第4話

 ロレインは姉とブルックリンのその一軒家に住んでいた。姉はテレビドラマではNYPDと呼ばれるニューヨーク市警察で麻薬取締の巡査長を務めている。その日は夜勤で姉は留守にしていた。

 ロレインがパジャマ代わりの膝までの長いTシャツを田崎に手渡し、シャワーを薦めた。シャワーを浴びる田崎は、曇りガラスを透して見える、化粧を落として歯を磨くロレインにガラス戸越しに、

 「ロレイン、来週の会議に君も出席した方がよさそうだ。明日、僕と同じフライトを予約するように」

 「マサトといっしょに出張するの?」

 「そうだよ。日曜日午後にニューヨークを経ち、火曜日の夕刻にもどることになる」

 「嬉しいけど、どうして?」

 「タクシーの中で考えたのだけど、管理責任者の僕が会議で用意した改善策を発表すると、上からの命令として受取られてしまって議論が展開されない恐れがある。君なら質疑応答が起きて、中西部だけでなく他地域のセールスマネジャーの理解が深まるメリットがある。それに営業担当の副社長や中西部のセールスマネジャーの反応を僕がじっくり観察できるからね」

 田崎が出るのと入れ替わりに、ロレインがシャワールームに踏み入ってガラス戸を閉めた。瞬く間のことだったが、裸体が田崎の目を過ぎった。ロレインの肌は白人と見誤るほど白いものの、田崎の目に飛び込んだのは、黒人に特有のしなるような肢体であった。

 田崎がロレインのベッドルームに泊まり、ロレインは姉のベッドでその夜を過ごすことにした。女性の寝室に泊まることなど、この歳になるまで田崎は体験したことがない。ロレインは香水を使用しないからか、ベッドには女の痕跡はなかった。しかし、ベッド際のスタンドにはピンク色の傘が、壁には花模様の飾りが、開け放したクロゼットにはブラウスやジーンズなど女性の衣料が吊り下がっている。田崎のアパートとは別世界だ。


 翌朝はロレインが朝食を用意してくれた。朝食中に夜勤が明けた姉が帰宅した。私服姿の上着を脱ぐと、腋の下には短銃が入ったホルスターを着けていた。

 ロレインが出張予定を姉に告げる。

 「先日出張したばかりで、また? 私など飛行機に乗ったこともないのよ」

 「火曜日の夕方に帰るから」

 田崎が姉に問いかける。「警察の取締が強化されても市内の麻薬取引が一向に姿を消しませんね」

 「路上で売買する小者たちをいくら拘束しても、元を断たねば麻薬問題は解決しないわね。市警察だけでは限界がある。だから小者の取締よりもFBIや連邦政府の麻薬捜査官たちとの連携に努めているのよ。麻薬常習者には同情できる事情を持つ者もいるけど、麻薬取引で巨額の儲けを手にする背後の大物は許せないわ。麻薬犯罪はその根を絶たねば、いたちごっこの連続で終わってしまうものよ」

 田崎はこれから進める架空売上の一件も同じことだと思われた。根源は無理な販売目標にある。若社長を説得しなければならない。


 田崎とロレインはバスと地下鉄を利用してオフィスに向かった。会議資料のコピー取りが残っていたからだ。

 コピーを取り終え、ロレインの航空券を手配したふたりは、グランド・セントラル・ステーションの地下にあるオイスター・バーで昼食を終えて地上に出た。

 ロレインは会議に必要なスライドなどの入った大きな封筒と、ファイルを入れた弁護士がよく利用するゴムバンドが付いている茶色の紙製のフォルダーを両手で抱えている。

 田崎はロレインにいっしょに来るように告げて五番街の角を曲がった。しばらく先にブリーフケースや旅行用ケースを売る店がある。

 店の棚を見ていた田崎がバーガンディー色の手提げ鞄を指差して店員に下ろしてもらった。中がふたつに分割されていて、片方に封筒を他方にファイルを納めることができる。

 「ロレイン、どうこの鞄は?」

 「私のため?」

 「そうだよ。色が女性に向いているのでは? 封筒とファイルを入れてみては?」

 ロレインが抱えていた封筒とフォルダーから取り出したファイルをいれるとぴったり納まった。

 「皮製の鞄を持つのははじめてのことよ」

 「つまらないことだけど、ビジネスウーマンの外見が時には意味を持つからね」

 他の棚の男物の鞄を見るために田崎がレジを離れると、声を落とした女性の店員がロレインに、「素敵なボーイフレンドね」

 「ボーイフレンドじゃなくて職場の上司よ」

 「ただの上司がこんな高価な鞄を贈るはずがないわ。あなたはラッキーだわ」

 

 ふたりがインディアナポリス空港に降り立った。この空港は市の南西に位置している。米国本社は市の外側を環状に走るハイウェーの、空港からはちょうど反対側の北東の地にある。その夜は本社近くのモテルを予約してあったが、田崎はレンタカーを市の中央に向けて走らせた。

 そのレストランはインディアナポリスのダウンタウンにある高層ビルの最上階にあった。そこからは市街を見渡すことができる。通常の日の夕刻はビジネスマンで溢れて事前に予約の必要がある人気店だが、その日は日曜日なので空いているはずだ。

 地下の駐車場に車を停めて最上階に通じるエレベーターに乗る。エレベーター・ホールに面してレストランの受付がある。

 受付の若い男がエレベーターから出てきた田崎とロレインの頭の天辺からつま先までを見つめる。東洋人と白人ではない若い女のカップルを訝る様子が明らかだ。

 田崎が受付から見える窓際のテーブルを指してふたり、と告げると、男があのテーブルは予約が入っている、とぶっきらぼうに答える。予約のテーブルならば白い札が立っているはずだがそれもない。その男の素ぶりから、お前たちが来る場ではない、といいたいことが明らかだ。

 ニューヨークに移るまでにそのレストランでなんども食事をしたことのある田崎が、マネジャーを呼べ、と告げようとしたその時、奥から顔見知りのマネジャーが出てくるのが見えた。

 受付にいる田崎の姿をとらえたマネジャーが、「マサトじゃないですか。久しぶりですね。ご出張ですか?」と歩み寄る。

 このマネジャーは前年まで郊外のホテル内にあるレストランの店長をしていた。電動工具の在庫を収容した倉庫を併設した本社にはおよそ四百人の従業員がいる。毎年クリスマスの直前になると社員のためのクリスマス・パーティーをそのホテルの隔壁を取り除いた宴会場で開いていた。食事を提供したのがそのレストランで、店長は田崎がだれであるかを心得ている。

 田崎が、窓際のテーブルを指して、「あのテーブルを、とお願いしたのだが、予約が入っているとか」

 マネジャーが受付の男に、「だれから予約が入っているんだ?」と問い質す。

 あわてた男が、「アッ! 先ほどキャンセルがあったことをすっかり忘れてしまって」と頭をかく。

 田崎がマネジャーに、「こちらはマンハッタン事務所のロレイン・ジョンソンです。明日からの会議に出席するために同伴しました。インディアナポリスの夜景を紹介しようと思いましてね」

 分厚いメニューを取り上げたマネジャーがロレインの先に立って窓際のテーブルに案内する。笑顔を保ったままの田崎が受付の男に鋭い視線を投げかける。


 飲み物のオーダーを取ったウェイターが去ると、受付の男が揉み手でテーブルに歩み寄り、先ほどは失礼しましたと形ばかりに頭を下げる。マネジャーから叱られたからで、渋々の謝罪が田崎の目には明らかだ。

 田崎が、「レストラン業の受付がプロファイリングで客を選り好みするのはよくない。君ももう少し修行が必要だな」

 男がそそくさとテーブルを離れる。プロファイリングとは外見だけで人を判断することを意味し、対象になるのは黒人やヒスパニック、アラブ人の場合が多い。

 窓越しに広がる夜景に目を転じた田崎が、「インディアナポリスはこの州では最大の町で、州都でもあるんだよ」

 「アラ、珍しい例ね。ミスター・タナカはマンハッタンがニューヨーク州の州都と思い込んでいたそうよ。オーバニーなのよ、と告げると驚いていたわ」

 ミスター・タナカとはマンハッタン事務所に着任した駐在員の田中のことだ。

 「イリノイ州の州都はシカゴではなく、リンカーンが弁護士をしていたスプリング・フィールド。カリフォルニア州ではロスやサンフランシスコではなくサクラメント、と米国の大半の州では人口が少ないほど州都である可能性が強い。日本では考えられないことで、駐在期間が長い者でも誤まった理解のままで日本に帰任する者がいるんだ」

 「インディアナポリスは大都会でも人種偏見が強いの?」とロレインが声を落として尋ねる。

 インディアナポリスは人口が七十万人を超える地方都市としては大規模で、このレストランに近いダウンタウンの南の一角には黒人街も存在する。しかし郊外の日本企業に職を求める黒人はこれまでに出現しなかった。大多数の白人から陰に陽に差別を受けることを黒人たちは知っているからだ。

 ナンシーの協力もあって前回の出張中にロレインが偏見から出た差別を受けることはなかった。しかし、倉庫内を歩くとあちこちから冷たい視線が注がれていることを痛いほど感じた。日本人駐在員を除くと社員の全員が白人であることに気が付くのに長い時間を必要としなかった。

 「あからさまな差別は姿を消したものの、偏見は根強く残っているね。先日の出張中に気まずい思いをすることはなかったかね?」

 「ナンシーのおかげでそれはなかったわ。冷たい視線が注がれていたけど、私は幼少時から毎日のようにそのような視線を浴びてきたからどうということもなかったわ。私はブルックリンの女よ。そんなことを気にしていてはブルックリンやマンハッタンでは暮らしていけない」

 ロレインが生まれてから今まで、その偏見と差別に身を置いてきたことを改めて認識する田崎であった。ロレインの前でことを荒げるのを避けた田崎だが、普段ならば厳しい抗議を浴びせていたかもしれない受付の仕種であった。あの不快感をロレインは四六時中味わっているのだ。

 田崎も白人社会から見ればマイノリティー人種のひとりだ。戦前や戦中はもちろん戦後になっても日系人への差別や迫害は存在した。戦中には米国籍であるにもかかわらず日系人というだけで、財産を没収され僻地の収容所に強制移住させられた歴史もある。

 それが高度成長時代を経て日本が米国と肩を並べる経済大国にのし上がると、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどという学者の語が持て囃され、日本人へのあからさまな差別は姿を消した。米国にとって日本が脅威の存在となるや、日本人も同じ世界の一員としての地位を手にするようになったのだ。日本人のひとりひとりが変わったのではなく、背後の経済力が白人の意識を変えたに過ぎない。

 背後の看板によって個人の評価や信用度が左右されるのは海外だけのことではない。田崎は商社を退社直後に、それまで通った銀座の首都高速道路下のバーに立ち寄ったことがある。ママとふたりのホステスだけの小さなバーで、田崎の属した部では中堅社員が利用していた。勘定は付けで、田崎は数回ごとに清算していた。

 ところが、その夜はバーを出ようとする田崎に、ホステスが済まなさそうに勘定書きを突き付けてきた。背後の看板の意義を知らされた田崎であった。同じ個人でも看板を外せばこのような扱いを受ける。それが普通の世界なのだ。田崎は憤りよりも、世間の常識を教授してくれたそのホステスに感謝したものだ。


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