神官竜の更新Ⅴ


「ごめんね。僕、このあと南下してネーベルラントに向かおうと思ってるから、ここでお別れかな。王様によろしく言っておいて」

 そう言ったヘグとクヴェーレフォルトで別れてから数日、一行は王都に戻ってきていた。

「お前はよかったのかよ、ヘグと一緒に行かなくて」

「俺は王都でまだやることがあるんで、今回は別行動っす。まあまたそのうち会うこともあるでしょう」

 そう言ったジャリルとも城下で別れ、残った四名は登城する。時刻は夕刻。

「王様に連絡は行ってんだろ? まさか一発で当たり引くとは思ってもなかっただろうなぁ」

 満足げに笑うカラムの横で、スーシャが緊張した面持ちでいる。

「我はあのような場所に長く住んでおったゆえ、王族に謁見する際の作法などが全く分からぬのだが、大丈夫であろうか」

「大丈夫大丈夫。うちの王様は作法とか全然気にしないから、急に襲いかかったりしない限り誰も怒らないさ」

 そう言ってフィルは、辿り着いた謁見の間の扉の前で立ち止まる。入り口の番兵が、頷いて扉を開けた。

 煌びやかな装飾の施された謁見の間の中央奥、豪奢な玉座には王様が座していた。足を組んで、肘掛けに頬杖をついている。その隣に、ガーヴィン。玉座の手前には、青い制服を着た王室親衛隊の隊員が二人立っている。

「あー、おかえりー。話は聞いてるよ。ご苦労様」

 一行は、発言と共に気持ち姿勢を正した王様の前まで歩を進める。

「ただいま戻りました。取り急ぎご報告を」

 フィルの発言を遮るように、王様がひらひらと手を振った。

「大方聞いてるから大丈夫。フィル、また怪我したのかい? 早めに先生に見せに行きなよ。……で、君がスーシャだね」

 王様の視線が、フィルの額からスーシャへと移動する。

「ああ、我は水竜祖の子スーシャ。この国の神官竜となるよう、要請を受けて参った」

「私はニールだ。よろしくスーシャ、歓迎しよう。神官竜は神殿の方に専用の居室があってね、あとで案内させるよ。少し待ってくれ。それと、君の事情は聞いている。明日にでもこの国の歴史が分かる文書を用意させよう」

「心遣い、感謝する」

 スーシャが頭を下げた。

「で、……あれ、ヘグは?」

 王様が全員の顔を見渡す。

「ヘグはネーベルラントに向かうそうなので、クヴェーレフォルトで別れました。王様によろしくと言付かっています」

「そうか、今回のお礼をしたかったんだが……残念だな」

 残念そうな王様が、腕を組んでうーんと唸る。

「そういえば、珍しいですね。王様が城内で親衛隊の護衛つけてるなんて」

 カラムが、親衛隊の隊員をチラと見る。皇子の護衛を担当するカラムとは同期でもなければ部署も違う隊員であるため、顔くらいはわかるが、あまり関わりはないといったところだ。

「ガーヴィンがうるさいからね。しぶしぶ」

 王様が、ガーヴィンにじっとりとした恨みがましい視線を送るが、当のガーヴィンは特に何か言い返すこともなく、事務的にその場に突っ立っている。

「フィル」

 ガーヴィンがおもむろに口を開いた。

「はい」

 フィルが、王様と話す時よりも若干緊張した面持ちで返事をする。

「すぐに額の傷を先生にみせてきなさい。今ならまだ邸の医務室に控えているだろう」

「えっ、あ、はい」

 拍子抜けしたように、フィルが頷く。

「王よ、今回の任務の帰還報告は済んだ。ここで解散させても宜しいか」

 ガーヴィンがかしこまった口調で王様に問う。

「いいよー。スーシャはこれから部屋に案内させるからここに残って。あとのみんなは解散で……シェオマがもう限界っぽいし」

 王様が苦笑する。先程から一度も発言していないシェオマは、疲れ果てて今にも寝そうといった顔つきをしていた。



 ばん! という荒々しく暴力的な音と共に、机上に置かれたいくつかの治療器具が跳ねた。

「貴様……」

 カイルが、怒りのあまりわなわなと震えている。患者用の椅子に座り、小さくなるフィル。

「私は何かあったら速やかに医者にみせろと言ったはずだが?」

 地の底から響くような威圧感のある低い声と共に、カイルがフィルを睨みつける。

「あの、ですから今こうしてですね」

 消え入るような声でぽそぽそと喋るフィルの言葉は、カイルが再び机を叩く音によって掻き消された。先程と同様に、治療器具が跳ねる。

「なぜ、現地の医者にみせなかったのか、聞いているのだが?」

 その怒りは烈火のごとく、しかし纏う空気は氷のように冷ややかだ。

「は、はい……あの、何か大丈夫そうだったんで、大丈夫かなーと」

「馬鹿者!」

 カイルが平手で机を引っ叩きながら立ち上がる。またもや跳ねる治療器具、ひっくり返る椅子。震えあがるフィル。

「貴様の素人判断で勝手に怪我の状態を決めるな! 何様のつもりだ!」

「ヒッ……すみませ」

「謝るくらいなら最初から怪我を放置するんじゃない! そうやっていつもいつも……」

「…………」

「……まあいい、傷の状態を診る。包帯を取れ」

 カイルはひっくり返った椅子を立たせると、そこに座った。

 フィルが包帯を解いて、傷を露わにする。

「えーと、石像の魔物に爪で引っ叩かれて昏倒したときについた傷なんですが」

「痛そうだな」

 カイルは傷をまじまじと観察したあと、再び口を開いた。

「確かに、傷自体は『大丈夫そう』だ。頭痛や首に痛み、その他体の異常は」

「ありません」

「よし、消毒する」

 手際よく傷を消毒してゆくカイルをフィルがじっと見つめる。

「なあ先生、手間かけさせてごめんな」

「何だ急に。私のこれは仕事だ、手間だの面倒だのと、そういった次元の話ではない」

 カイルが怪訝そうな顔をする。

「とはいえさぁ。言うことは聞かないし、健診には時間通りに来ないし、怪我は多いし」

「そうだな」

 カイルはフィルの発言をすんなり肯定すると、フィルの頭に包帯を巻き始めた。

「お前の仕事が危険を伴う場合があるのは理解している。怪我をする場合もあるだろう。だがな、手遅れになってからでは遅いのだぞ」

「ああ」

「役割分担だ。お前はお前の仕事を、私は私の仕事をする。私の仕事は、この屋敷の人間の健康を管理することだ。お前とて例外ではないからな」

フィルの頭に包帯を巻き終わったカイルは、フィルの背をバシッと叩いた。

「以上、診察と説教終わり! 行ってよし」

「ありがと、先生」

 フィルは小さく笑うと、医務室をあとにする。

「うお」

 医務室の扉を開け、廊下に出た途端に視界に入る影、リボンと赤い髪。

「な、ナターシャ」

フィルに緊張が走る。見上げるナターシャと、見下ろすフィル。二人の視線が、交錯する。

「……フィル、また先生に怒られるようなことしたのね」

 ナターシャのジットリとした視線が、フィルの額へと向けられる。

「い、いや、これには訳が」

「訳なんてどうでもいいの。フィル、今回の仕事に行く前に私がなんて言ったか覚えてる?」

「えっ? えーと、心配かけるようなことはしちゃだめ、って言ったかな」

 フィルが記憶力を総動員させて、当時の状況を思い出す。正確には「フィルも私に心配かけるようなことしちゃダメよ」だったか。

「そうね」

 ナターシャは珍しく陰鬱な表情でそれだけ言うと、そのまま押し黙った。

「いや、俺としてもな、お前に心配をかけるのは本意じゃないっていうか、今回のは事故だったっていうか」

 フィルが慌てて弁解しようとするも、ナターシャの表情は晴れない。

「いいの、分かってるもの。私が何を言っても無駄だって分かってるの」

「いや、あのなナターシャ、俺は」

 次の言葉が出てこない。フィルは、言葉に詰まったままその場で停止した。

「わ、分かってる、っけど、わ、私、フィルが死んじゃったりしたら、と思うと……」

 ナターシャの目に、じわりと涙が浮かぶ。

「こ、怖くて怖くて、怖くて、すごく怖くて、だって私、フィルのこと、だっ、大好きだから……」

 ぼろぼろと落ちる涙が、ナターシャのドレスに染みを作る。

「フィルの仕事が大変なのも、危ないのも、それでもフィルが頑張ってるのも、分かってるの。で、でもっ」

「ナターシャ」

「でもっ、だって、あのときみたいに、すごくたくさん血が出て……っ、痛そうでっ、そんな思い、してほしくないから」

 フィルがナターシャの頭を撫でる。

「ありがとな。そうだよな、俺のことを思って心配してくれてるんだもんな」

「本当は、もっと、笑顔でおかえりなさい、って言って、お仕事の話聞いたり……っ、そ、それからっ」

 フィルはナターシャを引き寄せると、そっと抱きしめた。

「ごめんな、心配かけたな」

 ナターシャがフィルの背中に手を回し、服をぎゅっと掴む。

「そ、そうやってすぐ優しくするんだから……っ、フィルの馬鹿、せ、責任取って……っ」

 突如、ガチャという音と共に、フィルの背後の扉が開く。

「お二方、良い雰囲気のところすまないが、部屋の真ん前でやられると私が部屋から出づらい」

仕事用の鞄を持ったカイルが立っていた。ナターシャは真っ赤になり、慌てて飛び退くようにしてフィルから離れる。

「せ、先生! いつから……!」

「いや、ご存知の通りさっきからずっと部屋の中にいたが」

 淡白な調子で答えるカイル。

「さ、最初から聞いて?」

「ああ」

 特に思うところはないといった様子のカイルの白衣の袖を、ナターシャが引っ掴む。

「い、今のっ他の人には言わないで! 秘密!」

「ああ、分かった」

「絶対よ!」

 ナターシャは念押しすると、フィルに向き直った。

「わ、私もう行くからっ! またね」

 そう言って慌てて立ち去ってしまう。

「罪な男だな、お前は」

 カイルの冷ややかな視線が、フィルに突き刺さる。

「い、いやあ……、なんというか、その、どうしよう……」

「知らん、私に聞くな。私は通常通り仕事を終えて自分の部屋に戻る。なにも見なかった、それだけだ。それとも何だ? 須らく責任を取るべき、とでも言ってやろうか?」

カイルが横目でフィルを見ながら、その場を通り過ぎる。

「せ、先生」

「冗談だ」

 全く冗談とはかけ離れたような無表情のまま、カイルが振り向いた。

「まあ、せいぜいどうすべきか考えたまえ、少年」

 フィルはその場に立ち尽くしたまま、ヒラヒラと手を振りながら去ってゆくカイルを見送った。



 翌日。

 男所帯で散らかった騎士団の詰所。

「なっはは、あははは、それは大変でございましたなあ」

 笑い転げる女は、黒髪を頭の左右の高い位置で結っている。メイシー・ペイジ、それが彼女の名だ。

「笑い事じゃねえって、事態は深刻だぞ」

 メイシーは散らかった机の上に置いた小さい布袋の中から、殻を剥いてある胡桃を取り出してぼりぼりと食べている。

「責任、取ればいいじゃん」

「簡単に言うな、軽々しく言えないだろそんなこと」

 フィルは悩ましそうに眉間をぐりぐりと揉んだ。

「責任取る気はあるの?」

「そもそも俺、責任を取らなければならないようなことは何もしていないんだが」

 フィルの言葉に、メイシーはやれやれと首を横に振った。

「分かってないねえ、そういうのは気を持たせた時点でもうダメなんだよ。つまり君は既にアウト有罪! 須らく責任を取るべき!」

「バッカ、そんなわけあるか。その理論で言ったらハインツなんかすでに大罪人だぞ」

 慌てて否定するフィルを、メイシーがにやけ顔で見つめる。

「そうだねえ、フィルのお兄さんはまさに女の敵! って感じだよねえ。あのかっこよさはねえ。それでまだ結婚する気がないってんだから。それに比べて弟たちの垢抜けなさ、ちんちくりん具合は一周回って安心感すらあるね!」

 メイシーがケラケラ笑う。

「なんで俺とシェオマが急に罵られてるのか知らんが、とにかく俺はナターシャとどうこうなる気はない」

「キッパリハッキリ、しっかり振りなよ。やんわり断るからダメなんじゃないの」

「無茶言うな、できるかそんなこと」

「やーい、ダメ男、優柔不断、雑魚」

 フィルが溜息と共に立ち上がる。

「お前ほんと覚えとけよ」

「お、もう行くの?」

「ああ、師匠今日忙しいんだろ? また後日来るわ」

 フィルは懐中時計で時間を確認する。師匠の仕事が一段落するのを待っていたのだが、なかなか来ない。

「分かったー、伝えとく」

 ぱたぱたと手を振るメイシーに背を向け、足早に詰所をあとにする。

 敷地を通り抜け、背の低い柵の扉を開ける。

「やあ、フィル」

 聞き覚えのある声、ヘーゼルの髪。

「ああ、あんたか……ジャック」

 ジャックはニコリと笑うと、緩やかな足取りでフィルに歩み寄る。

「また会ったね……おや、その包帯、怪我かい」

「まあな、色々あって」

 フィルが包帯の上から傷に軽く触れる。

「へえ、色々。よければその話、詳しく聞かせてくれないか?」

「……いや、いろいろというか、その、お恥ずかしい話なんだが、先日転んで石に頭を」

 フィルが頭を掻く。

「なるほど、ふふ、意外とどんくさいんだな、君は」

 ジャックは小さく笑った。

「ああ、お恥ずかしい限りで……。そういえばあんた、この辺に住んでるのか? 結局ここの見学はできたか? 良ければ紹介するが」

「あ、いや、私……僕は」

 言葉に詰まるジャックをよそに、フィルが詰所の方を振り返った。

「今なら……」

 フィルが言葉を言いかけたところで、上着のフードを被った背の高い男が現れ、小走りでジャックに駆け寄ってくる。

「あ、あ、あの、ジャック、えと、そ、そろそろ、じ、じじ、じかっ、時間……」

 男は酷く吃りながらも、ジャックの服の裾を小さく引いた。

「ああ、そうだったな。すまないがこのあと用事があってね、申し出はありがたいが今日は遠慮させてもらうよ」

「そうか」

 ジャックは手を振って、フィルに別れを告げる。そのまま詰所を離れ、人気のない裏路地へ。

「すまない、助かったよ、ネロ」

 ジャックが男をネロと呼び、被いたフードを捲る。露わになる金と赤の交じった色の髪、そして側頭部から生える長さの違う二本の、角。

「あ、う、うん」

「結構ガード硬いんだよな、彼。意図してかどうか分かんないけどこっちの素性も気にするし……。結局神官竜が更新されるって噂は未検証のままか。もうちょっと何か聞き出せればよかったんだけどな」

 ジャックは顎に手を当てる。

「ち、近いうちに、その、分かる、と、思う、し、だ、大丈夫」

 ネロが遠慮がちにジャックの肩を叩く。

「そうだな! 気にしてもしょうがないか。今分かったところでどうにもならないしな」

 ジャックは努めて明るい声でネロの言葉を肯定する。

「うん……。えっと、あの、な、何かあっても、ぼ、僕が、その、僕が、ジャックを、ま、まま、守る、から」

「ああ、頼りにしてるさ。さあ、行こう。フード被る、角隠して!」

「え、あ、うん」

 ネロとジャックは、静かに裏路地を歩いてゆく。



「あらあら、大変だったのね」

 エマが頬に手を当てる。その穏やかな表情からは感情が読み取れない。

「いやほんとに、なんというか、疲れたなあ」

 フィルは大きく溜息を吐いた。

「なんだかんだで、お前とくだらない話に興じているときが一番落ち着けてるかもな」

「まあ、それは光栄ね」

 相変わらずエマが何を考えているのか、フィルにはよく分からない。

「やっぱりさ、俺もそれなりに頑張ってるわけだから、泣かれたり怒られたりするのは本意じゃないっていうか」

「ええ」

「いやそりゃ俺だってね、自覚はあるよ。修行が足りないとか、戦況をもっと的確に判断する能力だったりとかさ」

「そうね」

「でもやっぱり、そのときどきで自分にできることをするしかないわけじゃん」

「分かるわ」

 当たり障りのない相槌を打つエマを、フィルが訝しげな表情で見つめる。

「なあ」

「何かしら」

「やっぱりその……お、怒ってるか?」

 エマは穏やかな表情のまま、首を縦に振った。

「愚問ね」

「やっぱりかぁ」

 フィルは大袈裟に頭を抱える。エマは何を考えているのか分かりづらいが、分かりやすく怒ったり泣いたりしないだけであり、意外と感情は豊かだ。

 フィルからしてみれば、エマは特に口煩くもないため、彼女が怒っていても自身がどうということはないが、それゆえにただ怒らせておくのは申し訳がなく、放置するのは気持ちが良くないといったところだ。

「悪かったって。そりゃあ、事前に気をつけるよう忠告を受けてこのざまで帰って来たのは悪いとは思っているがな、今回のは事故だったっていうか」

「いいのよ」

 エマは落ち着いた様子で言葉を続ける。

「あなたは誰に何を言われても変わらないんだから、私が多少何かを言ったところで何の意味もないのは分かってるのよ。私が言いたくて言ってるだけなの」

「そんなカラムみたいなこと言うなって。俺だってこう見えて一応努力はしてるし……」

「あなたはもう少しカラムみたいにふてぶてしくなった方がいいんじゃないかしら」

 エマが肩を竦めた。

「ハ? それってどういう」

「いえ、なんでもないわ。忘れて頂戴」

 困ったような表情のフィルをよそに、エマは神殿の奥の方を見遣る。奥の出入り口では、神殿の職員や他の神官と思われる人たちがあくせくと行ったり来たりしている。

「そろそろ行かなきゃ、神官竜の任命式の準備が始まってしまって少し忙しいの」

「ああ、悪いな。時間取らせちまって。俺はちょっとスーシャの様子見てから帰るよ」

「そう。彼ならこのあとは登城のはずだけれど……今ならまだ部屋にいると思うわ」

 フィルは、神殿の奥へと進んで行くエマのあとをついて歩く。

「じゃあ私は、ここで」

 奥の扉の手前まで来ると、エマはフィルに手を振り、あくせくと行ったり来たりしていた人たちに合流する。

「ああ、またな」

 フィルは手を振り返すと、扉を開けて奥の通路を進む。

 幾つかの扉の前を通り抜け、最奥の扉の前へ。扉の両脇には、神殿の守衛が一人ずつ立っている。

「お疲れさん」

 フィルが片手を上げて挨拶をすると、守衛は小さく頭を下げた。

「お疲れ様です」

 そうして、フィルは扉を数回叩く。中からの返事。

「誰だ」

「俺だ……、フィルだ」

 しばらく間を置いたあと、再び返事。

「……入れ」

 フィルは扉を開け、中に入る。

 部屋は意外と広く、開放感のある造りになっている。

「よく来たな、このあと登城の予定になっておってな、あまり時間は取れないが……まあ座るとよい」

 部屋の奥で本を手に机に向かっていたスーシャが、手前の椅子を指し示す。

「失礼する」

 フィルは部屋の奥へ進み、スーシャと向かい合う位置の椅子に腰掛けた。

「で、どうだ調子は。上手くやれそうか?」

 スーシャは手元の資料と思しき本に栞を挟んで閉じると、机上に置いた。

「ああ、お陰様でな。少し部屋が広くて落ち着かないが……人は皆親切だ。食事もうまい」

「そりゃ、よかった。何かあったら相談に乗る、邸の方に連絡くれ」

「すまないな、気を使わせて」

 フィルは、スーシャの置いた本に目をやる。革装丁の分厚い本だ。

「歴史はなんとなく分かったか?」

「まあ、なんとなくはな。今詳細を読み込んでいるところだが、しかしそうか、天下のシルヴァルドが」

 スーシャはほうと息を吐いた。

「天下のシルヴァルド王国も、今や国土は戦前の半分だ。戦前は大陸内でも中心的な立場にあったようだが……ヘルドニアが成立してからは、さぞや肩身の狭いことだろうな。知ってみてどうだ、シルヴァルドに移りたいか」

 フィルが問う。暫し、ひやりとした沈黙が石壁の部屋を覆った。

「いいや」

 スーシャは首を横に振る。

「移り変わるものだ。歴史も、国も。今、我はこの国に必要とされて、こうしてここにいる。過去に固執しても仕方ない、そうだろう?」

「はは、そうだな」

 フィルは軽い調子で笑った。スーシャが椅子から立ち上がる。

「さて、そろそろ登城の時間だ。城に向かうとしよう」

「ん、そうか。じゃあ俺も、ここらでお暇するとしようか」

 そう言うと、フィルも席を立った。

「改めて、よろしく頼むよスーシャ」

 フィルが手を差し伸べる。

「ああ」

 スーシャは、差し伸べられた手を取った。

「では、この国の行く末を見届けさせてもらうとしようか」

 そう言うと、神官竜は小さく笑ったのだった。

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