examination ―診察
ぐすぐすと泣く翰川先生を宥めながら、アリスさんとリーネア先生の会話を固唾をのんで見守る。
「貴様の名前は?」
椅子の上で優雅に足を組みながらこのセリフ。
「……わから、ない……です」
申し訳なさそうに身をちぢこめてのセリフ。
アリスさんが嘆息し、手に持ったペンで私たちを指し示す。
「ではそこの壁際の人たちはどうかな?」
「…………。すみません」
「謝った……! 恐いよぅ……」
「……リーネア先生も、謝るときは謝りますよ……?」
翰川先生から見たリーネア先生像がわからない。
「謝ることはないよ。眠る前のことは覚えているかな? 何かぼんやりとしたことでも、覚えていれば何でも教えておくれ」
彼は申し訳なさそうに首を横に振った。
「怖い……」
「翰川先生?」
「あれはリーネアじゃない。あんなの、違う」
異種族の人たちの友人関係がよくわからない。
「というか、キミだってわかるだろう。自分が知らないことについて質問された場合、リーネアの答えは『平素の無表情、または限りなく面倒くさそうな顔をして「は? 知るわけねえだろ」と言い切る』だろう!」
翰川先生の言い草には名状しがたい感情があったが……悲しいことに、確かに私もそう思う。
リーネア先生は、された質問でわからなかったことがあったとしても、心の底から済まなそうな謝罪をする人ではない。
3年の付き合いから、そこは自信を持って断言できる。
「というか、あんなに申し訳なさそうな顔をするはずがないんだよ。リーネアは、繊細な感情を顔に表せるほど器用な表情筋を持っていない」
「けっこう酷い言い方ですね……」
私たちの会話をよそに、医師と患者の問答は続く。
「自分の名前は?」
「……僕の名前。……リナリア・ヴァラセピスだと、名札に書いて……」
「本当に覚えていないとは」
「すみません」
リーネア先生は、アリス先生からの質問に困ったような顔をして答えている。
どことなく心苦しそうだ。
時折、苦笑さえしている――
「彼はあんな風に笑う性格をしていない。それに、一人称も……」
先生の一人称は”俺”。
「……」
本当に、記憶喪失。
「いや……そうではない。じゃなくて。……凄惨な記憶のないリーネアが、もしそのまま成長したらと仮定して……」
翰川先生がだんだんと普段の聡明さを取り戻していく。
オレンジの火花が散るレモン色の目を細めて、思考している。
「……仮定したら、認めざるを得ない」
「?」
「彼は双子なんだ」
「ふたご。ツインズですか?」
「なぜ英訳したのかわからんが、そうだ」
どうしてか、彼女はとても苦しそうな顔で呟いた。
「その双子の兄と、いまのリーネアは……見間違えそうなくらいに似ている」
一旦病室を出て、アリスさんがため息とともに言葉を吐き出す。
「脳への衝撃による一時的な記憶の混濁かな。当然ながら全部吹っ飛んだわけじゃないから安心しろ。……普通の目覚めとはいかなかったか」
「よ、良かった……」
ほっとして力が抜ける。
対照的に、翰川先生は硬い表情だ。
「悪竜の誇る天才:アリスとしては、どう思っているんだ?」
「んー?」
「こめかみをナイフで刺されても動けるように自己改造しているリーネアだ。……本来なら、中身の入っていない缶で頭を殴られても平然と動くし意識を維持するはずだろう」
私の精神の自己改造を心配していたリーネア先生が、まさかそんなにも苛烈な自己改造しているなんて。
アリスさんは知っているようで平然と答えた。
「ああ。どう考えても奇妙だ。そこは同感なんだが……時期が引っ掛かって仕方がない」
「…………」
渋面を作って翰川先生が黙り込む。
いつも朗らか天真爛漫な彼女にしては、非常に珍しい表情だった。
「京」
「は……はい!」
呼ばれて顔を向け直すと、アリスさんの恐ろしく綺麗な顔が間近にあった。
「っ」
「リーネアは、レプラコーンらしい工芸の職人技は使えないが、『自分の体と精神を道具のように使い潰す』・『武器を手足のように使いこなす』という点においては、むしろ超越的な天才だ。過去のレプラコーン全てと比べても、右に出る者はいない」
「……そ、れは」
「だから内向きど真ん中の貴様の教導役になったんだ」
「――?」
話が繋がっているようで、繋がっていない気がする。
「そうだね。ヒントが必要だ。竜らしく、勇敢なる乙女に謎をかけよう」
竜? Dragon。
彼女が竜なら、弟のシェル先生も?
「弟は鬼だよ。何ら恥じるところのない純粋な鬼畜だ」
「!」
「やっぱり難しいなあ。格好つけてあれこれ言ったが、会話のテンポが掴めない。結局は私も悪竜かあ」
アリスさんは初めて無邪気に笑った。
――狂的に笑う。
「オツムが弱くて仕方がない貴様に恵んでやろう。これもまた竜だ」
「っ」
彼女は私の額に人差し指を押し当てる。
「異種族は人間よりも精神と体の結びつきが強固だ」
「……?」
「体が影響を受ければ精神も影響を受ける。その逆もある。そこは人間と同じながら、もっと直接的にダメージが波及していく。心が多大なダメージを受けたら、そのダメージをどうやって回復しようか?」
「それは。……時間が、解決することも……」
「時間では癒えようもない傷だったら? ――もしくは、喫緊の対応を要されるほど深い傷だったら? 今すぐにも傷を塞がねば血と臓物が流れ出るような風穴が空いたらどうだろう? 自然回復を待ちながらのうのうと死ぬのか?」
声が頭の中に染み込んでくる。
墨に端を浸した和紙に、じわりじわりと黒が広がっていくような――
「う、ぁ?」
「憐れでどうしようもない三崎京」
私は、彼女に名前を伝えていない。
「貴様とリーネアは、環境と程度さえ違えどそっくりだ。違うのは、精神を捻じ曲げたか記憶を封じ込めたか。ただそれだけ」
最後にひとつ、とても優しい声音が胸の中に降りてくる。
「――頑張りなさい、小さな子」
ふわふわと温かで明るい世界から戻ると、ぷんすかしている翰川先生が視界に映った。
「もー! アリスは結局、傲慢で強引で豪放磊落だな!」
『大丈夫か?』と心配そうに駆け寄ってくる。
見回すと、ここは『休憩室』の中だった。
「だいじょうぶ……です」
「そうか……どこか痛いところが出たら言うんだぞ」
「えっ?」
「アリスの神秘はお父さん譲りで……とっても竜らしい絶対命令のアーカイブだから、後遺症が出ないとも限らない。友人が済まない」
こくりと頷く。
「あの。竜って、ほんとにドラゴンの竜ですか?」
「ん。種族は竜。分類は宝石の魔法竜。……とっても美しく賢い種族なんだが、メンタルが極端な人が多くて……」
見ていたらなんとなくわかった。
「開示許可は出ているので伝えてしまおう。彼らは悪竜兄弟。アリスは不死生命と竜のミックス。シェルは鬼と竜のミックスだよ」
「『鬼畜』って自称じゃなかったんですね」
「うん。今思えば『鬼畜です』と言っただけで『自分の種族は鬼です』と伝えたつもりになっているんじゃないかな。慣用句の判断が苦手なシェルらしいお茶目なミスだ」
「……」
翰川先生はご友人に甘い。
森山くんの愚痴の意味がようやくわかった。
「アリスの思考を流されたら常人では理解も処理も不可能だ」
「なんとなくわかります」
アリスさんがシェル先生をも凌ぐ天才なら、彼女も突拍子もなく思考して、あっさりと答えまでたどり着いてしまうのだろう。
当然ながら、それは常人には理解不能な思考。
「僭越ながら僕が処理を肩代わりして、キミが受け止められるまでに情報を成形した」
翰川先生は人知を超えた演算能力を有している。
彼女に深々と頭を下げる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして! ……無事に目覚めてくれてよかったよ」
「ご心配かけました」
「ふふふ」
……翰川先生が可愛い……
海色の髪が揺れて綺麗。
うっかり現実逃避しそうになるほど綺麗だったが、なんとか意識を集中させて質問をする。
「どうして私に『ヒント』をくれたんでしょうか?」
「アリスやシェル、ついでにオウキの出身の異世界では、『謎かけ』というのは竜がするものだったんだ。こちらでいうスフィンクスと同じだよ」
「スフィンクス……砂漠の門番みたいな生き物ですよね」
「そうだ。キミにヒントを与えたのは謎を解いてほしいからに決まっている」
翰川先生ではなく、私に?
「謎?」
「……リーネアが記憶を失くしたのはなぜか。そういうことだな」
ますます、翰川先生の方がふさわしいと思えた。
「私に流し込まれた思考って、翰川先生も知ってますよね」
「それはもちろん。僕を誰だと思っている?」
超越演算と完全記憶の持ち主。
ある意味ではスーパーコンピュータよりも柔軟に素早く演算する天才。
「……あ」
一瞬、彼女に押し付けてしまいそうになった。
ヒントを与えられたのは私。
つまり――アリスさんは、記憶喪失の謎を私に解いてほしがっている。
「私。が、解く……?」
「そうだな。……でも、苦しいならいつでもギブアップしていい。オウキも何とかするだろうから」
「……翰川先生、優し過ぎます……」
「僕はいつでも、若者の幸福を願っている。重荷を背負うなら共に居るよ」
「リーネア先生は……?」
「検査を終えたら家に帰って良いそうだから、結果待ちだ。一緒に家に戻れるよ」
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