第3話
ロレイン作成のレポートを手にした田崎とロレインが、会議室の白板を前にしている。
「ロレイン、このレポートだけではだれかが意図的に架空の取引を画策したとはいい切れない。返品に際しての客先からの通知の有無や、受注係での受注・キャンセルのインプット指示書、それに倉庫の入出荷を裏付けるトラック会社の積荷証書や荷渡証書などの記録を突き合わせる必要があるね。まず、業務の流れを確認するためにフローチャートを吟味してみよう」と田崎が白板にチャートを描き始めた。
「客先から発注があると本社の受注係が受注内容をインプットする」
「それが正規の発注であっても、架空の発注であっても、受注係は同じインプットをすることになるわね」
「客先からの発注書が届く前にインプットすることが常態化していることはこれまでにも耳にしている。客先の希望納期を満たすためには郵送される発注書を待てないからだ、とされている。注文がインプットされると、即納を求めている商品の在庫があれば」と田崎が矢印を書き加える。
「出荷指示書が直ちに倉庫の出荷係に回送されるわ」
「即納の希望に反して在庫が切れていれば、日本からの入荷予定のデータと付き合わせて出荷予定日が設定される。担当のセールスマネジャーがその情報を客に伝え、客が同意すれば受注残のファイルに記録され、出荷予定日に近付くと倉庫に出荷指示書が送られる」
「客がその納期まで待てない場合は、注文がキャンセルされる可能性があるわね。私のレポートにあるキャンセルがそのようなケースなのかを確かめる必要があるわ」
「今年に入ってから二度記録されている大量の返品は、いつ倉庫から出荷された製品が返品されたのか、を確認すべきだね。返品された機種ごとに年初からの入出荷を順に追えば見当が付くはずだ」
「もし、返品された機種が大量受注に含まれていたものと合致するなら、客先からの返品通知書の有無と、返品受入れをだれが承認したのかも解明の鍵となるわね」
「返品を倉庫が受取った際のトラック会社からの積荷証明書と発送人の名を客からの返品通知書と突き合わせることも必要だね」
「キャンセルをインプットした受注係のキャンセルの記録と照合することも肝要だわ」
「返品された商品の代金が未払いであれば、売掛金がキャンセルされなければならない。その事実を確認する必要がある。すでに代金を回収済みであれば、返金のためのクレジット・ノートを発行する必要がある。君の記録では、今年に入ってからの大量出荷と大量返品の間にはどれも三十日の開きがある。わが社の決済条件は出荷後三〇日だから未入金だった可能性が高く、売掛金がキャンセルされたと考えられる。これも確認事項のひとつだな」
「社内の処理に使われた書類はだれが承認したのかも確認すべきね。ひょっとしたら口頭だけで記録が残っていないかもしれないわ」
「ロレイン、現場から離れたニューヨーク・オフィスでこのような確認作業をするのは困難だ。至急、インディアナポリスの本社に出張してくれないか」
「アラ、はじめての出張だわ。嬉しい。でも、私、飛行機に乗ったことがないの。大丈夫かしら」
「今は多くのビジネス・ウーマンが出張を繰り返している。出張はビジネス・ウーマンにとっても必須だからね」
ところで、と田崎はロレインを見つめて、「ひとつ注意して置くことがある。営業部が架空取引に手を染めるのは重大な行為で、もしそうであれば処分は避けられない。それだけに、最初から作為があったと思い込んでことに当るのはよくない。営業部員も家族を抱えた社員に変わりがないからね。虚心坦懐に記録を収集することが肝要だ。間違っても性急な思い込みだけでことに当らないように。本社の関係部には君の出張は社内研修の一環だと伝えて置く。教えを乞う姿勢で臨むように」
机にもどった田崎は本社で社長秘書を務めるナンシー・ホプキンスに電話を入れた。ニューヨークに移る前の田崎の秘書はナンシーではなかったが、ナンシーがなにかと新入社員の田崎のために便宜を図ってくれた。ニューヨークに移動する直前にナンシー夫妻を夕食に招待してあった。
「マサト、久しぶりね。マンハッタンでの暮らしはどう?」
「ナンシー、ここは噂通り、二十四時間、週七日の間エキサイトメントが絶えない世界で、退屈することがない。大いに楽しんでいるところだ」
「それは結構なことね。遊びが過ぎないように! 社長に用事?」
「いや、電話したのはあなたにお願いしたいことがあってね」
「マサトのためならなんでも応じるからご遠慮なく」
「実はニューヨーク事務所のロレイン・ジョンソンを今週中にそちらに出張させる。わが社も規模が年ごとに大きくなり、社内の規則や事務手続きが追い付かない事態が散見されるようになったのでロレインに見直しを命じている。倉庫から離れたニューヨーク事務所では細部を知ることができないので、二泊三日の出張でそちらの業務を視察させたい。そこでロレインを受注、倉庫の入出荷、経理部の在庫管理や売掛債権の管理などの責任者に引き合わせて欲しいんだ」
「そんなことならお易いことよ。任せてちょうだい」
「ありがとう。もうひとつあるんだ。ロレインは外見は白人と見誤るほどだが実は黒人なんだ。あなたもご承知の通り、本社の四百人の従業員に黒人は皆無だ。ロレインが黒人と知ると、接触を嫌ったり避ける者が出るかもしれない。そのような兆しが見えたら、とりなして欲しいんだ。もし協力しない責任者がいれば、私の命令だと伝えて、それでも納得しない場合は知らせて欲しい。私から直に電話をしましょう」
「分かったわ。こんな重要なことを任せるのだからロレインは優秀な社員なのでしょうね」
「現場の経験は十分ではないけど、将来を期待している若手のひとりでね」
「マサト、ここだけの話だけど、本社内では社内の規則を軽視したり、時には無視する風潮が広まっているのよ。規則や手続きの見直しは時宜を得ているわ。私もでき得る限りの協力をするつもりよ」
ロレインが二泊三日の出張から帰ってきた。田崎が依頼した通り、社長秘書のナンシーが関係部署への紹介だけでなくなにかと親切にしてくれたようだ。
ロレインが持ち帰ったデータを机に広げた田崎がロレインからの口頭の補足説明を受けながら吟味している。
倉庫に残された出荷記録と返品の入荷記録は一見正常なものであった。しかし、ロレインがトラック会社にそれとなく確かめたところ、第二四半期のはじめに受取った返品の荷主は客ではなく、トラック会社の関連会社である倉庫会社であった。出荷された商品はその倉庫に預けられていたと考えられる。返品された商品は出荷時の梱包のままの状態でもどされていた。倉庫の入荷係から経理部に送られた帳票には特別な留意事項は付記されておらず、入荷の情報を手にした経理部が未払いの商品代金を直後に売掛残から減額していた。
第三四半期の返品は六月中旬に出荷されたものが、会社が夏休みだった独立記念日の週明けに返品されていた。商品はトラックに載せられたままだった可能性があるとロレインが付記している。
つい最近の九月はじめの大量受注は過去の例と同じように、客先からの発注書ではなく、セールスマネジャーが受けた電話連絡を記したメモを受注係がインプットしたものであった。出荷予定日は月末厳守となっていた。
期末に虚偽の売上を計上し、翌期にそれを相殺する返品があり、その返品による売上減を帳消しにするあらたな架空の受注がその後にあったことが明白であった。
期末が迫り田崎は行動を急ぐ必要があった。ふたつの手段が考えられた。
九月半ばにインディアナポリスの本社で開かれる営業会議の際に、中西部のセールスマネジャーを呼んでデータを示して問いつめるのがひとつ。
不正が起きたのは会社の制度に不備があるからで、その再発を防ぐための業務改善策を営業会議で発表するのがふたつ目と考えられた。
後者では、セールマネジャーが曖昧な社内の規則を言い逃れの口実に使うことを避けることができる。この種の社員相手の争いが訴訟に発展した際には、社内規則の不備だけが争点にされてしまう可能性がある。
また、改善策の実施日を十月一日にすれば、受注残に記録された大量の受注が密かにキャンセルされるか、あるいは翌期に返品が可能でないことから月末に出荷されないまま月を越すか、いずれにしても架空の売上を回避できる。
受注時には売上が計上されず、実際に商品が出荷された時点で売上が計上されるのは日米共に同じ会計原則が適用されているからだ。中西部のセールスマネジャーや、加担していると考えられる営業担当副社長や入出荷係の処分に時間をかける余裕が出ることも考えられた。
田崎は後者を選択することにした。厳正な処分をする場合には、会社の制度に不備があったという言い逃れをあらかじめ封じて置く必要がある。ロレインの調べでは、これまでの受注のインプット作業では客先からの発注書の裏付けがなくても、セールスマネジャーからの電話連絡やメモ書きで済ませているものが少なくなかった。そのため、受注のインプット後に誤りが発見されるケースが多いからか、受注内容の修正処理が毎月起きている。
注文のキャンセルや返品も、客先からの書類なしに口頭や社内のメモで処置してしまっていた。
田崎はロレインに会議の際に発表する社内手続きの改善策の立案を命じた。会議用の資料の準備に手間取ったのは、この改善策を会議資料に急遽追加することになったからだ。
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