第2話

 ヒギンズが事前に書類と面接によってスクリーンした数人の女性を田崎が面接することになった。マンハッタンという競争が激しいビジネス街らしく、候補者はだれもが優秀な実力の持主だ。

 駐在員のアシスタントにはリセプショニストを兼ねた愛想のよい若い白人の女性を採用した。イースト・リバーを渡ったクイーンズが自宅とかで、通勤はスニーカー姿で、職場でハイヒールに履き替えている。

 マンハッタンの女性の多くが同じことをしているのを見て、田崎は霞ヶ関の当時の大蔵省や通産省で役人がスリッパに履き替える慣習を思い出した。官庁の廊下をパタパタ音を立てて高級官僚が歩く。

 ヒギンズには事務に通じた年配の女性が選ばれた。この女性との面接で田崎は日露戦争が米国のユダヤ人社会に及ぼした歴史を知った。

 女性の祖父母は日露戦争が勃発した時に徴兵を避けて西ヨーロッパに逃避したユダヤ系ロシア人であった。ユダヤ人は最前線に派兵されると噂になり、多くのユダヤ人が同じようにロシアの国外に脱出し、その後に米国に移住してきた。マンハッタンの北にはそのようなロシア人が住みついた一角がある。

 ニューヨーク事務所で機関投資家や投資銀行との折衝窓口を務める田崎は、会社全体の管理業務も兼任していた。そのためアシスタントには経理の基礎知識に通じた女性を求めていた。三人の候補者から最終的に選ばれたのが、夜間の大学でビジネス・アドミニストレーションを修了したばかりのロレイン・ジョンソンであった。

 この学部は日本の商学部に準じたコースで、商取引に必要な基本知識を教える。ロレイン・ジョンソンの前職は販売管理のアシスタント役だったが、通学に都合の良いパートタイムだったために、定職を探していて今回の求人を知ったのだ。

 ヒギンズによれば大学の成績も良好で、前職への照会でも問題は見当らなかった。歳や人種を問うことはできないのでヒギンズの推測であったが、年齢は二十五歳前後で、肌がどちらかというと薄い茶色に見受けられることから、ニューヨークに多いプエルトリコ人かその混血だろうとヒギンズが田崎に告げた。肩までの黒い髪を勤務時間中はアップにしている。大きな瞳と高い鼻に細い鼻孔。受け口の唇が愛くるしい女性だ。


 米国法人では販売実績を含めた業務全体の進捗を、月報で社内と日本の本社に報告していた。米人幹部社員にも配付するために月報は英語で作成されている。

 日本の本社にも英文のレポートが送られるようになったのは、米国の経営大学院を卒業した若社長が就任してからのことで、それまでは米国本社では英文と邦文の別々のレポートを作成していた。日本本社が英文のレポートを受け入れるのは、国際化の先頭を走るといわれていた当時の総合商社でもなかったことで、先代社長時代の役員が次第次第に退任した要因にもなっていた。

 田崎がこの月報作成の責任を負っていた。新入社員のロレインにはその月報作成のためのデータを社内の各関係部から取り寄せてレポートの草稿を作成することを担当させた。

 受注業務と入出荷は倉庫があるインディアナポリスの本社が処理していた。各販売地域のセールスマネジャーは受注のたびにその情報を本社の受注係に連絡し、インプットされた受注データにしたがって電動工具が出荷され、経理部が客先に請求書を発送する。注文のキャンセルや返品も本社が処理していた。ロレインはこれらのデータを本社から集める必要がある。

 社内では四半期ごとの販売目標を設定し、セールスマネジャーへのインセンティブとして、設定した目標の達成度に応じて報奨金を支給していた。四半期の最終月の半ばには本社のあるインディアナポリスに各地のセールスマネジャーを集め、米人の幹部社員を交えた営業会議を開く。ロレインのレポートにはこの営業会議で使用されるものも含まれていた。

 米国法人の社長、営業担当の米人副社長、議長役の管理部門の責任者である田崎、それにニューイングランドの北東部、その南の南東部、五大湖周辺の中西部、メキシコ湾岸沿いの南部、そして西海岸の西部を担当する五人のセールスマネジャーがこの営業会議の出席者で、時には日本本社の役員も同席することがあった。

 四半期の販売実績と予想を集計し、目標達成のための対策を練るのが会議の目的で、夕刻時に開かれる立食形式の夕食会では直前の四半期の業績表彰と報奨金を米法人の社長がセールスマネジャーに手渡すことが恒例になっていた。


 ロレインは前の職場を離れる際にそれまでの同僚から、日本企業は白人至上主義だから苦労するかもしれない、と耳打ちされていた。ところが、新職場では他のふたりの白人女性となんら変わらない待遇で、田崎が事務所長であることからむしろアシスタントしては筆頭格の扱いを受けていた。それも田崎の肌の色を一切考慮に入れない姿勢から出ていることをロレインは敏感に感じ取っていた。

 それにも増して嬉しいことは、田崎がウォールストリートにある投資銀行や証券会社との会合にロレインを伴って出席することであった。まだ黒人が金融界のメッカであるウォールストリート界隈に頻繁に出入りしない当時としては異例のことで、同席する相手の幹部社員たちには当初は怪訝な表情を露にする者もいたが、田崎は意に介さず無視していた。シリコンバレーでの田崎の実績が知られているからか、やがてロレインに対する態度にも変化が出てきた。

 ロレインにはそうそうたるバンカーたちを相手に毅然とした姿勢を崩さない田崎が眩しい存在に感じられるようになっていた。


 ある日、入社して半年ほどになるロレインが田崎の机の前に立った。

 「マサト、今、時間がある?」

 「四半期の最終月に入ったばかりで今は急用もなく時間に余裕がある。どうしたのかね?」

 「このデータを見てほしいの」

 ロレインは過去三年間の販売実績をパソコンにインプットしてその推移を管理していた。社内のデータは電算室がIBM製のミッドレインジ・コンピューターで処理していた。しかしパソコンの出現によって、管理資料の一部は電算室の手を借りずに欲しいデータを抽出し分析できるようになった。本社から離れているニューヨーク事務所にとってはパソコンの活用は有効な管理手法を提供した。

 ロレインがそのアウトプットを田崎の前に広げた。それは中西部の四半期ごとの実績であった。

 中西部は全米にチェーン店を抱える工具類を扱う数社の大手小売店が本社を構えていることから、全社では最も販売量の多い地域となっている。そのため潜在的な需要が大きな中西部には他地域に比べて大きな販売目標が設定されていた。それにもかかわらず、中西部の目標達成率は常にトップで、報奨金の大半は中西部のセールスマンマネジャーが手にしていた。

 「この黄色いマーカーでハイライトした箇所を見て」といって黄色く塗られた数箇所をロレインが指差す。

 そこには四半期末にかなり大きな受注がインプットされ、その翌期に入ると似た数字の返品があったことが記録されていた。このようなインプットは二年前には一四半期だったのが、前年には第二四半期と第四四半期に見られ、今年度に入ってからはそれまでの二期にも記録されていた。そして、第三四半期の最終月である九月に入ったばかりの数日前にも大きな受注があったことが記録され、受注残のリストでは月末に出荷される予定になっている。

 多額の報奨金が支払われた大量の出荷があった四半期、そしてその翌四半期のはじめに同じような大量の返品があったことが奇妙に重なる。

 「マサト、これは偶然にしては不自然と思わない?」

 「ロレイン、確かに不自然だね」

 田崎はこのようなロレインの鋭い臭覚を評価していた。


 売上の架空計上は商法違反の不法行為でただごとではない。ましてやそれが報奨金を手にするためであったとすれば、商法の枠を越えて刑法の下で刑事責任を問うことにもなりかねない。

 田崎は悪い予感がした。事業環境が架空の販売を画策してもおかしくない状況にあったからだ。

 米国では前年から景気の陰りが顕著になっていた。景気の影響を最初に受けるのが建設業界であることは日本と変わりがない。建設投資が手控えになると電動工具の需要も冷えてしまう。今年の販売は厳しい環境に直面することが年初に予想された。

 しかしこの工具メーカーはこの十年ほど毎年前年を上回る売上を誇ってきた。積極的な社の戦略が評価されて本社の株価は高水準に推移している。米国景気が不景気だからといって、連結決算の対象である米子会社が前年の売上を下回る販売計画を設定することなど、若社長にとっては言語道断であった。

 先代社長に仕えた創業以来のベテラン役員たちの多くは体よく引退を迫られ、先代にとっては番頭の役割をはたしていた日本本社の副社長は、名誉職ともいえる米国法人の社長に転じていて、本社の方針に嘴をはさむ影響力はもはや持ち合わせていなかった。

 その米国法人の社長から芳しくない販売予想を知らされた日本本社は、営業担当役員を急遽派遣して、前年比十パーセントアップの販売計画を伝えた。米人のセールス担当副社長はそれは現実的ではないと抗議したが、本社の役員が社長が命じた目標を取り下げることはなかった。

 今年に入ってからの販売は米人副社長の予想の通り昨年の実績をなんとか維持する水準で、年初に設定された前年比一割アップの目標を達成することなく第三四半期もあと一ヶ月を残すだけになっていた。


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