conference ―会議
リビングに戻ると、テーブルに食事がセッティングされていた。
「人様のおうちで勝手にやっておいてなんだが、お昼ご飯だ」
「わ……」
トマトソースのパスタだ。ほんのりとバターと胡椒の良い香りがする。
「こちら、光熱費と食材のお金」
翰川先生が小さめな封筒をつまむ。
「だっ、大丈夫ですよ? 翰川先生も食べるんですから。むしろ作ってもらった私の方が」
「じゃあキミへのお小遣いだ。頑張る女の子にお姉さんからの贈り物だぞー」
彼女は『はいどうぞ』と可愛い声と綺麗な笑顔で差し出してくる。
台所側からカウンターに身を乗り出す彼女が背伸びをしているのは明白。
そうとなれば足の悪い彼女を待たせるわけにもいかない。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
折を見て、彼女の好きなりんごのスイーツでお礼をしよう。
「……」
「ん。リーネア、どうした?」
「…………。なんだか、すごくいい香りだなって」
彼は、家に住み着き職人としての腕を振るう妖精の一種:レプラコーン。
家の仕事のお手伝いをしてくれた妖精さんへのお礼は、皿一枚分のミルクかクリームだ。転じて、彼らは乳製品好き。
本能的に好ましいものだから、記憶がなくともバターの香りを心地よく感じているのだろう。
「嬉しいな。さあ食べよう。席に着いてくれ」
「はい」
「「「いただきます」」」
リーネア先生は疲れていたようだったので、後片付けは私が任されて引き受け、彼は部屋で休んでいる。
「さて。お話の時間だ」
「はい」
「む。……驚かないんだな?」
「森山くんと佳奈子から聞いてるんです。翰川先生は凄く頼りになる人だって」
「……ん……」
赤い顔の翰川先生が可愛い。
「こ、光栄だ。早速、僕が推測してみたことを伝えていこう」
咳払いして体勢を立て直す。
「記憶が吹っ飛んだ理由は簡単だ。忘れたいことが……いや。その時の彼にとって忘れていたいことがあったから、パターンがその強烈な思い込みを実現し、記憶をロックしてしまった。頭に衝撃を受ければさすがにコントロールも狂うだろうしな」
「どうして……忘れたいなんて」
「……なぜ忘れたかったのかは、まだ言えない。なので、どういうことを重点的に忘れているのかをお伝えする」
私も頷く。
「まず、本人の感覚だ。これは問題ないらしい」
「感覚ですか」
「うむ。流暢な日本語を話しているためわかりにくいが、彼の母語はオランダ語。本当に記憶がないのなら、滑らかに日本語を話せる自分に違和感を抱いてもおかしくない」
「確かに……」
目覚めてからすぐの病室でも、私たちに日本語で応答していた。
「また、スニーカー」
「あ。ですよね。靴を脱ぎ忘れて……」
「それもそうだが、靴紐だな」
翰川先生は紐をほどくような動作をしてみせた。
「スニーカーを脱ぐときに、わざわざ紐を緩めるなんてあり得ない。結ばず、かつ、解かず済むように……すぐ履けるような力加減で慣らしているはずだ」
「……」
「リーネア曰く『靴紐を結んでいるときほど無防備な瞬間はない』と。屋外と室内で脱ぎ履きが必要な日本ではそういう習慣をつけているのだそうだ」
よく見ている。
些細なことでも忘れない完全記憶であることもそうだが、観察力と洞察力が凄まじい。
「忘れているのは、主に戦場で培われた習慣と癖だ」
「日本は戦場じゃないと思います……」
「彼は戦場と日常を区別しないから、起きている限りどこであろうと警戒している」
「…………」
我が先生ながら凄まじい。
「知識に関しては付随する情報がうっすらと残っているようだな。本を読んだ記憶があるそうだから。……あと」
「?」
彼女は申し訳なさそうに言う。
「さっきはすまない。……泣いたのは演技じゃないんだが……あのままでは、平時のリーネアと現在のあれとの乖離に嘔吐してしまうところだったんだ。危なかった……」
「ひ、ひどい」
「いや、キミも思うだろう⁉ あの戦争主義者がライフルを拒否するなんて天地がひっくり返っても有り得ない……!」
「う……」
リーネア先生は数多くの銃器を所持しており、その中でも格別な思い入れがあるのは、ふとしたときに手に握るあのライフルだ。
柄が木製で――銃器にこんな表現を使っていいのかわからないが――素朴で飾り気のないライフル。
軍隊で使われるような厳ついものではなく、狩猟で使われるようなもの。
私は銃器に詳しくないので、先生のライフルがどういう名前なのか、どこの国で作られたのかもわからない。
「……本来、リーネアはライフルを常に手元に置く」
銃刀法違反ではあるが、武器を虚空に隠しこめる技能を持つ彼には、そういったことを追求しても詮無きことだ。
「彼の技能である”武器庫”の中にも、取り出しやすい位置とそうでない位置があって。あのライフルは必ず前者に配置されている。そう思ってほしい」
「つまりは、そうするほどに大切なものだと」
「うむ。あれは彼にとっての精神安定剤。ライナスの毛布というやつだ」
ライナスの毛布とは、要は幼児が自分の体臭のついた枕やタオルケットを好んだり、ぬいぐるみをいつでもどこでも持ち運ぶような……そういったお気に入りの物に執着することだ。
もしくは執着しているもの自体を『ライフルはリーネア先生にとってライナスの毛布だ』みたいに表現する。
成長するにつれて執着はなくなっていくが、小さいころから執着がずっと続く人も、大人になって新たに何かに執着する人もいる。
「……」
幼児の心理学を解説した本で読んだワードだが、確かに当てはまっているかもしれない。
思い返してみれば、リーネア先生がライフルを触っていない日はなかった。
「お母さんとお父さんから貰ったライフルなんだって言って……大切なものなんですよね」
彼は義理のお姉さんに育てられたと言っていた。しかし、彼には実のお父さんとお姉さんが居て。
ご家族と已むに已まれぬ事情で離れ離れになったから。その心のよりどころとして――
「……う、ウン。きっとキミの言う通りダヨ僕もそうオモウヨ」
――きっと大切にしているのだろう。
そう思ったのに、翰川先生が超しどろもどろになっていた。
指先はキーボードを叩くかのように危なっかしく震えて、視線はあちこちにバタフライ。
「あのう……ち、違うんですか?」
「『もらった』をどんなニュアンスで言っていたのかわからないが、間違ってはいない。間違っては、いないんだが……どういった場面で明かされたのだろうか?」
「えっと」
私自身、記憶が曖昧になりがちな体質なので自信はないが……確かあれは、リーネア先生と、森山くん&翰川先生の元へ訪ねに行く少し前の時間だ。
ライフルを手入れしている彼に、私は『誰かからもらったの?』と問う。
彼は少し考えてから答える。
『母さんと。父さん』
「という状況でした」
「……」
翰川先生は混乱を飲み込んで表情を真剣なものに切り替えた。
「京」
「はっ、はい」
美しい顔が凛として凄みを増す。
「キミは強い子だ。……リーネアはわがままを言うかもしれない。キミが思うより、リーネアは怪物……人からかけ離れた価値観と倫理観の持ち主かもしれない」
「……」
「それでも、支えてあげてくれないか。僕も考えるから」
「……もちろん、です。先生は私の先生なので」
――*――
見慣れない部屋は、他人の部屋かビジネスホテルにでも放り込まれたような気分にさせてくれる。
ビジネスホテルに泊まった記憶さえないわけだが、知識として知っていた。
「……」
でも、なんとなくこの部屋のことを覚えていて――思い出している。
用心深い自分は、ベッド下に金庫を隠している。隠した記憶があるわけではない。
そういう確信があるだけだ。
ほら、あった。
――職人が作り上げた、唯一無二の夕焼け色の金庫。
オレンジに色づいた金属は鏡の役割を果たせるほどにまで磨き上げられており、傷一つない。
とても腕の良い職人が、物を失くしやすい自分にとプレゼントしてくれたものだ。
「誰、が作……ったか」
思い出そうとすると頭痛がして苦しい。
「……」
一度恐れはしたものの、抗えなくて手に取ってしまったライフルの砲身を抱きしめる。
なんとなく安心する。
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