との改善策を告げると、西部のセールスマネジャーから、地理的に離れた西部の客からの注文書の郵便を待ってからでは客先の納期を満足せず失注につながる、例外措置を認めるべきだ、という苦情が出された。
これは事前に予想したことで、ロレインは答えを用意していた。テーブルの上に置かれたプロジェクターで、過去三年間の即納を求める注文書の数とその数量を地域別に示したリストをスクリーンに映し出した。
そのリストによれば西部からの即納を求める注文書は三年の間に五件だけで、全体の二パーセントに過ぎず、しかもどの注文書も、即納とはあるものの一週間以内の出荷と客先は記していた。在庫がありさえすれば注文書の到着を待ってもじゅうぶん客の条件を満たすことになる。
西部のセールスマネジャーが、そんなに少ないとは知らなかった、と顔を赤らめる。ロレインが他の地域でも同様であり、口頭で受注のインプットをしなければならない過去の事例は存在しないことを告げて、「失注の恐れがある緊急発注はファックスで対処することでは如何でしょうか?」と全員を見渡す。ちょうどその頃にファックスが導入され始めていた。だれからも異論は出なかった。
ロレインは続けて、「注文書のキャンセルや客先による返品の場合も、同じように客先がサインした書類を受領後に社内の事務処理を始めることにしましょう」といって、過去にあった注文書のキャンセルと客からの指示書がないにもかかわらず返品を受けた例を羅列した一覧表をスクリーンに映し出した。
田崎は、そのとたん、営業担当副社長と中西部のセールスマネジャーがお互いに視線を交わしたことを見逃してはいなかった。セールスマネジャーだけでなく副社長も関与した架空受注であったことが明白だ。
ロレインが、「この会議には出席していません倉庫の入出荷の責任者には、出荷は客先の発注書番号の記載された出荷指示書のある場合に限ること、そして返品の場合は客先によるその理由が明記されたものに限って入荷処理をし、理由が判然としない返品は、倉庫内に設ける仮保管スペースに搬入する新ルールを伝えます。これまでの返品はかなりの量に上ります。売上減だけでなく、返品処理に必要な労力は事業にとって無駄ですので、返品の削減のための原因追究も、仮保管スペースを管理する新チームが担当することにします」
坂田常務が、「スクリーンに映っているリストでは中西部に返品が集中しているが、これはどのような理由からなのかね?」と中西部のセールスマネジャーに質問した。坂田常務は日本が電動工具を海外から輸入していた時代に専門商社に勤務していたことがあり、流暢な英語をあやつる。
セールスマネジャーは上司の副社長に視線を送りながら、「中西部には大手の客が集中しています。日曜大工工具を販売する大手チェーン店などで、小売店が全米各地に分散しているために全社の在庫を把握することが困難で、誤発注の可能性があります。いったん誤発注が起きると大きな返品を生むことになります」
坂田が、「それはもっともなことだ。だが、どうして大量の誤発注が期末に起きて、その返品が翌期のはじめに集中するのかな。私は米国の商習慣には明るくないので、皆さんでこの辺りを分析して欲しい」といってロレインに向かって、「ロレインさんといったね。あなたの指摘通り、返品に社内のエネルギーを浪費するのは無駄以外のなにものでもない。社長、これはこの会議後にしっかりと原因追究をしてくださいね」
日本で先代社長に長く仕えた社長だ。これまでのロレインのプレゼンから営業部でなにが起きているのか察していた。会議に先立って田崎からは、不可解な事務処理が見つかり社内改革を必要とすると告げられてもいた。
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